第25幕 風化する斬撃
逃げ場がなかった。コンコースはパニックに陥った群衆で埋め尽くされているはずだが、川添千秋の網膜は、それらを単なる背景のノイズとして処理し、焦点を一点に固定していた。
目の前に立つ、チャコールグレーのスーツの男。アンドリュー・ウォルフガングが、右手を軽く振った。
彼の手には、いつの間にか一本の細剣が握られている。金色の柄。だが、刀身が固定されていない。
銀色の液体――水銀のような不定形の物質が、重力を無視して細長く伸び、鞭のようにうねりながら空中に停滞していた。
「疾剣」。
「君のそのカメラ、いや『眼』は厄介だ。少し閉じていただこう」
アンドリューの手首が、指揮棒を振るように滑らかに動いた。
ヒュッ。
風切り音ではない。濡れたタオルを全力で振り回したような、湿った重い音が鼓膜を叩く。
川添は横へ跳んだ。思考ではない。視界の中心、剣が通る軌道の空間だけが一瞬「セピア色」に褪色し、世界の彩度が落ちた。その色彩の欠落に対する生理的な回避反応だった。
彼が直前まで背にしていた太いコンクリートの柱。そこに、音もなく亀裂が走った。
カサリ。
乾いた音がした。切断されたのではない。直径一メートルはある強固な柱の断面が、一瞬にして灰色に変色し、水分を失い、ボロボロと崩れ落ちたのだ。
数百年分の時間が、そこだけ圧縮されて経過したかのような崩壊。コンクリートの破片が床に落ちると、それは石の礫ですらなく、サラサラとした細かい砂になって飛散した。
「……あ?」
川添の喉から、空気の抜ける音が漏れた。
口の中が乾く。唾液が一瞬で蒸発したような感覚。目の前の現象が、脳のデータベースにある「破壊」の定義と一致しない。
物理的な衝撃ではない。鼻をつく臭い。火薬や硝煙ではない。
古い墓地を暴いた時のような、乾いた土とカビ、そして密封されていた死の臭いが、舞い上がった砂塵と共に川添の鼻腔を埋め尽くす。
「避けますか」
アンドリューが再び剣を振るう。
見えない。
刃の軌道が速すぎるのではない。空間そのものが歪み、光が屈折して、距離感が狂うのだ。
床のタイルの目地が、ぐにゃりと曲がって見える。遠近感の喪失。脳が「右だ」と判断しているのに、視覚情報がそれを裏切り、体が左に傾く。
川添は無様に床を転がった。その頬を、不可視の刃先が掠める。
「ぐっ……!」
痛みは鋭利ではなかった。熱いアイロンを押し当てられたような、鈍い熱量。
川添は頬を手で押さえた。血の感触を予想した。だが、指先に触れたのは、ヌルリとした液体ではなかった。
ザラザラとした、乾いた感触。
床の磨かれたタイルに、自分の顔が映る。頬の皮膚が、ひび割れていた。
傷口から血は出ていない。肉が灰色に変色し、魚の鱗のようにめくれ上がり、ポロポロと剥がれ落ちている。
乾いた皮膚片が、粉雪のように肩に積もる。細胞の死滅。乾燥。
「次で終わります」
アンドリューがゆったりと歩み寄ってくる。その足元、革靴が踏みしめるたびに、堅牢なタイルが砂に変わっていく。
川添は後退ろうとした。だが、足が動かない。
太腿の筋肉が石のように強張っている。自分の肉体が、次の瞬間にあの砂の山と同じ「無機物」に還元されるという映像が、あまりに鮮明に脳裏に焼き付き、筋肉への電気信号を物理的に遮断していた。
彼はただ、砂になった柱の残骸が、空調の風に吹かれて舞い上がる様を、瞬きも忘れて凝視していた。




