あの仮説の行き着く先
早朝。
アーロンは定例会議を終えると、自身の執務室に戻り、溜まっていた報告書に目を通し始めた。
――ふむ。
一枚目に目を落とした瞬間、眉がわずかに寄った。
バンデで、ここ最近、肺炎が流行しているという報告が上がっていた。
大賢者様の『流行病』の予知通りだ。
この二週間で、すでに死者は百人を超えている。
この件については、保健省のショーン殿から定例会議のたびに何度も報告を受けていた。
肺炎――
四十年前、王都で猛威を振るった病だ。
当時は三万人以上の命が失われた。
医者たちは必死で治療法を探したが、できたのは患者の死期をわずかに遅らせることだけだった。
肺炎は、バイ菌による病と考えられている。
当時取られた対策は、王都の空気と飲み水を徹底的に清浄化すること。
その二つしかなかった。
結果――
水の魔法使い、
風の魔法使い、
浄化系の魔法使い、
これらの需要が急激に高まり、彼らは医者と同様に休む間もなく働き続けたという。
流行が完全に鎮まるまで、実に一年もの時間を要した――
そうした記録が残っている。
そして、いま。
同じ病が、バンデで起きている。
今はショーン殿がすでに水の魔法使い、風の魔法使い、浄化系の魔法使いをバンデに派遣し、街の浄化を進めている。
今回も、おそらく最後まで同様の対策が取られることになるだろう。
流行病の対応は、本来なら保健省の管轄だ。
だが、病が街を蝕めば、必ず治安は悪化する。
混乱に乗じた犯罪の増加は避けられない。
騎士団のバンデ支部は、街民の安全を守らねばならない。
だが、人手不足に陥る恐れがある。
そのため、現在も騎士団本部から定期的に数十名の騎士が派遣されている。
バンデは海の街だ。
海の向こうから、人も物も、そして――
目に見えない病までもが流れ込んでくる。
美しい街ではあるが、決して治安が良いとは言い切れない。
密輸、
外国からの違法入国、
国外への人身売買、
どれも後を絶たない。
これは、十大大臣が一丸となって対処しなければならない問題だ。
……しかし、人間というのは、つくづく賢い。
一つ塞げば、すぐに別の抜け道を見つけ出す。
どうせなら、その知恵を悪い方向に使わなければいいものを。
朝だというのに、胃の奥がきりきりと痛んだ。
――コンコン。
案の定、秘書が部屋に入ってくる。
「アーロン大臣、エミール副団長がお見えです」
「通せ」
――いい報告であってほしい。
エミール副団長は入室すると、すぐに報告を始めた。
「アーロン大臣、ご報告がございます。昨夜、ルーカス・ブローカスの行方を突き止め、逮捕しました。
リーマ嬢の仮説どおり、専属メイドがルーカスに協力し、虚偽の証言をしていたことも認めています」
アーロンは思わず目を見開いた。
「……何だと?あの仮説が……本当に当たったのか?」
「はい。ルーカスは死亡したことになっていたため、ブローカス家の使用人は次第に辞め、別の仕事へ移り始めていました。
昨夜、その流れで件のメイドも屋敷を出ましたが――」
エミール副団長は淡々と続けた。
「我々は三日前から彼女を尾行していました。
南町の宿に入ったのを確認し、
しばらくしてルーカスと合流して出てきたところを、その場で二人とも確保しました」
「……うむ、そうか」
……リーマが楽しそうに披露していた、あの名推理――いや、仮説。
それが、ここまで綺麗に当たるとは。
本当に、突拍子もない子だ。
特別な力を持ち、植物の知識も豊富。
頭もいいし、礼儀も悪くない。
貴族の作法を身につければ、社交界でも十分に輝ける。
カイテルと結婚すれば、メイソン家の将来は安泰だろう。
「メイドは、その後ルーカスと共にマラーヤへ向かう予定だったそうです」
「リーマお嬢様、すごいですね〜。まさか、あの仮説が本当に当たるなんて」
ウィリアムズがくすくすと笑った。
「あの時、あまりにも楽しそうに話を聞いていたからな。
何を考えているのか気になっただけだ。
期待していたわけではないが……この前の指輪の件を思い出してな」
「ふふふっ。ご本人も、自分の推理が当たるとは思っていないでしょうね。知ったら大喜びでしょう」
「はは……本当に不思議な子だ。結婚式はいつになるんだろうな」
「それはカイテル様次第ですね〜」
「クククッ」
エミール副団長は肩を震わせた。
「それに、ルーカスは庭師を殺す三日前、わざと殴ったことも自白しました。リーマ嬢の言った通り、計画的殺人です」
エミール副団長は微笑みながら続けた。
「二人とも、我々が尾行していたと知って相当驚いていました。特にメイドは、自分が疑われているとは微塵も思っていなかったようで」
「……だろうな」
アーロンは満足そうに小さく頷いた。
「よし。今回の麻薬事件も、これまでの悪行も、すべて吐かせろ。あいつはもう我々の手の中だ」
「承知いたしました」
エミール副団長が、わずかに口角を上げた。
――スイッチが入ったな。
穏やかな笑みを浮かべる彼は、拷問尋問のプロだ。
彼にかかって口を割らなかった者を、アーロンは知らない。
デリュキュース国は殺人罪に容赦がない。
死には死を。
ルーカスは、もはや逃げ場を失っている。
今までの罪で罰を与えられないかもしれないが、自ら人の命を絶ったとなれば――
今までの罪はもう関係ない。
アーロンの目は鋭くなった。
だからこそ、死ぬ前に、徹底的に役に立ってもらう。
その切り札が――『分解構成魔法』。
エミール副団長の持つ、希少な特殊魔法だ。
初めてその名を聞いたとき、それが騎士団のために、どのような形で使われるのか――
アーロンには、想像もつかなかった。
それが、これほど恐ろしい力になり得るとは。
穏やかで爽やかな彼は、騎士団入団間もない頃から「拷問の天才」と呼ばれ始めた。
理由が分からず、不思議に思っていた――
あの日までは。
優しい声、穏やかな笑み、柔らかな手つき。
次の瞬間、目の前で起きた猟奇的な光景。
あの時感じた恐怖は、今も身体が覚えている。
単純な名前の魔法を、あんなグロテスクな使い方に結びつける発想。
エミール副団長は、間違いなく拷問の天才だ。
百人いれば、百人が吐く。
もし自分が相手なら、魔法を使われる前に白状する。
ルーカスがすべてを吐くのは時間の問題だ。
あとは、その結果を待てばいい。
事件が順調に進んでいることを実感し、アーロンはようやく肩の重荷が下りた気がした。
――だが、それはほんの束の間の安堵に過ぎなかった。




