第19幕 ノイズと口紅
駅前のチェーン系カフェは、暴力的なまでの喧騒に満ちていた。
自動ドアが開くたびに、外の湿った熱気と、店内の過剰に冷やされた乾燥した空気が衝突し、入り口付近のガラスが白く結露している。
川添千秋は、プラスチック製の椅子に腰を下ろしていた。尻の座りが悪く、安っぽいポリエステルの張地が太腿の皮膚にまとわりつく。
テーブルの上には、氷が溶けきって薄まったアイスコーヒーが置かれている。水滴がカップの表面を伝い、テーブルに小さな水溜まりを作っていた。
川添はストローの先で、黒い液体の表面に浮いた虹色の油膜を突いた。油膜は一度弾け、すぐにまた結合して元の歪な円形に戻る。
彼はその動作を繰り返した。
突く。弾ける。戻る。
指先に伝わる安っぽいプラスチックの反発力と、氷が溶けてカランと鳴る音だけが、ここが現実であることを保証していた。
「……先輩。聞いてますか、先輩」
正面から音波が飛んできた。
前原七穂だ。彼女はテーブルに身を乗り出し、眉間の皮膚を寄せてこちらを見ている。店内の照明が暖色系のLEDであるせいで、彼女の肌の毛穴や、ファンデーションの浮きが不自然に強調されて見えた。
彼女の唇が動いている。口輪筋が収縮し、口腔の形状を変え、肺から呼気を押し出す。
音は聞こえる。だが、七穂が唇を動かして紡ぐ信号は、地下鉄の通過音と同じ、単なるデシベルの塊として鼓膜を素通りしていく。
川添の耳の奥、三半規管の隙間で、キーンという鋭利な電子音が鳴り響いているからだ。その持続音が、彼女の言葉から意味を削ぎ落とし、ただの不快なノイズへと変換していた。
「最近、おかしいですよ。編集長も怒ってました。現場に行っても写真も撮らずに、ずっと空ばかり見てるって……」
七穂の言葉が、断片的に鼓膜を叩く。編集長。現場。写真。単語の羅列。
川添は視線を落とした。七穂の手元にあるホットコーヒーの紙カップ。その白い飲み口に、べったりと赤い口紅の跡が付着している。
粘膜の脂と色素が、工業製品である紙カップの繊維に食い込んでいる。
その赤色が、ひどく生々しい「汚れ」として網膜に焼き付いた。かつては日常の一部だったはずのその痕跡が、今の川添には、衛生的な空間に付着した異物のように見え、喉の奥がヒクリと痙攣した。
「あの転校生……飯野さんのことですか?彼女が来てから、先輩、ずっと上の空で」
七穂の声のピッチが上がった。彼女の瞳が潤んでいる。涙腺から分泌された水分が、眼球の表面張力で留まり、照明を反射して光った。
川添はストローで油膜を激しくかき混ぜた。
帰りたい。ここを出て、あの酢酸の臭いが充満する部屋に戻りたい。
そこには「映鏡」がある。昨夜撮影したデータの現像も終わっていない。飯野とイヴェットが持ち込んだ武器の構造解析も途中だ。
あちら側の世界には、解明すべき死と物理法則の歪みがある。それに比べて、ここにあるのは何か。
薄まったコーヒー。既製品の会話。他人の体液の跡。
空気が薄い。情報の密度が低すぎて、肺が酸素を取り込めない錯覚に陥る。
「……千秋さん!」
七穂がテーブル越しに手を伸ばし、川添の手首を掴んだ。ビクリと川添の肩が跳ねた。
熱い。
彼女の掌は湿っており、橈骨動脈がトクトクと脈打っているのが伝わってくる。温かい血が流れる、生身の肉体。
その体温が皮膚を通して侵入してきた瞬間、川添は反射的に手を振りほどいた。
勢いでコーヒーカップが倒れそうになり、氷がカランと乾いた音を立てた。七穂が目を見開き、凍りついたように動きを止める。
「ああ……すまない。少し、眩暈がした」
川添は短く言い捨て、倒れかけたカップを指で押さえた。結露した水滴が指を濡らす。
冷たい。
七穂の温かい手よりも、この無機質なプラスチックの冷たさの方が、今の彼の皮膚感覚には馴染んだ。
店内にはジャズ調のBGMが流れている。サックスの音が、七穂の震える呼気音と混ざり合い、区別のつかない環境ノイズとなって、川添の意識の外側を滑り落ちていった。
彼はただ、カップの縁についた赤い汚れから目を逸らすことだけに集中していた。




