ゴリラの花屋 2(結び)
「珍しいですね、今日はバラですか?」
「え?」
スゥは涙を流していた。
丸い頬にいく筋も、いく筋も。
美しい花と言葉を眺めているうちに、どうしようもなく惨めになっていくのを感じてはいたけれど。
よれよれの前髪は瞳を隠してくれてはいたが、頬を流れる涙まではフォローしてくれなかったらしい。
「う~……えっ、うええええっ!」
咲き誇るバラに塩辛い水がかかるかもしれないと、一瞬しようもない事が頭をよぎったが、一度泣いてしまうと、もう止められなかった。
「ごめんなさい……すみません。お見苦しいところを」
しばらくして、スゥはやっと顔を上げる事ができた。
ハンカチでゴシゴシ拭いた顔はメイクが落ち、目も腫れて散々なのに違いなかったが、とにかく迷惑を詫びなければ。
と、店長がいない。
見ると店の外で、お客に対応している。店先に置かれたポットの苗を買いに来た客らしい。
会社帰りらしい女性が二人ほど、店長に育てるコツなどを尋ねているらしく、背の高い店長が膝を折って説明している。
しばらくして、彼はお金を受け取ると、ポットを持ってレジに戻り、ビニール袋と厚紙とで丁寧に梱包し、お釣りと共にお客に渡しに行った。
女性達は彼を見ながら、何か囁き合っている。
いけない、お仕事の邪魔に!
きっと私が泣いていたから、仕方なくそっとしてくれたんだ。
さぞや迷惑だったろうにお店に置いてくれた……。
店長の気遣いにスゥは、ほんの少し癒された気分になった。
しばらくして店長が奥に戻ってくる。スゥは真正面から彼に向き合った。
うわ、こんなに大きな人だったんだ。
前から体格のいい人だとは思っていたが、今までレジの奥のテーブルに座ってアレンジメントをしていたり、しゃがんで花の世話をしている事が多く、これほどとは思わなかった。
背が高いだけではなく、白いTシャツから伸びている筋肉質の首も腕も、ラグビー選手だと言ってもいいほどで、小さな店内をその存在感で圧倒している。
何度も足を運んでいる店なのに、スゥは花しか見ていなかったのだ。
なかなかイケメンだな、と軽く思ったくらいで、じっと顔を見たこともなかった。
「決まりました?」
深みのある声が落ちてきた。
「え? あ、ああ、ごめんなさい! 変なところお見せして、お仕事中なのに、ご迷惑おかけしました。もう、大丈夫ですから!」
一瞬、落ち込みを忘れていた自分に気がつき、スゥは自分に呆れてしまった。
ちょっとイケメン見たら、もぅこれ?
わたしのばか! お調子者!
「お花、バラを御入り用ですか?」
「あ……そう、そうなんです! 同僚が今度結婚するんで、皆でお祝いしようって。え、えと、予算はこれぐらいなんですが、花束にしてもらえます?」
「長持ちさせるなら、花束よりアレンジメントの方がいいですが、どうされますか?」
「あ、そうか」
そういえばそうだ。
大岡が花束と言うものだから、ついインプットされてしまったが、お花が長持ちする方がいい。
男の人は花瓶の水など、なかなか取り替えないだろうし。ウチに持って帰るのなら、そのほうがいいかもしれない。
大岡も特にこだわりはないだろう。
「じゃ、アレンジメントでお願いします」
即座にスゥはそう決めた。
「承知しました。では、お祝い用のラッピングにしますね」
「はい、お願いします」
店長はピンクのバラを中心に花々を選んでいく。
雄渾な体格に、不釣合いに小さいデニムのエプロンが可愛らしいな、とスゥは思った。
「チョイスはこんな感じでいいですか?」
片手に持った大きな花束をスゥに差し出しながら、店長は尋ねる。
「ああ! これでお願いします。とっても綺麗ですね! それにこんなにいっぱい!」
華やかで上品な色目の花束を見て、スゥは思わず声をあげた。
「籠はどれにします?」
さっきまではどうでもいい、と考えていた自分がいたが、やはり目の前の素敵な花々を見ると、せっかく綺麗に咲いたのだから素敵に飾った方がいいと思う。
スゥはたくさんの花籠の中から、ピンクと相性のいいように明るい籐の籠を選んだ。
パチン、パチン
花バサミの音を小気味よく立てながら、店長がオアシスに花を刺してゆく。
無骨ともいえる大きな手なのだが、指は長くて美しく、器用に花を盛り上げ、美しくアレンジができてゆく。
時折レジにお客が花を持ってやってくるが、スゥに会釈して丁寧に応対し、レジをすませると、また作業に向かう。
どんどん出来上がってくるアレンジメントと、それを創ってゆく大きな人に、いつしか夢中になって見とれているスゥがいた。
パチン、パチン。
ゆるく縮れた長めの前髪が揺れる。
前からハーフっぽいって思ってたけど、これじゃあまるでギリシア彫刻じゃない?
