第7話:まだ終われない夏
翌朝、俺は激しい頭痛に悩まされていた。
鈍い痛みが、脈打つたびに頭を叩いてくる。
昨夜の記憶の残骸がそのたびに揺れた。
これは昨日飲み過ぎた報いだな。
あの後、俺は散々隆也に愚痴を吐きながら飲み続けたのは覚えてる。
だけど家に帰ってきた記憶がない。
思い出そうとしても、この激しい頭痛が邪魔をする。
仕方なく俺は飲み物を買いに外に出た。
夏の日差しが俺の頭を刺激する。
頭痛が更に酷くなる。
これはちょっと耐えれるレベルじゃない。
早々にコンビニに駆け込むと、俺は水と飲むヨーグルトを買った。
何も食べないのは良くないが、さすがに何かを胃に入れておきたい。
かんかん照りの日差しの中、俺の足はなぜか自然に海に向かっていた。
海は見ていて心が落ち着く。
昨日抱えていたモヤモヤもきっと忘れさせてくれるはずだ。
ジリジリと熱を上げるアスファルトの道を歩き、やがて海へと辿り着いた。
道路を渡ると海への入り口がある。
左には海水浴場へ降りる階段。
下り坂の向こう、陽炎の中に灰色の堤防がぼんやり浮かんでいた。
堤防はまっすぐに伸び、途中で左に折れ曲がってまた伸びている。
俺はその折れ曲がった先まで歩いていき、しばらく海を見ていた。
波が堤防にぶつかるたびに白い飛沫が舞い、その音はまるで、昨日の言葉を打ち消すように響いていた。
ここにいて海を見ていれば、すべてを無かった事にしてくれる。
俺はただ、ゆらゆら動く波を見つめ続けていた。
潮風が俺の頭の痛みを少しだけ和らげてくれる。
海は人の心を穏やかにしてくれる。
そう思っていたのに、俺の心は突然揺さぶられた。
「祐樹、どうしたの?」
その声に慌てて振り向くと、そこには美咲がいた。
今、忘れようとしていた彼女が目の前にいる。
彼女の髪は昨日と比べて艶があり、美しい。
美容院でも行ってきたのだろうか。
「美咲、美容院でも行ったの? 随分と髪が綺麗になってる気がする」
そう言うと彼女は表情を曇らせながら「明日お見合いの日なんだ」と呟いた。
その声は波の音に溶けるように小さい。
その一言で、胸の奥に残っていた何かが崩れ落ちた気がした。
痛みが波のように押し寄せる。
パンドラの箱を開けてしまったような気分に、俺は少し落ち込んだ。
「祐樹こそ何してたのよ?」
彼女に聞かれ、俺は答えに迷いながら「癒されにきた」とだけ答えた。
それは本当の事だから。
彼女とさえ出会わなければ、俺はここで癒されて帰るつもりだった。
「そっか。私と一緒だね」
彼女は堤防の端に腰を下ろすと、足を海の方に投げ出す。
何を言うでもなく、俺もその隣に座った。
この時間が永遠に続けば良いのに。
そうすれば俺と美咲はずっと一緒にいられる。
だけどそんな事は許される訳はなく——
「昨日の封筒、開けてみた?」
残酷な質問が俺の心を殴りつける。
「開けたよ。あれどういう事だよ?」
彼女は遠い海の先を見ながら「過去との決別」と言った。
昨日隆也が言った言葉が思い出される。
——あいつはお前を忘れたいんだよ
なるほど。確かにその通りみたいだ。
今の彼女の前に、俺はいてはいけない存在のようだ。
「だからって俺に写真全部よこすか?」
そう言うと美咲は笑みを浮かべながら「ごめん」とだけ返した。
少し影を含んだその笑みに、俺の心が熱くなる。
ダメだ、我慢するんだ。
ここで俺が何か言ったら、彼女は先に進めなくなる。
「じゃあ、私そろそろ行くね」
美咲はゆっくりと立ち上がり、髪を風に揺らした。
その背中が少しずつ遠ざかっていく。
もう、振り向かない。
それが分かっているのに、俺はただ見送ることしかできなかった。
——これでいいんだ。
そう自分に言い聞かせる。
彼女は前に進もうとしている。俺が足を引っ張るわけにはいかない。
でも、胸の奥で、別の声が小さく鳴く。
——それでもいいのか? 本当にそれでいいのか?
昨日、隆也に言われた言葉が蘇る。
「それは美咲のためじゃなくて、お前のためだろ」
あの時は否定できなかった。今もできない。
俺は、美咲の幸せを願ってるようで、結局は自分の『未練』を正当化してるだけなんだろう。
分かってる。
頭ではもう何度も整理した。
彼女には彼女の人生がある。
俺の感傷なんかで、それを止めちゃいけない。
——でも、それでも。
もし、あの時もう少し踏ん張っていたら。
別れを選ばなければ。
この海辺を、彼女と一緒に歩けていたんじゃないか。
そんなありえたはずの未来が、どうしても消えてくれない。
潮風が頬を撫でる。
塩の匂いが混じって、目の奥が熱くなった。
涙じゃない。
そう思い込みながら、拳を強く握る。
堤防の上で一人、波の音に耳を傾けた。
隆也の言葉と、美咲の笑顔が交互に浮かんでは消える。
手放したい気持ちと、掴みたい気持ち。
2つの思いが、綱引きみたいに心の中で軋みを立てていた。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
どうしてまだ、あいつを——
波がひときわ大きく砕けて、しぶきが頬を濡らした。
まるで海が答えを出すように。
けれどその答えは、あまりにも静かすぎて——
俺には、何も聞こえなかった——
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