花より実こそ 恋まさりけれ
龍吟の琴と一対となっている翡翠色の琴軋を素戔嗚尊に貰い受けた加代子は、それを青白い月の光に翳して眺めた。
「姫様、そう端近に・・・・・・。」
「いてはいけないのよね?」
加代子はそう言いながらも、部屋の中に入る気になれなくて、空に浮かぶ澄んだ月を眺めていた。
「月がとても綺麗なの。もう少ししたら入るから、ね?」
加代子の姿がいつになく儚げで、このまま竹取の翁の話のように月に帰ってしまいそうな心地がする。小笹は「月の顔を見るのは忌むべきものですよ」と話した。
その言葉に加代子はくすりと笑い「唐王御前と呼ばれた頃に、乳母子の若竹にもよく言われたっけ」と話す。
月の光は神をも惑わせる――。
それは月読命である伯父の容貌の美しさからきたとも、あまり魅入っていると黄泉の国の使いに気が付かずに魂を抜かれるからとも言われていたが、今となってはその迷信がどこから来たのか定かではない。
ただ須勢理にとっての月影は、いつだって大己貴命を思い出す為の縁で、こう心細い時は月の光を浴びていたかった。
加代子はふっと笑みを消すと「少し一人にさせて」とお願いする。
「ですが・・・・・・。」
「おもうさまの結界から出るわけではないし、ね?」
小笹も主である加代子にそう言われてしまうとあまり強くは出られず、「何かございましたら、お呼びくださいませ」と一礼して局へ下がる。加代子はその姿を見送ると、翡翠色の琴軋を再び月の光に翳した。
白っぽい光に照らして触れてみると、素戔嗚尊から聞いた話は遠い昔の出来事で、真実かどうか分からない話なのに胸がいっぱいになる。
それから琴軋を握り込むようにして、龍吟の琴を生み出すと、加代子はいつも愛用してきた琴にそっと触れた。
一掻き、また、一掻き。
須勢理の頃に月夜のたびに奏でていた《明星》を奏れば、やけに切ない気持ちになって、苦しくなる。
加代子であり、琴子であり、須勢理であり。
それだけでも自分を見失いそうなのに、龍吟の琴の話を聞いてからは、龍の珠姫にも同調してしまって余計に心が落ち着かなかった。
話を聞けば聞くほど、加代子の脳裏には龍の君の姿をした淤加美神と、国常立尊の姿をした大己貴命の姿が想起されて仕方なかった。
もちろんそれは思い過ごしかもしれない。
龍の君が淤加美神に、国常立尊が大己貴命になって生まれ変わっているのではなんて、誰が信じよう。
「お前が呼ぶのは、誰・・・・・・?」
龍吟の琴を弾く手を止めて、そっと弦を撫でていると、庭から「秋風にかきなす琴の声」と返事が返ってきて驚いて顔を上げる。
そこには洋服姿の雅が立っていて「どうもその琴とは縁があるようですね」と話す。
そして、前栽の散りかけの萩の花を掻き分けるようにして近付いて、雅がいつかのように靴を脱ぎ「よっ」と言いながら簀子に上がってくるから、加代子はポカンとしてその姿を見つめていた。
「いつから居たの――?」
「貴女が琴を取り出したあたりからでしょうか。」
では、初めから居たのではないかと思って加代子はむくれると、雅はそれを見て少し安心したような表情になり、徐ろに加代子を抱き寄せた。
「ちょっと、雅――?」
挨拶もそこそこに、こんな風に抱き寄せられると思ってなかったから、加代子は戸惑う。雅は抱き寄せたまま「恋いつつあらずは、秋萩の」と囁いた。
「秋萩がどうかしたの――?」
雅はそれには答えず、意味深に微笑むばかりだ。そして、困惑顔の加代子の額際に唇を寄せると、そのまま「隠れて琴の音を聞いていようかとも思ったのですが、だめですね」と呟いた。
「あのように切なく弾かれるのを見たら、身体が自然と動いてました。目を離したら、それこそ、どこかに消えてしまいそうで・・・・・・。」
雅の抱き締めてくる腕はいつになく力強く、少し苦しいくらいだ。加代子は安心させるように雅を抱き締め返した。
「いなくなんてならないよ? ほら、熱もでてないでしょう?」
すると、雅は抱き締める腕の力を緩めて、「ええ、そうですね」と目を細める。
「なんだか、雅の過保護が最近やけに増した気がするんだけど?」
「千年も探して、やっと見つけたのですよ? いけませんか?」
加代子は雅の問いに首を横に振り「この間も心配かけたばかりだし、仕方ないか」と苦笑いを浮かべた。
「ただ、今のはこの琴の事で少し感傷的になってただけだから、心配しないで。」
「天詔琴の事で?」
「ええ、素戔嗚尊からこの琴に纏わる逸話を聞いたの。」
