泥だらけの真珠 1
「スィラージュ皇太子殿下のお成り!」
先触れの声に、女たちは一斉に色めきたった。
皇子が南方の視察旅行から帰ったのは、つい一昨日の事だ。
今日、後宮を訪れたのは、きっと女たちに珍しい菓子を配ったり、土産を下したりするためだろう。
上手く行けば今宵の伽を命ぜられるかもしれない。皇子はそれなりに忙しいのか、あまり側妃たちにその機会を設けないのだ。
三方がパティオに面した明るい広間。
女たちは床にじかに置かれたクッションの上に座り、あるいはもたれ、思い思いに自分が一番魅力的に見えるポーズで座っている「。
夏夏国では椅子に座れるのは王と王妃、そして皇太子だけだ。
もっとも、床には上質なの絨毯が敷かれているし、夏夏国は温暖な気候なので、床に座っていても冷えるという事はない。
幾枚もの薄物を纏って美を競う彼女たちの前には、花や果物、菓子などが盛られた鉢が、そこかしこに置かれている。
昼を過ぎた頃とて少し暑いが、微風の吹き込むこの部屋は過ごしやすい。
アーチ形の柱の間には帳すらひかれておらず、美しく手入れされた庭がよく見渡せた。
皇子が二人の随身と共に姿を見せると、女たちは切なげなため息をついてその姿に見蕩れた。
野性美あふれる皇太子スィラージュ・シャーキルは、二十歳になったばかり。
簡素に撒いた頭布の間から癖のある黒髪がはみ出ている。赤銅色に焼けた肌を引き立てる白い上衣の見ごろを半ばは閉じず、見事な肉体を垣間見せていた。
彼は国中から集められた六人の美姫の視線を鷹揚に躱し、皇太子だけが座ることを許される椅子に腰を掛けた。
豪華なしつらいのそれは、後宮という事で、高さはそれほどでもないが、小柄なものなら寝そべられるほど大きい。
スィラージュが椅子に収まると、随身が両脇にかしこまって控えた。
「今帰った」
低いが、よく透る声に女たちはずらりと額づく。
「よう揃うたな。南方より土産があるぞ。そら! 受け取れ!」
そう言うと皇子は、随身が捧げた盆に乗った美しい杯をぞんざいに振った。
中身がざらりとこぼれる。
杯に満たされていたのは酒ではなく、南洋の海で二枚貝から取れるという宝石、真珠だった。
海が生んだ奇跡の珠は、様々に淡い色と光を放ちながら床に散った。
わっと女たちが群がる。
絨毯の上をころころと転がる真珠を少しでも多く集めようにしようと、薄物の衣の裾を跳ね上げ、腰を浮かして彼女たちは床に這いつくばった。
花の鉢が倒れ、水がこぼれたが誰も気にする様子もない。
嬌声が飛び交う足下を皇子は無関心に一瞥し、ただ酒を飲んでいる。
その黒瞳は傲慢でいながら、ある種の憂いを帯び、玻璃の杯を満たす赤い酒を見つめていた。
ふと視線が飛んだ。
部屋のはるか下座、一番隅で姿勢を低くしている一人の娘の方へ。
本当はこの部屋に着た途端、彼女の存在に気づいていたが、敢えて見ぬようにしていたのだ。
姫君たちにかしずく女官達よりも更に低い位置、敷物もない剥き出しの床の上にうずくまる端女は、背中を丸めたまま、外──庭を見ていた。
柱の向こうで小鳥が二羽、楽しげに菓子の屑をついばんでいる。この娘が投げ与えたものだろう。
娘は面を伏せたまま、小鳥が餌を拾うのを楽しそう見つめている。
唇に淡い微笑を浮かべながら。
この部屋の中で、彼女一人だけが外を見ていた。居並ぶ美姫たちも、皇子も意識に上らぬように。
それを見据えながら、スィラージュは己の懐にそっと手を滑らせた。
懐から抜いた掌には、彼の親指ほどもある薄紅の真珠が握られている。
彼の体温を吸って、それは暖かい光を帯びて輝いていた。完璧な曲面。それはそれだけで一つの世界だった。
スィラージュは寛いだ風を装い、目立たぬように床に手を滑らせた。
誰も注意を払わぬ端女に向かって真珠を転がす。
ころころ
ころころ
それは密やかに床の上を滑り、狙い通り小さな端女の膝に辿りついた。
──あれ?