肌の色も浅黒くて、それも日本人が日に焼けたという感じではなく、オリーブがかった美しい肌色だ。
彫りの深い顔立ちと、官能的に厚くて大きめの唇。
ふと、彼が顔を上げた。
「え? や、じょ、お上手ですね」
不意を喰らったスゥはドキンとして、いい加減な言葉で取り繕った。
すると、やや下がり気味の黒い瞳が細められ、目じりに皺がよる。
彼は笑ったのだった。
その間にもどんどんアレンジメントはでき上がっていく。
「あ、あのぅ……さっきは泣いてしまってごめんなさい」
スゥは急に間をもたせたいと言う気分に陥り、花を見つめる店長の横顔に話しかけた。
「私……私ね、実を言うと、今日失恋しちゃって……実はそのお花も、好きだった人が結婚しちゃうお祝いなんです」
「そうなんですか?」
深みのある視線がスゥを捉えた。
「う、うん。なのに、花を買いに行く役を頼まれちゃって、断れなくって、我ながらなんて惨めなんだろうって思うと、急に情けなくなって、それで……悲しくて」
自分から言いだしたくせに、哀しみが蘇り、スゥは言葉が続かなくなった。
「この花知ってますか?」
出し抜けに店長は、オアシスに刺そうとしていたピンクの花を、スゥの鼻先で揺らした。
「え? ええ。スイートピー……ですよね?」
「う、花言葉は『優しい思い出』とか『門出』」
「はい」
「大丈夫です」
何が? と聞こうとして口ごもり、スゥは目の前の人を見つめた。
前髪の奥で、再び瞳が眇められる。
「あ、あのー、あのっ。なんでゴリラの花屋なんですか? このお店の名前。こんなにかわいいのに。えっと、すみません、前から何となく気になっていて」
「あだ名だったから」
「え?」
「小学校から高校まで、ゴリラって呼ばれてたんですよ、俺。だから」
ゴリラ?
でも、こんなに綺麗な男性なのに? 確かに少し、日本人離れしているけれど。
スゥの疑問が顔に出ていたのか、店長は今度は完全に唇を少しあけて笑った。
わ! セクシー!
「俺、祖父がボリビア人で、子どもの頃から体もでかくて、苛められてたから」
「え? ボリビアって、南米の?」
「ええ」
こんな素敵な人がいじめられていたなんて、信じられない。
「さぁ、できました。どうですか?」
なんと言ったものかスゥが考え込んでいると、花バサミを置いて店長が籠を差し出した。
バラ、カスミソウ、スィートピー、アルストロメリア、ストック等、ピンク系の色合いの花を中心に、見事なアレンジがされている。
「うわぁ、すごい……綺麗」
「ありがとうございます。ラッピングするのでもう少々お待ち下さい」
そう言いながら彼は、セロファンと不織布でカゴを包み込む。
手際いーい!
仕上げに、リボンをハサミでしごいてカールをつけると、瞬く間に美しいフラワーアレンジメントの包みが出来上がった。
「カードを入れておきますので、よければ後でメッセージをお書きください」
「あ、はい。ありがとうございます」
自分も書かなくてはいけないんだろうか? 可愛らしい罫線で囲まれたカードを見て、スゥはまた少し気分が重くなる。
「すみません。ちょっと待ってもらえますか?」
会計をすませ、大きな籠を抱えて店の外に出たスゥに、店長が声を掛けた。
「はい?」
店長はそのまま店内にとって返し、しばらくしてから出てきた。リボンを巻いた開きかけのバラを持っている。
凛々しく伸びた赤い花。
「これを、よければどうぞ。あなたに」
「え? 私に?」
「花言葉はご存知ですか?」
「えーと、確か……」
情熱とか?
なんだっけ?
「これは俺の気持ちです」
スゥが困惑しているうちに、思いがけない言葉が降ってくる。
「え……?」
目の前の赤いバラから、随分上の方にある静かな顔を、スゥは見上げた。
「いつも金曜日に来てくれてたでしょう?」
「あ、そうです。休日にお花見ていたくて」
「ずっと、待ってました。いつも嬉しそうに俺の育てた花に語りかけてくれてた。俺に乗り換えませんか? 口は達者じゃありませんが、気持ちと体の頑丈さだけは保障しますよ?」
「……」
「ああ、でも。振ってくれてもかまいません。今なら」
「……」
スゥの言語能力は、未だ回復しない。
「俺は、硲・エステヴァン・丞一郎。ジョーって言うんです。草壁すみれさん」
「あ……名前」
「前に地方発送を承った時に名前、知りました。ごめんなさい」
彼が少し頭を下げ、顔が近づく。
思わずスゥの背が弓なりになる。
「あの、そのぅ……それって、えーと……もしかして、あなたは私を好きだってことですか?」
「他にありますか?」
「だって、だって……私は今日、失恋したばかりで……」
「だから勇気を出して、やっと言えたんです。古い恋を忘れるには新しい恋を、って言うでしょう? すみません。すみれさんの気持ちが落ち着いてからでいいので、ちょっと候補に入れておいてもらえると嬉しいです」
「候補」
こりゃ、自分勝手だったかな?
と彼が呟くのが聞こえたが、スゥはどう反応していいのかわからなかった。
一日のうちに失恋と告白を経験するなんて、スゥの人生にはなかったことだ。
真摯な黒い瞳から逃れるように、スゥは店内を埋めつくす花たちをみた。
床に、壁に、天井に、愛情たっぷりに世話をされた花々が飾られ、息を詰めてスゥを見つめている。
まるで、私たちのご主人を悲しませないで、というように。
花たちのシンパシーをスゥは、はっきり感じる事ができた。
「あの、私はスゥ。すみれのスゥです」
「スゥ?」
「これからもここにお花に買いに来ます。それから、これから毎日このお店の前を通って通勤します。今はこれだけでもいいですか?」
「充分です。ありがとう」
「こちらこそ、本当にありがとう。本当にどうもありがとう」
スゥは素直に手を差し出して、自分だけに捧げられたバラを受け取った。
まわりの花々のさざめきが二人を包む。
スゥは思わず微笑んだが、それが今日、初めての笑顔になったことにまだ気がついていなかった。
ジョーのモチーフは「BLEACH」に出てくる、あのキャラです。
もちろん、全部そっくりではないですが。
どのキャラか、わかりますか?