第02幕 風のない嵐
午前三時。南澄大橋の歩道は、水銀灯の青白い明滅に晒されていた。
川添千秋は、錆の浮いた鉄製の手すりに三脚を固定し、雲台の水平器を指で弾いた。黄色い液体の中で、気泡が中心に収まるのを待つ。
川面から吹き上げる湿気を含んだ冷気が、コンクリートの表面を濡らし、靴底に張り付くような粘り気を与えていた。
「……露出、六十秒」
白い呼気が、形を保ったまま闇に溶ける。親指でレリーズを押し込む。
カシャッ、というシャッター幕の走行音が、橋を行き交う深夜トラックのタイヤ音――アスファルトを噛む甲高い摩擦音――と重なって響いた。
彼はベストのポケットから缶コーヒーを取り出し、プルタブを開けた。
ぬるい。
口をつけると、甘ったるい液体が舌の上に膜を作る。空を見上げる。街明かりに殺された夜空は、濁った灰色をしている。
彼は足元に置いたカメラバッグのジッパーを、意味もなく開け閉めした。ジジッ、ジジッという金属音が、トラックの走行音の隙間を埋める。
フィルムの上には、今この瞬間も光の粒子が降り積もっているはずだ。だが、現像するまでそれはただの黒い帯でしかない。彼は冷え切った缶の表面についた結露を、親指の腹で強く擦り落とした。
一分が経過する。巻き上げレリーズが戻る微かな音がした。川添は中身の残った缶を足元に置き、ファインダーを覗き込んだ。
左目を閉じ、右目を接眼部のゴムに押し付ける。レンズの中の世界は、肉眼よりも一段階暗く、緑がかって見えた。
ピントリングを回す。無限遠に合わせていたフォーカスを、手前の河川敷へと寄せる。レンズの中央、わずかに右側に走る微細な亀裂。
その傷の向こう側に、川岸に生い茂る蘆の群生が映り込んだ。
蘆が、のたうち回っている。
揺れているのではない。見えない巨人に踏みつけられたように、茎が地面と平行になるまで押し潰されている。激しい暴風だ。葉と葉が擦れ合い、千切れ飛ぶ寸前のたわみを見せている。背景の川面は白波を立てて逆巻き、泥水が岸壁を洗っていた。
「……風が、出たか」
川添は三脚の脚を掴んだ。風で倒れないよう、体重をかける。その手が、金属の冷たさを伝えたまま止まった。
肌に当たる空気は、死んだように凪いでいた。前髪の一本も揺れていない。欄干に置いた缶コーヒーから立ち上る湯気は、垂直に立ち上ったまま、煙のように滞留している。
無風だ。
川添はファインダーから顔を離した。肉眼で河川敷を見る。街灯の乏しい闇の中、蘆の群生は直立不動で静止している。墓標の列のように、微動だにしない。
再び、右目をファインダーに押し付ける。接眼部のゴムが、眼窩の骨に食い込む痛み。
――暴風が吹いている。
レンズの枠内だけが、物理法則の異なる空間に接続されている。蘆は悲鳴を上げるように地面にひれ伏し、川の水面は激しく波打っている。
音はない。
ガラスの向こう側で起きているパニック映画のように、映像だけが激しく明滅している。
「……なんだ」
川添はピントリングを限界まで回した。グリスの切れたリングが、キュルキュルと乾いた音を立てる。フォーカスが外れても、光の滲みは激しく揺れ続けている。
三脚の脚を蹴ってみる。硬い感触。固定は完璧だ。
彼は瞬きを繰り返した。乾いた角膜が、瞼の裏側で紙やすりのように擦れる。もう一度覗く。やはり、亀裂の向こう側だけが嵐の中にある。
右目は「風速三十メートル」の破壊的な映像を捉え、全身の皮膚と三半規管は「完全な静寂」を知覚している。
足元のコンクリートが、急に柔らかくなったように感じた。平衡感覚の水平器が狂う。直立しているはずなのに、体が斜めに滑り落ちていくような錯覚。
彼は反射的にカメラから手を離し、後ずさった。背中が錆びた手すりにぶつかり、鈍い音が響く。
目前の風景は静まり返っている。遠くの信号機が、機械的に赤から青へと変わる光景だけがある。
だが、彼の手の中にある空のコーヒー缶は、無意識の握力によって拉げ、ベコベコと不快な音を立てていた。口の中に、人工甘味料の後味がへばりついて離れない。
彼は恐る恐る、もう一度カメラに近づいた。
レンズの奥、あの亀裂の向こう側で、物理的には存在しないはずの風が、こちら側の世界を睨んでいる。