端女──アトゥーリャは、膝にこつんとあたる感覚に、視線を落とした。
今まで柱のすぐ外のテラスで、彼女がこっそり投げてやった菓子を啄む小鳥たちを夢中で眺めていたから、目が慣れるまでに暫くかかる。
彼女がいる所は、明るいこの部屋の中で一番暗い一隅だったのである。
これは……真珠?
拾い上げた丸いものは、美しい一粒の真珠だった。
彼女の家がまだ盛んな頃でも見たことがないほど大きく、傷一つない。
うわぁ、きれい。
アトゥーリャは思わず指先でそれを摘み、少し明るい場所ににじり寄って真珠を陽に翳してみた。
強すぎる午後の日差しを受けながら、柔らかく輝く完璧な珠。海の底に眠る貝が、長い時間をかけて包み上げた奇跡の結晶。
なんてきれいなの……だけど、これは──。
アトゥーリャはすぐに自分の立場に立ちかえった。
私のじゃない。
目の前で繰り広げられる女たちの宴。
この宝物は、間違いなくそこから転がり出たものに違いない。
ああ、きっと何かのはずみで、弾き出されたのね。
アトゥーリャは、一番近くで背と尻を向けている姫に向かって、指先で真珠を弾く。
子どもの頃、幼馴染と一緒に、ガラス玉を転がして遊んだ時の事を思い出しながら。
「あら! こんなところに!」
姫の一人が、自分の脇をすり抜けて転がる真珠に覆い被さった。
「まぁ、こんなに大きくてよ! 一番大きいのじゃないかしら? それにこのきれいな色! わたくしのよ! わたくしが一番先に見つけたのですもの!」
真珠を獲得した姫は、薄紅色の真珠を摘まみ上げて獲物を見せびらかした。
他の姫たちは、悔しそうにその宝玉を見ている。
アトゥーリャは少しだけ微笑み、再び戸外へと視線を遊ばせた。
その、時──
パン、と涼しい音が響いた。
あっと皆が顔を上げる。
スィラージュ皇子が怒りも露わに立ち上がっていた。
足元に投げ捨てられ、砕け散った玻璃の杯。騒がしかった空間は、速やかに沈黙に満たされた。
姫君たちはあっと平伏する。
しかしその鋭い目は、姫たちを通り越し、下座で擦り切れたように平伏する端女に据えられていた。
「そこの下女!」
荒々しく指を差され、アトゥーリャは、はっと顔を上げる。そこへすかさず鞭のような言葉が飛んだ。
「目障りだ! 出て失せろ!」
部屋中の目が自分を見ていることに気がついたアトゥーリャは、真っ青になって立ち上がった。
そのまま深く一礼すると、後も見ずに柱の間から庭に飛び出す。咲き乱れる花の影を縫ってをひたすら走った。
一瞬遅れて、姫たちの嘲笑う声が追いかけてきた。
昼間の熱はどこへやら、夜ともなれば肌寒いくらいこの季節は寒暖の差が激しい。
しかし、スィラージュは苛立ちを抑えきれずに、正宮から後宮へ至る廊下を険しく進んだ。
湿り気を帯びた涼しい風も、彼の苛立ちを収める事は出来ない。
午後の一幕の後、さざめく女たちを無視して彼は政務に戻り、無闇に仕事に打ち込んだのである。
終に執務室を出た時は、真夜中近くになっていた。
南方から帰った後もずっと多忙にしていた彼だが、疲れはみじんも感じない。
それどころか眼が冴えて眠れそうにない。この昂ぶりを抑えるには──。
どの女を指名するか。
後宮に捧げられた六人の側妃全てに手をつけたわけではない。あまり高慢でなさそうな数人を試しただけである。
国中の名家から、選び抜かれて送られてきた女達だけに、公平を期すためにはあまり差別化は望ましくはないが、そういう見地から女を抱かねばならぬのも、空しいものだった。
