ゴリラの花屋 1
いきなり現代日本ものです!
黄昏時の駅はけっこうな雑踏だ。
その雑踏の絶え間なさが、ぼろぼろのスゥの心を一層ささくれだたせる。
オフィス街から三十分の好位置にある、綾野町駅周辺は、最近ロータリーが整備され、バスの乗り継ぎもよくなった。
洒落たカフェなどもできて、隣の町からも足を運ぶ人が多い。
思い詰めて泣き出しそうなスゥが、人並みとともに改札から吐き出される。
俯きすぎて頬が赤くなっていたが、駅前を吹き抜ける涼しい風のおかげで、なんとか惨めな顔を上げる事ができた。
春の終わりのよく晴れた日。
祝福を受けるなら、こんな日がふさわしいと言うような。
スゥこと、草壁すみれ二十三歳。
今日、人生最悪の日。
芸術系短大を経て入社した文房具、いや、今風に言えば、ステーショナリーが主力商品のデザイン会社。
七歳年上のその人は、企画部のリーダーの一人で、スゥが最も尊敬する先輩であり、目標であり、三年間一途に想い続けた片思いの相手でもあった。
彼は。斬新な企画を提案するタイプではなかったが、思慮深く、物事を客観的に冷静に判断する能力に優れていた。
また、温厚で誠実な人柄は上層部にも信頼され、後輩達からの人望も厚い。
穏やかな微笑みは自分だけのものではないとは知っていた。
でも、残業のお詫びに夕食をご馳走になったときの優しい心遣いは、もしかして?と、恋愛に慣れないスゥに期待を抱かすのには充分であった。
なのに──。
「我等が頼もしい兄貴、藤原純也氏は、この度、総務部の中野喜美子さんと、ご結婚されることになりました!」
五月の半ばの水曜日。
企画部の朝礼で、連絡事項の後に、彼と仲のいい同僚の大岡が突然宣言した瞬間、スゥは文字通り、凍りついてしまった。
藤原は出張で、明日からの出社になっている。
主役のいない間に、と言うことで、今までいろいろ相談されていたらしい大岡が、頃はよし、と企画室の皆に打ち明けたのだった。
「ええ~! まじ!?」
「ショック! 私、憧れてたのにぃ」
「いや、めでたいこっちゃ。あの堅物の藤原さんがねぇ」
「中野さんって、可愛いけど大人しいタイプだよね? 確か草壁と同期じゃなかった?」
突然隣の席の先輩に話しかけられ、茫然自失状態のスゥははっと我に返る。
「え!? あっ、ええ、そうです。私はあまり話したことはないですけど」
「ふーん、ま、総務部じゃねぇ。大体総務女子って、可愛い子多くて結婚も早いって言うか」
「それ、セクハラ発言ですよ」
「えっ! やべ」
確かにそれは偏見かもしれないが、結婚が早い女子社員が多いのは、執務や総務と言った、事務的な仕事の部署なのは否めない。
企画室の中央では、大岡を中心に二次会の計画が立ち上がっており、二~三人が幹事に立候補しているようだった。
時々、楽しそうなさざめきが起きて、スゥの凍った心にトゲのように突き刺さる。
普段自由な企画室の雰囲気が、このときばかりは辛い。
しかしやがて皆、それぞれの仕事に戻り、華やいだ雰囲気はかき消え、プロとしてパソコンに向かったり、色彩見本を見たりと、仕事の熱気に包まれた。
スゥもここ半年取り組んでいる、手の不自由な人のための便利な事務グッズのデザインブックを取り出し、ラフスケッチひねくり返した。
画用鉛筆を削り、アイディアを練っている振りをしたが、後から考えても、これでは給料泥棒だと自分を笑ったぐらい、仕事に集中できなかった。
結局、一日中なにもできず、ともすれば泣きそうになる心を封じ込めることに全力で努力していた。
なのに──。
あんな頼まれ事を引き受けてしまうなんて!
