第00幕 聖盾少女エスクード
ズンッ。
重い音がした。 六畳の和室。 長年踏み固められた畳のイグサが、内側から悲鳴を上げて湾曲する。
舞い上がった埃が、西日の中でギラギラと光った。 飯野愛恵が畳の上に下ろした、黒いチェロケース。 中に楽器など入っていない。 鉛の塊か、あるいは水死体でも詰め込まれているような、異常な質量。
階下から昇ってくる豚骨スープの獣脂の匂いが、鼻の粘膜にへばりつく。 それに混じって、部屋の半分を占拠する現像機材が放つ酢酸の酸っぱい臭気が、肺の底に澱のように溜まっていく。
「……しばらく、ここに厄介になります」
飯野の唇が動いた。 だが、その音声は、数コンマ秒遅れて虚空から鼓膜を叩いた。 ズレている。 映像と音声の同期エラー。
川添千秋は、自分の小指で耳の穴を力任せに掻き回した。 ジュッ、と粘膜が擦れる湿った音が、頭蓋骨に直接響く。 耳鳴りではない。 目の前の「少女の形をした何か」が、物理的な時間の流れを無視しているのだ。
カチリ。
飯野がチェロケースの留め具に手を掛けた。 わずかに開いた隙間から、空気が漏れ出した。
ツン。
強烈な鉄錆と、病院の解剖室で嗅ぐような防腐剤の刺激臭。 ホルマリンだ。 原液に近い高濃度の化学物質が、川添の嗅覚細胞を直接焼いた。
息を吸うたびに、気管支がチリチリと焼け焦げる。 喉の奥が痙攣し、酸っぱい胃液が食道を逆流してくる。
川添は足元を見た。 チェロケースの底から、黒く粘度のある液体が滲み出している。 機械油なのか、凝固しかけた血液なのか。 新しい畳に、どす黒い染みが急速に広がっていく。
目を逸らそうとした。 窓の外を見れば、国道を走るトラックの平和な騒音があるはずだ。 だが、釣りベストのポケットに突っ込んだ右手が、ズキリと疼いた。
痛い。
壊死して炭のように黒く変色した人差し指。 感覚のないはずのその部位が、心臓の鼓動に合わせてドクン、ドクンと脈打ち、血管を内側から引き裂こうとする。 指先の毛細血管が破裂し、爪の間から冷たい血が滲み出している感触。
俺は、指が痛いから動けないのだ。 この激痛が筋肉を麻痺させているから、あの扉を開けて逃げ出すことができないのだ。 頭の片隅で、そんな卑小で利己的な言い訳を、必死に組み上げようとしていた。
ガリッ。
不意に、川添の脳内で湿った破壊音がフラッシュバックした。 さきほど、階下のラーメン屋で、隣に座るこの少女が豚の軟骨を噛み砕いた音だ。
一定のリズム。 メトロノームのように正確な顎の開閉。 硬い有機物がすり潰され、食道へと落下していく、あの咀嚼音。
彼女は人間ではない。 血の通った温かい生き物ではない。
この、完璧に塗装された陶器のような肌の下には、生きた内臓など存在しない。 ただの、高濃度の汚染物質。 それが、俺の六畳間に寄生している。
部屋の空気が、セメントのように固まっていく。 重い。 肺が膨らまない。 肋骨が内側へめり込むような圧迫感。
天井の蛍光灯が、ジジジと不規則な音を立てて明滅を始めた。 光が途切れるたびに、チェロケースから広がる黒い染みが、意思を持った生き物のように畳の目を這い進んでくる。
視界の端で、部屋の隅にある現像液のバットがピシッ、と乾燥による音を立てた。 日常のテクスチャが、不快な摩擦音を立てて剥がれ落ちていく。
逃げろ。 足の筋肉が硬直し、後退を命じている。 だが、川添の眼球は、乾燥して張り付く角膜の痛みに耐えながら、その黒い汚泥を凝視して離れなかった。
撮りたい。 この圧倒的な異物の存在を、レンズの傷越しに暴き出し、フィルムに定着させたい。 恐怖を上回るそのどす黒い渇望が、彼をこの「異臭のする現実」にピン留めしていた。
もう、無菌の部屋には戻れない。
……ことの始まりは、この異常事態の数日前。




