第9話:忘れられないもの
外で延々と鳴き続ける蝉の鳴き声が煩わしい。
俺の心を掻きむしるように。
今日は実家でのんびりと過ごしているつもりだったのに、やはり落ち着かない。
畳の冷たさを感じながら、それでも俺の心はどこか熱が冷めなかった。
——美咲は今頃見合いをしてるのか
俺は窓の向こうの青空を眺めながら、美咲の顔を思い出していた。
あんな顔をしていたのに見合いはできるのか。
女というのは分からないものだ。
だけどあの笑顔の先に見えた影が、今もあるというのなら俺は……
「だめだ、落ち着かない」
俺は体を起こすと外に出る事にした。
家の中でじっとしていられない。
このまま家にいても美咲の事ばかり考えてしまう。
気分転換が必要だ。
財布とスマホが入った鞄を持つ。
目的地なんて特にない。
ただ外に出て気分を変えたい——
帽子を被ると俺は外に出た。
これだけ暑いと外を歩いてる人もまばらだ。
ただでさえ人が少ない網代がさながらゴーストタウンのように見えてくる。
俺はのんびり歩けるところまで歩く事に決めた。
海には行きたくなかった。
行けば昨日の美咲を思い出してしまうから。
俺は海から離れ国道をただ歩いた。
燦々と太陽が俺を照らす。
少し歩いただけで汗が滝のように流れてくる。
これは遠くまで歩くのは無理だな。
俺は途中の信号を渡り、海の方へと歩いた。
信号の先の下り坂。
木々が生えていて日陰になっている場所を選んで下っていく。
目の前に少し大きめの体育館が見えてきた。
あそこの裏なら人はいないかな、俺はそこを目指して歩く。
日陰になっているそこは、俺が過ごすには十分な場所だった。
波除の堤防に登ると俺は腰を下ろす。
潮風が心地よく、俺の中の余分な何かを洗い流してくれているようだ。
目を瞑れば風の音が聞こえ、波の音が心の中まで入り込んでくる。
ここから海を見た事はほとんどなかった。
学生時代によくこの体育館で遊んだものだが、裏に回ったことはない。
今の俺が心を沈めるにはもってこいの場所だった——はずなのだが。
「あれ……、ひょっとして祐樹さんですか?」
突然声をかけられ俺の体が震える。
振り向けばそこにいたのは、長い髪を潮風で流した女の子だった。
歳は俺より少し若いだろうか。
俺はその子に見覚えがあった。
「お前……、ひょっとして川口?」
俺が呼ぶと彼女——川口凪沙は昔と同じように明るい笑顔を見せた。
日焼けした頬が、陽に透けて眩しい。
「やだ、祐樹さん! 随分と他人行儀ですね!」
そう言いながら彼女は堤防の上に上がってくると、俺の隣に腰を下ろした。
「昔は私の事、凪沙って呼んでたじゃないですか?」
そういえばそんなだった。
凪沙はどこか人懐っこく、何故か俺の後ろをついて回ってた。
そういやその事で美咲に怒られたな。
俺は思い出してふっと笑った。
「久しぶりだな凪沙。高校以来じゃないか?」
「そうですね。同じ町に住んでたのに全然会いませんでしたよね」
俺は大学に入るといつも早朝に家を出て夜遅くに帰ってきていた。
だから彼女と会わなかったのも当然なのだが。
「お前まだここに住んでいるのか?」
俺が尋ねると凪沙は「まさか!」と言って笑う。
「私、今は東京で介護の仕事してますよ。祐樹さんは?」
「同じだよ。東京で医療機器の営業やってる」
そう言うと「やだ、もう!」と言って俺の肩を叩いてくる。
「それなら今度ご飯食べに行きましょうよ! 事前に言ってくれれば予定空けますから!」
「……そうだな」
その明るさが俺には眩しかった。
社会人になってもう何年も経つと、いつしかその明るさも失う。
彼女にとっては、今が一番楽しい時期なのだろう。
それが羨ましかった。
「祐樹さん、なんだか元気ないですね?」
俺の顔を見て不思議そうな顔をする凪沙。
今の俺はそんなに元気がないように見えるのか。
モヤモヤした気分を晴らすためにここに来たのに。
鏡を見なくても分かる。
まだ俺の顔には影が残っている。
「そんな顔してるか?」
「してますよ。高校時代に悩んでた時の祐樹さんにそっくりですから」
俺は思わず笑ってしまう。
彼女は本当によく俺を見ているな。
今の顔が、昔と同じ顔をしているなんて考えもしなかった。
「そういやなんで凪沙はここに?」
「法事があって帰ってきてたんですよ。それで思い出の場所に来てみたら祐樹さんがいたんです」
思い出の場所か。
俺にとっての思い出の場所は、今は行けなかった。
行けば心が辛くなるから。
今、美咲がどうしているか気になってしまうから。
「祐樹さん」
海を見つめながら俺を呼ぶ彼女。
「海っていいですよね」
ポツリと彼女はそう言った。
その言葉が俺の心を揺さぶる。
「……ああ、そうだな」
俺もまた海を見つめた。
「ここで海を見てると嫌な事を忘れる事ができる。だけど忘れられない事もあると思うんです」
忘れられない事。
その言葉がチクリと俺の心を刺した。
「無理に忘れなくてもいいと思います。きっとそれもいつかは大切な思い出に変わるから」
その言葉が、海風よりも静かに胸に沁みる。
俺は何も言えず、ただ海を見つめていた。
「凪沙、お前大人になったな……」
それに「酷い!」と返す凪沙。
でもその顔には笑みがあった。
俺もつられて笑ってしまう。
「私だって色々あったんですから……」
「そっか」
彼女もきっとこれまで辛い事もあったんだろう。
だけどそれを聞いてはいけないと思った。
彼女もそれを抱えていて、今は思い出に変えようとしているんだ。
俺と同じように。
「あ、そうだ」
急に思い出したように手にした紙袋をガサゴソと漁り出す。
そしていくつかの和菓子を差し出してきた。
「これ、法事でもらったお菓子です。祐樹さんが元気出るようにあげます」
「……ほんとお前変わらないな」
俺はその差し出された和菓子を受け取った。
夕陽が完全に沈むころ、彼女は手を振って去っていった。
——きっとそれもいつかは大切な思い出に変わるから
その言葉が俺の心から離れない。
俺の手の中には、いくつかの和菓子と、少し軽くなった心だけが残っていた。
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