穏やかな夜の終わりに
「カイテルさん、あのう……二週間後、お休みってあったりしますか?」
夕食のあと、カイテルさんが庭の散歩に誘ってくれて、今、私たちは手を繋いで、夜の庭をゆっくり歩いている。
「二週間後?あるよ。試験が終わった後だよね?中央街に行かない?リーマ、ずっと屋敷の中にいるだろ。たまには息抜きしよう」
「はい!行きます!実はこの前、お父様からいただいた報酬で、カイテルさんにお買い物したくて。お菓子も奢りたいです!」
「俺に?どうして?」
「今まで、ずっとカイテルさんに買ってもらってばかりだったので……せっかく自分で稼いだお金があるから、今度は私が奢りたいんです」
「ふふ……本当か?じゃあ、言葉に甘えようかな」
「はい!何でも甘えてください!」
……念のため、おじいちゃんからもらったお金も持って行こう。
そう思った瞬間、カイテルさんが私の手を放し、両手で私の頬を包むように触れた。
そして、じっと――優しいけれど、強い眼差しで私を見つめる。
こ、この状況……この距離……。
な、なんだか……とても恥ずかしい。
顔が一気に熱くなる。
心臓がバクバクして、うるさいくらいに自己主張している。
……ねえ、これ、聞こえてないよね?
私の心臓の音。
耐えきれなくなって、私は視線を逸らし、木の葉や庭の草花へと目を向けた。
あぁ……顔も、心臓も、爆発しそう……。
「……ふぅ……すげぇ、キスしてぇ……」
カイテルさんが深呼吸と一緒に、低く呟いた声が耳に入る。
……え?
私は思わず視線を戻した。
「カイテルさん、どうしたんですか?あれ?顔があか――」
言い終わる前に、カイテルさんの手のひらが、そっと私の口を塞いだ。
「い、言わないで……これ以上言われると……我慢、できなくなる……」
声が、いつもより低かった。
……えっ。
怒ってる?
私、何か悪いこと言っちゃった……?
一瞬、胸がきゅっと縮む。
理由がわからないまま、しょんぼりしてしまう。
でも――カイテルさんは私の口を塞いだまま、夜空を見上げ、何度か深く呼吸を繰り返した。
やがて、手が離れ、いつもの、穏やかで優しい笑みが戻る。
「……大丈夫。落ち着いた」
その声は、いつもより少し低くて、照れたようだった。
「ホワイトウルフの子どもたちに会いに行くか?」
「はい!行きます!」
そう答えると、カイテルさんは微笑んだ。
胸の奥が熱いまま、私はカイテルさんの手を握り、裏庭へ向かった。
その手は、さっきより少しだけ――強く、温かかった。
ホワイトウルフちゃんの子どもたちは、もう生まれて一ヶ月になる。
ホワイトウルフちゃんだからなのか、成長はとても早く、この一ヶ月で、お父ちゃんとお母ちゃん――リオとリアの半分くらいの大きさになってしまった。
あのころ、短くて丸かった可愛い尻尾は、今ではすっかり長くなってしまって、尻尾を振るときも、お尻ごとぷりぷり振る感じではなくなった。
それに――もう重くて、抱っこもできない。
……あの小さかった頃の子どもたちが、なんだか急に懐かしくなる。
あの短くて可愛い尻尾も、もう二度と見られないのかと思うと、少しだけ寂しい。
裏庭のホワイトウルフちゃんの小屋に着くと、そこにいたのはリオとリアだけだった。
「……あれ?子どもたちは?」
そう聞くと、リアが低く喉を鳴らす。
『ぐるぅ~~』(どらごん)
「子どもたちは、今ガイルちゃんのところにいるみたいです」
カイテルさんにそう伝え、私たちはドラゴン小屋の方へ向かった。
ホワイトウルフちゃんの子どもたちは、生まれたときからすぐ近くに大きなドラゴン――ガイルちゃんがいたせいか、リオとリアとは違って、ガイルちゃんととても仲がいい。
生まれて間もないころ、私は子どもたちにガイルちゃんを紹介して、
「この子はお友達だから、仲良くしてね」
なんて言った。
それ以来、ガイルちゃんと子どもたちは、よく一緒に遊ぶようになった。
ガイルちゃんは体が大きいから、あまり小屋を出ることはなくて、だいたい子どもたちの方が遊びに行く。
それに、この三日間、ガイルちゃんはカイテルさんと一緒に遠方任務に出ていた。
きっと子どもたちは、ずっとガイルちゃんに会いたかったんだろう。
……もはや、種族を越えた友情だと思う。
ドラゴン小屋に着くと、子どもたちはガイルちゃんの背中に乗った。
つるん、と滑り降りては、またよじ登り――楽しそうに何度も繰り返していた。
「か、可愛すぎる~~~~~っ!」
思わず、声にならない声が漏れる。
何度も見ている光景なのに、可愛いものは、何度見ても可愛い。
胸の奥がじんわり温かくなって、自然と頬がゆるんでしまう。
「本当に可愛いな。ホワイトウルフって、意外と純粋なんだね。自分の目で見てなかったら、絶対に信じなかったよ」
カイテルさんも、ふふっと笑いながら言った。
「お父ちゃんとお母ちゃんのリオとリアは、いつもあんな感じですから……まさか子どもたちが、こんなに素直で純粋だなんて思っていませんでした。
……一匹旅に出たら、リオとリアみたいになっちゃうかもしれませんけど」
そう言うと、カイテルさんがまた、くすっと笑った。
このガイルちゃんの"滑り台遊び"は、子どもたちが小さい頃からのお気に入りだ。
ときどきジョアンナお嬢様が、息子のドミニク君とドナルド君を連れてきて、一緒に遊ばせたこともあった。
二人とも、ガイルちゃんの背中で遊ぶのが大好きで、ホワイトウルフの子どもたちと何度も一緒に滑っていた。
――けれど、あるとき。
ドミニク君が滑り降りた拍子に、背中の上でホワイトウルフちゃんの子どもとぶつかり、そのまま地面に落ちてしまった。
その瞬間――リオが神速で駆け寄り、ドミニク君の下に滑り込んで、代わりに下敷きになった。
おかげで、ドミニク君に怪我はなかった。
(ガキ、キヲつけろっ!)
