最終章2
これで本編は完結いたします。
目が覚めてしまった、とインユェは漠然と思った。気付けばどこかの寝台に寝かされていたのだ。それに気づかず延々と眠りこけていた自分を恥じ、インユェは周囲を見回す。
見覚えのない調度品たちだ。彼女のやっと持つようになった審美眼が言うのが正しければ、これはかなり高級な調度品たちである。
インユェはしばしあたりに目をやった後、自分に何が起きたのかを思い出そうとした。
自分はあの、つがいと戦って、首を噛み切り……その後から覚えていないような気がした。
だがさらに記憶を探って行けば、あの人、自分が殺す事の出来ない唯一が現れて、自分を抑えたような気がした。
そうだ、自分は。
インユェは自分の手を慌てて見た。見れば見るほど異形の手をしている。人の形の手に、黒く鋭いかぎづめがついているのだ。
鏡を見たら、蟲の複眼が映っているのではないだろうか。そんな事を彼女は思い、ああ、ここから立ち去らなければいけない、と強烈に思った。
ここにいてはいけない。里にもきっと帰れない。
自分はそれでも、何処かに逃げださなければならない。人間は異形をことのほか嫌悪するのだから。
「……これ以上、あの人に迷惑をかけられない」
インユェは一人呟き、立ち上がった。途端に足がおぼつかなくなり、彼女は転がるように転んだ。
「……何日眠ってたんだ。力が出ない」
インユェは呟き、頭をかきながら立ち上がった。やはりふらふらと足がおぼつかない。どんな悪環境でもけっして倒れない自分が倒れるなど、よほど食事をとっていないのだ。
「……いったい何が起きてどうなって、皆は」
インユェは弟たちや部下たちを考えた。彼らの安否も気になったのだ。
彼女は意地の力で足を進め、まともに扉の前に行けないほど弱っている自分を認識すると、考えを改めた。
「……まずは体力を作らなきゃならないな」
そのためには食べなければ。さて、まず食料を探す事から始めよう。
そう思った矢先だ。
「起きたのか、インユェ」
部屋に一つしかない扉が開き、現れたのはヤンホゥだった。手には盆を持っている。陪都公自らが盆を持つなど驚天動地の異常事態である。
「そろそろだと見立てたフーシャは腕が確かだな」
言いつつ彼は、車輪のついた机の上に盆を置き、インユェの座る寝台の方まで運んできた。
その盆の上には、ホカホカといい匂いのするものが入っている。
インユェは注意をそちらに向けた後、はっとして相手を見た。相手はどこか疲れたようにやつれていて、何かあったのだとはっきり知らせてくる表情をしていた。
「ヤンホゥ様、どうしたというのですか」
「なに、手続きの書類が多いというだけだ」
彼はどこか楽しそうに笑った。ごうごうと燃え盛る瞳は相変わらず、インユェを見つめて離れない。
「食え、お前のために粥を用意させた」
「ヤンホゥ様の分は」
「俺はもう食べているし、今は食事の時間でもない」
インユェはその言葉を聞き、ありがたくそれを受け取る事にして、粥を一口すすった。
すすれば途端に空腹が感じられて、しかしいきなりがっつけば胃がひっくり返るのは経験済みなので、彼女は慎重に口に運んでいった。
インユェが食べている間、ヤンホゥは何も言わなかった。ただ彼女をじっと見つめていた。
そして、一時間もかけて彼女がそれを平らげると、問いかけてきた。
「お前は自分がどうなってしまったかわかっているか?」
「あんまり……」
「フーシャが言うにはだな、お前は先祖返りで、人蟲という存在になったそうだ。人であり蟲である生き物だという」
インユェはそれを聞いて自分の爪が普通じゃなくなった理由について納得した。
そして頭をかいた。
「あはは」
「どうしてそこで笑う」
「いや、いつかこうなるかもしれないなってどこかで思っていたみたいで。あんまりびっくりもしませんし」
「思っていたのか?」
「ん、なんていえばいいんでしょうね、人間の血にまみれるたびに、心の奥側がざわざわしてましたから。……こっちに来てからは経験してませんから、すっかり忘れていましたけど」
インユェはそうへらへらと笑っていたが。ヤンホゥが真面目な顔になっているので言葉を止めた。
「ヤンホゥ様?」
「そうか。……お前はこれからどうするんだ」
「どこかに隠れますよ」
「隠れる? なぜだ」
「だって、こんな見た目ですよ、人間なのか蟲なのか見当がつかないなんて怖いでしょう? それに里にはきっともう帰れないし、この都にいるのもきっとよくない気がして」
「俺とともに陪都に戻る気は」
「陪都もいけませんよ。陪都は確かにいろんな人たちが集まってきている場所だから、俺みたいな変なのがいても変に思われないかもしれませんけど。……わかるんですよ、俺はいつか血を求めて暴走するっていうのが」
インユェは言いながら、その言葉に納得していた。そうだ、自分はいつか。
