第23幕 毛穴のない男
崎野駅の上りホームは、湿った熱気に包まれていた。
午後六時過ぎ。帰宅を急ぐ群衆が、ベルトコンベアに乗せられた肉塊のように密集している。
川添千秋は、ホームの中ほどにあるベンチに浅く腰掛けていた。隣には疲れた顔のサラリーマンが座り、向かいの柱には女子高生がもたれかかっている。
空気が重い。
雨上がりの湿度が、他人の汗の臭い、安っぽい整髪料、使い古した鞄の革の臭いを拡散させ、粘膜にまとわりつく。川添は眉間の汗を親指で拭った。肺が酸素ではなく、不快な有機物の混合ガスを吸い込んでいるような息苦しさがあった。
「――隣、よろしいですか?」
不意に、声がした。その声は、雑踏の騒音をすり抜け、川添の鼓膜だけに直接届いたかのようにクリアだった。
川添が顔を上げるより早く、その男はベンチの空いたスペース――先ほどまでサラリーマンが座っていたはずの場所――に腰を下ろしていた。いつ入れ替わったのか。認識の隙間に入り込まれたような違和感。
男は、完璧な仕立てのチャコールグレーのスーツを着ていた。ネクタイの結び目には数ミリのズレもなく、ワイシャツの襟は糊が効いて鋭利に尖っている。
この高温多湿の雑踏の中で、彼の皮膚だけが、乾燥したシリコンのようにサラサラとしていた。
アンドリュー・ウォルフガング。
川添の脳が認識する前に、鼻が反応した。
臭いが、変わった。
一瞬にして、駅のホームを満たしていた汗と生活の臭気が消失した。空気が滅菌された。
代わりに、鼻腔の奥を鋭利な針で刺すような、冷たく強烈な刺激臭が充満する。
ツンとする化学薬品の臭い。理科室の標本瓶。解剖実習室のステンレス台。
ホルマリンだ。
原液に近い高濃度の揮発成分が、川添の嗅覚細胞を直接焼いた。反射的に息を止めようとしたが、すでに肺はその毒気で満たされている。喉の奥がヒリヒリと痛み、咳き込みそうになるのを嚥下運動で押し殺した。
「良い夕暮れですね。世界が腐っていくのを見るには、絶好の時間だ」
アンドリューが微笑んだ。至近距離。川添の目は、彼の顔面に釘付けになった。
肌が、あまりにも滑らかすぎる。
髭剃りの跡も、小じわも、毛穴すら見当たらない。均一な色素。口角が上がっているが、目尻には皺が寄っていなかった。表情筋が連動していない。ただ、口というパーツだけが「笑顔」の形状に変形して固定されている。
有機的な柔らかさがない。精巧に成形された樹脂が、人間の真似をして動いている。
「……何の用だ」
川添の声は、錆びた蝶番のように擦れた。全身の毛穴が収縮し、鳥肌が立つ。足の筋肉が硬直して動かない。
逃げなければならない。だが、川添の右手は、意志とは無関係に釣りベストのポケットの中へ潜り込んでいた。指先が「映鏡」の硬いボディに触れる。
撮りたい。
この「作り物の笑顔」の下にある空洞を、レンズの傷越しに暴き出し、フィルムに焼き付けたい。
指先が熱い。恐怖で膝が震えているのに、人差し指だけがシャッターチャンスを求めて脈打ち、痙攣していた。
「返していただきたいのです。私の『鏡』を」
アンドリューの手が、川添の膝に置かれた。布越しの感触。
重い。
人間の腕の重さではない。中に水銀か鉛が詰まっているような、密度のある圧迫感。そして、冷たい。川添の体温が、触れられた箇所から急速に奪われていく。
周囲の音が消えた。電車の入線アナウンスも、乗客の足音も、全てが遠い水槽の外の出来事のように遠のき、ただ耳元で、このホルマリン臭のする男の呼吸音だけが、シュコー、シュコーと、人工呼吸器のような規則正しさで鼓膜を叩いていた。
「……断る」
川添は短く吐き捨て、立ち上がった。膝の上の重みが消える。彼は振り返らず、到着した電車から吐き出される群衆の流れに逆らって歩き出した。
背中に突き刺さる視線。それは殺気ではなく、標本を観察する冷徹な眼差しだった。
アンドリューは追ってこなかった。川添は改札へ向かう階段の途中で、一度だけ振り返った。
ベンチにはもう誰もいない。
ただ、アンドリューが手を置いていたステンレスの手すりだけが、そこだけ塗装が剥げ落ち、赤黒く錆びついて、ボロボロと粉を吹いていた。