と、リオが怒っていたけれど、私はそれを、誰にも言わないことにした。
それ以来、ジョアンナお嬢様は、ドミニク君とドナルド君の"ガイルちゃん滑り台遊び"を禁止した。
二人は大号泣していたなぁ……。
あのとき私は、代わりに二人をリオとリアの背中に乗せてあげた。
そしたら今度は、リオとリアに文句を言われた。
(オレたち、ホワイトウルフだぞっ!)
……うん、知ってる。
あの頃……と言っても、つい二、三週間ほど前のことだけど……
それでも、なんだか懐かしいなぁ、と自然と笑顔が浮かぶ。
リオとリアは最近、街の人間の目につかないよう、夜中に子どもたちを連れて屋敷をこっそり抜け出す。
王都近くのカレル森へ狩りに行くためだ。
子どもたちの"それぞれの一匹旅"に向けた、事前練習らしい。
子どもたちが私に気づくと、ガイルちゃんの背中からぴょん、と飛び降りてきた。
長くなった尻尾をぶんぶん振りながら、私の周りにわらわらと集まってくる。
……癒されるぅぅ~~~。
まだどこか無垢な表情が残っていて、このまま大人になっても、どうかその純粋さを失わないでほしい、と願ってしまう。
私とカイテルさんがガイルちゃんの小屋の外に腰を下ろすと、子どもたちは一斉に、カレル森に連れて行ってもらった話を始めた。
お父ちゃんとお母ちゃんに褒められたこと。
初めて仕留めた獲物のこと。
兄弟げんかで勝ったこと。
みんなが一度に話すものだから、誰がどの話をしているのか、正直よく分からない。
それでも私は、
「そうなの?すごいね〜」
「そんなこともあったの〜?」
「みんな、本当に大人になってきたね〜」
と相槌を打つ。
すると子どもたちは、さらに嬉しそうに尻尾を激しく振った。
あと数ヶ月もすれば、きっとみんな旅に出る。
そう思うと、胸の奥が、きゅっと痛んだ。
ホワイトウルフたちが再びカレル森へ向かい、ガイルちゃんとも別れたあと、私とカイテルさんは並んで屋敷へ戻る。
「子どもたち、何を話してたんだ?」
「ふふっ。他の動物をたくさん狩れたとか、お父ちゃんとお母ちゃんに褒められたとか、兄弟げんかで勝ったとか……そんな話です。みんな、リオとリアと違って、無垢で素直で可愛いホワイトウルフちゃんですよ」
……さっき聞いた、生々しい狩りの話は、そっと心の奥にしまい込む。
あんなに純粋な顔で、血なまぐさい話を楽しそうに語るなんて。
ショック半分、でも感心半分。
さすがホワイトウルフだな、と思う。
この家族に出会ってしまった他の動物たちは、少し可哀想だけど……
それでも狩りは、ホワイトウルフの本能だ。
それを奪うことは、できない。
そんなことをしたら、ホワイトウルフじゃなくなってしまう気がする。
そもそも、ガイルちゃんや人間の子どもたちと仲良く遊ぶこと自体が、あり得ないことだ。
「リオとリアは、素直じゃないのか?」
「自分たちが"強きホワイトウルフ"だっていうところには、ものすごく素直ですね。いつも自分たちのことをべた褒めして、偉そうです」
「はははっ!」
カイテルさんは声を上げて笑った。
その笑顔を見て、私の頬も自然と緩む。
そして、気づかないうちに、カイテルさんの手をぎゅっと握っていた。
今は、不思議なくらい落ち着いている。
胸が高鳴りすぎることもない。
顔が熱くなることもない。
ちゃんと、まっすぐカイテルさんの顔を見ることができる。
穏やかで、温かくて、静かな幸福。
――ずっと、こんなふうに一緒にいられたらいいな。
……でも、それはきっと、高望み。
ふと、屋敷の灯りが視界に入る。
その瞬間、胸の奥に、かすかなざわめきが走った。
私は、いつまでもここにいられるわけじゃない。
試験が終わって、仕事を見つけたら――
きっと、この屋敷を出ることになる。
私は平民。
お父様とお母様の本当の娘じゃない。
どんなに優しいお父様とお母様でも、いつかは私を持て余すかもしれない。
だから――私は、出ていくべきなのだ。
その時、私は、またこうしてカイテルさんに会えるのかな……。
王城ですれ違うだけでも、少しでも話せるのだろうか。
……胸の奥が、もやもやする。
涙が、こぼれそうだった。