「人蟲になったというのなら、きっと俺は人間の血を求めてしまいますよ。そうなったら大変だ、だって俺に勝てる相手がそこんじょそこらにいるとは思えないんだ」
インユェは起きてからずっと感じている、何かに飢えた感覚を自分の中で感じ取りながら言った。
「……」
ヤンホゥが彼女を見つめて口を再び開いた。
「……蟲使いという存在を知っているか。これはフーシャが見つけてきた情報なのだがな」
「フーシャが? そうだ、フーシャは大丈夫ですか? あの後みんな無事でしたか?」
彼女の名前を聞き、そこからはっとしたインユェに、ヤンホゥは答える。
「お前に蹴飛ばされただの殴られただのしたやつらは、とっくに完治している。お前の仲間もお前並に頑丈なのだな」
「そりゃあ鍛えてますから」
「あれは鍛えたで済む問題なのか? お前の里は無視を積極的に食らうから頑丈なのか?」
「さあ……?」
首を傾けたインユェに、ヤンホゥは言葉を続ける。
「とにかく。蟲使いという存在は」
「知ってますよ。遠い遠い、西の職業で、蟲を相棒にして共に生きる存在です」
ヤンホゥの言葉を遮って喋った彼女に、ヤンホゥが怪訝そうな顔をする。
「……フーシャも知らなかった事をなぜ知っている?」
「俺はそれを、先代の牙から聞いてますから」
「先代の。なるほどな。そこでだインユェ」
「はい」
彼はその時、インユェの前にひざまずいた。
「俺はお前と共に生きたい」
「はい」
いまさら何を言うのだろう、とインユェが思った時だった。
「だから俺は、蟲使いになる。……お前を生涯の伴侶にするために」
インユェは、不意に胸が高鳴り始めた自分を自覚した。なんなんだこれは。
伴侶だからか。一緒に生きてくれるからか。
「お前を縛るようで悪い気もするのだが……蟲として、蟲使いになった俺と共に生きてくれるな?」
ああ、この人は自分がどんな生き物でもそばにいてくれるのだ。
そう思ったインユェはひどくうれしくなった。そしてそう思った単純明快な彼女が選ぶ答えは一つだけなのだ。
「はい!」
「チュンリー様」
「わかっていたの」
侍女の言葉に、チュンリーは笑ってしまう。陪都公は蟲の襲撃が終わった夜に、彼女のもとを訪れて言ったのだ。
「俺は陪都公という地位から下りる」
淡々とした、しかし迷いもしない言葉に彼女は言葉を失いかけた。陪都公は素晴らしい地位だというのに、それを捨てるとためらいもなく彼が言ったからだ。
「……お前は離縁する。……お前ほどの美しさと知識を持つ女性ならば、離縁された事は何も障害にはならない。……望むならば、俺の弟との婚姻もできる」
彼はどこまでも淡々とそういう。チュンリーは嫌だと泣いてすがる事も出来なかった。だって見てしまったのだ。
人なのか蟲なのか区別がつかなくなった、あの女。あの女を大事そうに抱えて、誰も近寄せずに自室に連れ帰った彼。
その彼の、誰にも見せた事のない気遣うようなまなざしと表情を。
ああ、とチュンリーは悟ってしまったのだ。彼女には一生勝てない。
彼と彼女は出会い惹かれあう定めにあったのだと思ってしまったのだ。
そう思った時点で彼女の敗北は決定していて、チュンリーは何も言えない。
しかし。
「ヤンホゥ様」
「なんだ」
「私が思っている殿方は、あなただけでございまず。あなたがどうなろうとも」
「人なのか蟲なのかわからない女を選ぶ俺がか」
「ええ。だってその女を選んでいる限り、人間での一番は私になるでしょう?」
チュンリーはあきらめきれない自分を知っていた。ヤンホゥはどこかへ行ってしまうだろう。彼女を置いて。
それでも、彼女は恋を貫きたかった。
「……私を妻にして、彼女を愛人にしてくださいな。私はもう、誰とも婚姻を結びたくありません。もう、彼女が一番でいいのです。ただ、あなたを利用して婚姻を蹴飛ばす女を、あなた様も利用してくださいな」
「……お前はそれでいいのか」
「いいのです。いいじゃありませんか? あなた様が陪都公を捨てても、私の中であなた様へのお気持ちは揺るぎません。揺らいだ時は、喜んで離縁させていただきますわ。どうか、彼女と一緒でいいので、私のもとに帰ってきてくださいな」
ヤンホゥはしばし黙った後、頷いた。
「……お前には世話になったな」
「ええ。私もお世話になりましたわ」
「わかっていたの、彼は私以上に、あの女を愛する事くらい。あの女がどうなっても思いが揺らがない方だという事も」
チュンリーはそういって微笑み、いう。
「だって、あの女が命を懸けて蟲と戦わなかったら、私はいま生きていないのですもの。……ただの馬鹿だと思っていましたけど、ちょっぴり見直しましたわ」
古い物語がある。最強無比の人蟲と、人間の男の恋だ。人々は自分をかけて人蟲を抑え込み、従わせ、自らを食らわせた男をたたえて、彼のその赤い髪や瞳からこう呼ぶ。
『赤い英雄』と。




