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第21幕 粘膜の接触

 夜の公園は、不快な湿度に満ちていた。雨上がりでもないのに、空気が重く(よど)み、肌にまとわりつく。

 川添千秋は、塗装の剥げたベンチに腰掛けていた。背中の()びた鉄枠が、シャツの繊維越しに冷たく背骨に触れる。

 目の前には、前原七穂が立っている。彼女の背後にある自動販売機が、ブーンという低い駆動音(くどうおん)を立てていた。そのコンプレッサーの(うな)り声に、水銀灯に群がる羽虫(はむし)の羽音が重なる。

 不規則なノイズ。

「……先輩。私、ずっと見てました」

 七穂の声帯(せいたい)が震えている。彼女は両手を胸の前で握りしめていた。関節の皮膚が白く変色するほど力が込められている。

 川添は視線を落とし、足元の砂利を見つめた。右足でリズムを刻む。貧乏揺すり。

 早く帰らなければならない。部屋には分解された「銀槍(ブレット)」がある。イヴェットの矢尻(やじり)の構造解析も終わっていない。

 あちら側の世界には、解明すべき物理現象が山積みになっている。

 時計の秒針が進む音が、脳内で拡大されて響く。あと何分、ここに拘束されるのか。

「あの人たちが来てから、先輩、どこか遠くに行っちゃったみたいで……怖くて」

 七穂が一歩踏み出した。砂利が靴底で()れる音がする。

 川添は顔を上げた。逆光の中で、彼女の顔が見えた。

 泣いていた。

 涙腺(るいせん)から分泌された水分が、頬を伝って顎に溜まり、表面張力で揺れている。人間的な反応だ。だが、その光景を見ても、川添の脈拍は一定のリズムを保ったまま、ピクリとも変動しなかった。

 むしろ、彼女の潤んだ瞳の光沢が、ガラス玉のように無機質(むきしつ)に見えた。

「好きです。千秋さんが」

 七穂が(かが)み込み、川添の肩に手を置いた。

 熱い。

 彼女の(てのひら)の湿り気が、肩の生地を通して浸透してくる。避ける間もなかった。彼女の顔が迫り、唇が重なった。

 目は閉じなかった。川添の(まぶた)は、故障したシャッター膜のように開いたまま固着(こちゃく)していた。

 至近距離。焦点距離数センチの世界。

 七穂の閉じた瞼が、小刻みに痙攣(けいれん)しているのが見えた。鼻の頭にある毛穴が開いている。ファンデーションの粒子が汗で浮き上がり、皮脂と混ざって酸化した(かす)かな臭いが、川添の鼻腔(びく)に入り込む。

 唇の感触。柔らかさではない。ただ、湿って熱を持った他人の粘膜(ねんまく)が、自分の口腔器官(こうくうきかん)に押し付けられているという物理的事実だけがあった。

 彼女の鼻から漏れる呼気。二酸化炭素を含んだ生温かい空気が、川添の顔にかかり、酸素の供給を阻害(そがい)する。

 息が詰まる。

 数秒が経過した。七穂が唇を離した。プハッ、と彼女が息を継ぐ音がする。頬を紅潮(こうちょう)させ、濡れた瞳で川添を見つめている。

 何か言わなければならない。言葉を探そうとした。だが、脳の指令よりも速く、脊髄反射(せきずいはんしゃ)が起きた。

 ズズッ。

 川添の右手が跳ね上がり、手の甲で自分の唇を乱暴に(ぬぐ)った。

 ゴシゴシと、皮膚が摩擦熱を持つまで(こす)る。唾液(だえき)の付着を除去する。思考を介さない、異物排除の反射動作だった。

「あ……」

 七穂の頬の筋肉が強張(こわば)り、さっきまで紅潮していた毛細血管(もうさいけっかん)から、一気に血の気が引いていく。蝋人形のような硬直(こうちょく)

 川添は、自分の手が何をしたのかを数秒遅れて認識した。喉が鳴った。言葉は出ない。

 自販機のコンプレッサーが、ガタンと大きな音を立てて落ちた。

 唐突(とうとつ)な静寂。

 その中で、川添の視線は、自分の手の甲に釘付けになっていた。

 手の甲の(しわ)に入り込んだ、赤い口紅の跡。

 それは愛情の証などではなく、顔料と、他人の粘膜から分泌された油脂のテカリであり、拭っても取れない有機的な「汚れ」だった。

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