駅を出て、のろのろとロータリーを右に歩き出す。
いつか先輩に告白される日を夢見てきた。
仕事で認めてもらえるよう必死でがんばった。残業があっても、もしかしたらに夕食に誘ってもらえるかと思うと苦にならなかった。
そんな受け身な恋をしていたからこんなことになるんだわ。
でもほんとに──大好きだったのにな。
はき古した黒レザーのスクエアシューズに、平凡なパンツにニット。
ここのところの忙しさにかまけ、不精して美容院に行っていない髪は、中途半端なバイカラーになり果て、肩の下にぶら下がっている。
ウインドーに映る、冴えない自分の姿にもうんざりし、顔を背けたとたん、歩道の段差によろめき、不毛の思考回路が一旦停止した。
「あ、行き過ぎちゃった」
ぼんやりしていたせいで、目的地に向かう細い道を少し通りすごしていたのだ。
ロータリーを四分の一周したところにある、目立たないわき道。そこを入って少し歩いたところにスゥの目的地はあった。
大好きな場所なのに、今は一番行きたくないところ。
ゴリラの花屋。
「あ、草壁さぁん」
落ち込むあまり、そそくさと定時で上がろうとしたスゥを目ざとく見つけ、大岡が声をかけた。
「はい?」
「あのさ、ちょっと頼まれてくれない? いや、実はさ、明日藤原さん帰ってくるだろ? で、皆少し早めに来て『おめでとう』を言って驚かそうってさっき決めたじゃん」
「はぁ」
「それでさ、そん時に花束渡そうって考えたんだけど、草壁さん、前に安くてサービスのいい花屋があるって言ってたろ? で、明日の花束用意してくれない?」
「……え」
そういえば、そんな事を言った記憶がある。
スゥは花をモチーフとして使う事が多いため、よく花を買う。
切花だったり、ポットだったりと様々だが、買う店は決まっていて、自宅の最寄り駅の近所にある小さな花屋だった。
一年ほど前にできたのだが、小さい割りに花の種類が豊富で、取り寄せもしてくれる。
蘭や、百合などの高価な花はあまり置いていない。
その代わり、小さな花がびっしり房になっている珍しい花々を安く提供してくれるので、スゥは週末に一週間がんばったご褒美として、自分にささやかな花を買って楽しんでいた。
「どうかな? 明日なんだけど」
大岡が無邪気に尋ねる。
スゥは腹を括るしかなかった。
「ええ、いいですよ。おめでたいことだから、明るい暖色系の花でまとめたほうがいいですよね? 予算は……ああ、それならステキな花束を用意してくれると思います」
すらすらと上手に応対している自分の声が他人のようだ、とスゥは思った。
そのおかげで、好きな人の幸せを祝う花束を買う羽目になったのだ。
最悪だ……。
店の前はレンガを敷き詰めてあり、たくさんの花篭や、ガーデニング用のポット苗が具合よく置かれている。
小さな花のプロムナードは、今日も甘い香りを放っている。
スゥはその前をすり抜け、店内に入った。
「いらっしゃい」
いつもの店長の低くて深い声に出迎えられる。
スゥは、様々な色のバラが置かれているコーナーの前に立った。
あーあ、ついにきちゃったよ。
お人よしにも程があるな、私。
明日は休もうかと思っていたくせに、こんなこと引き受けちゃうなんてさ。
スゥの心とは裏腹に、小さな店内は美しい花々であふれている。
それぞれの花活けには小さなポップが添えられ、無骨な文字で花言葉が添えられてあった。
白いバラ―――「心からの尊敬」
黄色いバラ―――「あなたに恋します」
ピンクのバラ―――「美しい少女」
そして赤いバラ―――「あなたを愛しています」
どれも今のスゥには、残酷すぎる言葉だった。
「お珍しいですね、今日はバラですか?」
いつの間にか、後ろに立っていた店長の声が落ちてくる。そして、振り返ったスゥの顔を見ると慌てて顔をそらした。
「あ……」
スゥは自分が泣いていることに、初めて気がついた。
10年以上昔、web小説を書き始めて間もない頃の作品です。視点もブレブレです。
修正はしましたが、昔の拙い勢いをそのままにしておこうと思い、そのままにしている部分もあります。
読みにくかったなら、すみません。