龍の君が龍の珠姫に与えた琴であることや、それに纏わる哀しい話を、加代子は掻い摘んで話すと、徐々に言葉を詰まらせた。
「それがまるで自分の事のように、苦しくなってきてしまって・・・・・・。」
龍の君がどんな思いで龍の珠姫を国常立尊の元に連れていったのか。
龍の珠姫がどんな思いで国常立尊に自らを喰らえと言ったのか。
それを聞いた国常立尊はどんな気持ちになったのか。
それらを想像するだけで、胸の内は張り裂けんばかりに苦しくなる。ましてや、雅を前にするとわっと泣いてしまいたい気分になって、加代子は雅の服にしがみついて、その胸に顔を填めた。
「ねえ、名前を呼んで・・・・・・?」
甘えるように涙声で加代子が言うから、雅は少し困惑気味に「どうしました?」と声を掛ける。
「私ね、雅に加代子さんって呼んでもらうのが一番安心するの。雅に名前を呼んでもらうと、自分が《加代子》なんだって信じられる。」
加代子であり、琴子であり、須勢理であり。
自らの記憶も過去の記憶が蘇るにつれて、自分が自分でなくなってしまったような、そんな感覚に陥ってしまう。
「だから、加代子を呼んで――?」
一方、その話を聞くと雅は「加代子さん、貴女ってひとは本当・・・・・・」とため息を吐き、「花より実こそ恋まさる」と苦笑して、加代子を強く引き寄せた。
「加代子さん――。」
額に掛かった髪を払いながら、顎に片手をかけて親指の腹で加代子の唇をなぞると、低い声で加代子の名を囁きながら、探るようにして唇を塞ぐ。
柔らかい唇の感触。唇を食むようにしながら、徐々に夢中になっていく。
世界には二人だけで――。
互いの名を呼び触れ合うだけで、他には何も要らないような心地になる。そして、それを感じているのは加代子だけではなかった。
こうして自分を認めてくれる彼女がいるだけで、千年の間、心淋しく、そして、やりどころのなかった感情が鎮まっていくのを感じる。
潤んだ瞳、濡れた唇、上気させた頬。
とろんとした表情の加代子の様子に、このまま貪り尽くしてしまいたい心地も沸き起こってきていたが、雅はぐっと堪えるとそっと唇を解いた。
「貴女を迎えに来ましたのに、なんとも帰りがたい風情ですね。」
雅が「歯止めの効くうちに帰りませんか?」と言えば、加代子は互いの額をつけたまま「もう」と膨れるから笑いが込み上げてくる。
「それとも中に入れて頂いても良いのでしょうか?」
「それなら、ちゃんと階から上がってきてよ。」
加代子がピシャリと言うと、雅はふふっと笑って「加代子さんも乗り気だったじゃないですか?」と囁く。
「なッ! それはッ!?」
その声が聞こえたのか、ガタンッと遣戸が開く音がして、雅の人影に気がついた小笹が「何奴ッ」と言いながら、転がり出てきたから二人で呆気に取られてしまった。
「・・・・・・って、あら? 旦那様?」
小笹のぽかんとした表情に、加代子は笑いを堪えきれずに声を立てて笑う。雅も身体を折り曲げるようにして笑いを堪えると、小笹がムッとした声で「お二人とも、居らしたのなら、居らしたと仰ってくださいませッ!」と声を荒らげた。
「あ、ほら、雅のせいで怒られたじゃない?」
「私のせいですか?」
「お二人共のせいですッ!!」
すると、二人していたずらが見つかった子供のように「怒った小笹は怖い」と談笑しながら、雅が「直ぐに戻りますね」と勾欄を越えようとするから、小笹は「旦那様?!」と驚きの声を上げた。
「直ぐに戻りますって。」
登ってきた時と反対の要領で下に降りる雅の様子に、小笹が噛み付かんばかりの剣幕で「そう言う問題じゃありませんッ!!」と騒ぐ。
加代子はガミガミと雅を叱っている小笹の姿を見ながら、くすくすと笑みを漏らした。
「もうッ!! 姫様もお笑いになっている場合ではございませんよ? こういう時は奥方である姫様がビシッと叱らないと。」
「そうは言っても、彼は出会った頃から、ああだもの・・・・・・。」
何度、出会い直しても、その出会いはいつも唐突で、その癖、自分の心を巧みに攫っていくのだ。
「彼はね、風のような人だから――。」
突然現れて、直ぐに掻き消えて。
穏やかな春のそよ風の時もあるが、激しい竜巻と化す時もある。
「だからね、私に出来るのは、貴方はここにいるよと、精一杯、手を振る事だけなんだよ?」
そう言うと加代子は龍吟の琴を琴軋に戻し、階から登り直してきた雅を迎えに行く。
龍吟の琴の話は今は昔の物語――。
加代子は翡翠色の琴軋を雅のくれたネックレスと同じように首にかけると「ひとまずは今出来ることをしよう」と歩みだした。