第20幕 ホルマリンの予兆
崎野駅の改札を抜けると、夕暮れの赤い光が視界を灼いた。
人の波に酔う。無数の靴底がアスファルトを叩く乾いた音、バスのエアブレーキが吐き出す圧縮空気の音、そして信号機の電子メロディ。すれ違うサラリーマンの汗と、整髪料と、古びた革鞄の臭い。それらが湿った熱気の中で混ざり合い、巨大な一つの唸り声となって川添千秋の鼓膜を圧迫していた。
暑い。
シャツの襟元が汗で張り付く。川添は眉間の汗を親指で拭いながら、国道沿いのガードレールに沿って歩いた。排気ガスの微粒子を含んだ重金属の空気が、肺の底に澱のように溜まっていく。
異変は、唐突に起きた。
呼吸をした瞬間、世界から雑踏の臭気が消失した。
排気ガスも、汗の酸っぱい臭いも、近くの飲食店から漂う焦げた醤油の香りも、フッと断ち切られたように消えた。
代わりに、鼻腔の奥を鋭利な針で刺すような、冷たく強烈な刺激臭が充満する。
ツンとする、薬品の臭い。理科室の標本瓶。あるいは病院の病理検査室。
ホルマリンだ。
原液に近い高濃度の化学物質が、川添の粘膜を直接焼いた。
「……っ、ぐ?」
川添は足を止め、口元を手で覆った。喉が痙攣して閉じる。酸素を取り込もうとしても、呼吸器がこの空気を拒絶して収縮し、ヒューヒューという細い音だけが漏れる。
涙目で顔を上げた。視界の先には、駅前の商業ビル群が立ち並んでいる。夕日を反射するガラスの壁面、コンクリートの躯体。見慣れた風景だ。
だが、川添が瞬きをしたそのコンマ数秒の間、世界のテクスチャが書き換わった。
音がない。
ビル群の表面が、乾いていく。
コンクリートの表面から水分が一瞬で抜け、カサカサにひび割れた。亀裂が走る。巨大な建造物が、固形としての維持力を失い、サラサラと音を立てて崩れ始めた。
鉄骨は赤錆の粉となって空中に舞い、強化ガラスは白く濁って砂へと還る。
爆発的な破壊ではない。静かな、しかし絶対的な崩壊。
灰色の砂山へと変貌した街が、夕日の赤色を吸い込み、どす黒い紫色の粒子となって川添の視界を覆い尽くす。
川添の瞳孔が開いた。瞼が閉じない。
生命活動が停止し、物質としての形を失い、ただの「無機質な砂」へと還元されるその物理現象に、彼の眼球は乾燥して張り付くまで固着していた。
「オェッ……」
ガードレールに両手をつき、アスファルトに向けて胃の中身をぶちまけた。酸っぱい液体が喉を焼く。
顔を上げる。
ビルは建っていた。ひび割れも、砂の山もない。通常の、薄汚れたコンクリートの塊に戻っている。
だが、川添の平衡感覚は戻らなかった。地面が斜めに傾いているように感じる。ガードレールの塗装の冷たさと、掌に食い込む鉄の硬さだけが、頼りない現実との接点だった。
「……何やってんだ、あの人」「飲みすぎじゃね?きったねえ」
背後から、若者たちの声が聞こえた。靴音が遠ざかっていく。
川添は口元を手の甲で乱暴に拭った。彼らの目には、自分はただの酔っ払いに見えている。
だが、川添の鼻腔には、未だにあの強烈なホルマリンの刺激臭がこびりついていた。
なぜ気づかない?足元の地面が、いつ砂になって崩れ落ちるか分からないというのに、なぜ平気な顔で歩ける?
周囲の人間が、同じ言語を話す別の生物のように見えた。世界と自分との間に、分厚いガラスの壁が一枚隔てられたような断絶感が、防腐剤の臭いと共に川添の全身を冷たくパックしていく。
川添は震える指で、釣りベストのポケットを探った。カメラ。「映鏡」の硬い感触に触れる。
指先が痙攣する。
重力に負けたように膝が笑っているのに、右手の人差し指だけが、あの崩壊の瞬間を――砂に変わる「死」の物理現象を記録したくて、シャッターボタンを求めて小刻みに跳ねていた。