ましてや昼間の嬌態を見た後では、どの女にも食指が動かない。
スィラージュが自分の宮に戻った時には、何もかもすっかり面倒になっていた。
後宮ではいつ主が姿を現してもいいように、常に支度は整えられている。
今宵も前室に足を踏み入れた途端、女官頭が月の障りで閨ができない者以外の姫と共に平伏していた。
もうとっくにやる気をなくしたスィラージュが、酒だけを居室に持ってこさせるつもりで、口を開いた時、別棟の廊下で誰かが慌ただしく動いている様子が見えた。
「……あれはなんだ、何をしている?」
「申し訳ありませぬ。殿下のお気になさる事ではございませぬ。すぐに控えるように申し伝えてまいりま……」
「何があったかと聞いている!」
「は……!」
女官頭は驚いて、後ろに控えた女官を振り向く。
慌ててその女官が耳打ちをしているのを、スィラージュはいらいらと待った。
「その……端女の一人が姿を見せなくなったそうで、現在探しておるようです。端女ではございますが、元は少々身分のある女だったらしく……しかし、すぐに止めさせますので、殿下にはゆっくりと今宵の……」
女の言葉を、スィラージュはもう聞いてはいなかった。
くそっ!
手間を掛けさせやがって!
スィラージュは、可憐な花が鈴なりに咲いた灌木を、乱暴に薙ぎ払った。
広大な後宮の庭中を探し回ったので体中に泥や、葉っぱが付着している。
一応後屋内も探させてはいるが、彼の思う人物が隠れる場所は、いつも外なのだ。
いつもいつも──幼い頃から。
「畜生! どこへ行った!」
彼は、植え込みから頭を引き抜きながら毒づいた。
小枝や枯葉が髪にどっさり絡みついている。
日付けが変わってから大分立つはずだ。こんな馬鹿げた行動は、もう何度目だろう。大体こんなところに潜り込むのは、小動物か、せいぜい子どもぐらいなのもなのに。
その習性を知り尽くしている自分が哀れで滑稽だ。
「後は……どこかの隅っこぐらいか……」
スィラージュは、広大な庭の更に奥へと突き進んでいった。
この先にあるのは王宮の外れも外れ、普段は誰も近寄ることのない、最奥の城壁があるだけだ。
しかし、そこまで行き着くまでもなく、スィラージュは黒々とそびえる巨大な壁の根元に動く白いものを見つけた。
大きな満月が、煌々と照る夜だったのが幸いだった。
月に照らされたそれは、この国特有のゆったりした下衣に包まれた小さな尻。
スィラージュは足音を立てぬように近づいた。
どう言うわけかその尻は、夜目にもはっきりと、上下にぴょこぴょこ動いている。
それはそれで、なんだかそそられる光景ではあったが、今はそれどころではない。
夏夏国の皇太子は、無言で尻の真後ろに立った。
暫く待ったが、尻の持ち主は気づく気配もない。埒が明かぬと、ずいと腕を伸ばして摘まみ上げる。
拍子抜けがするほど軽く、それは彼の手の先にぶら下がった。そのつま先の下におそらく半日かけて掘ったのであろう、人一人が入れるような穴が口を開けている。
泣いている。
顔と髪と、肘から下を泥だらけにして。
子どものように泣きじゃくっていた。
「……何をしている」
「あうううう……す、スィ……じゃなくて、で、殿下」
「人を便秘中の女みたいに呼ぶな!」
「ううう……ふえっく」
「うるさい! なにを泣いてんだ……ああもう、まったく! くそ面倒な女め!」
スィラージュは吐き捨てるように怒鳴ると、泥だらけのアトゥーリャをひょいと片手に抱え上げた。
ガラリと雰囲気が変わりました。




