廃街の影
ジルは今、騎士団の留置所にいた。
目的は、メイソン家の使いだと自称した男を取り調べるため――
男は床に座り込み、膝を抱えていた。
体は強張り、目は落ち着きなく泳いでいる。
まるで崖っぷちに追い込まれた小動物のようだ。
もしこれが演技なら、こいつは天才的な名優だ――
だが、ジルの勘はまだ判断を保留していた。
「ねぇ~、君は誰から命令を受けたの?」
ジルはいつもの微笑みを浮かべる。
ただし、その微笑みは、見慣れぬ者にとって凍りつくほど冷たく、獲物を狙う捕食者のようだ。
男は声を震わせ、肩を小刻みに揺らした。
「お、おれは……本当に知らないんだ。
……あ、ある男が、これを病院に持っていけば三百セルくれるって……」
涙と汗が混ざり、男の顔は青ざめていた。
唇はわなわなと震えている。
「……お、おれの子どもが病気で……
お金が必要で……
ど、毒なんか知ってたら、そんなこと絶対しない!」
ジルは少し首を傾げ、薄ら笑いを浮かべた。
「へぇ~、そうかそうか」
男は視線を落とし、足元の模様の一片を必死に見つめながら、震える手で服をぎゅっと握った。
まるで目の前の騎士に踏み潰されるのを待っているようだ。
「じゃあ、メイソン家の使いってのは?」
「あ、あの男が、こう言えば問題ないって……
リーマって名前も……言えばいいって」
ジルは取り調べ室の壁際に立つもう一人の騎士をチラッと見た。
その騎士は無表情で首を横に振った。
……ふーん。
本当に嘘をついてないんだな。
ジルは両手を頬杖に置き、笑みを浮かべながら男をじっと見つめた。
その視線は、笑顔とは裏腹に温かみなど一切なかった。
……まるで、
獲物を逃がさない捕食者の眼差しだった。
「その男はどんな男?詳しく説明して」
男は唾を飲み込み、肩を震わせながら言った。
「黒いローブをかけて、フードもかぶっていた……顔は見えなかった。
特徴もなにも……三百セルもすぐに払ってくれて……
子どもも病気だから、うれしくて……何も考えなくて……」
ジルは微笑んだまま、男の言葉を一つ一つ頭の中で整理していた。
男は声を出さず、ただただ床を見つめ、手をぎゅっと握ったり緩めたりした。
背筋がひやりとするような沈黙が、部屋に満ちた。
「どこで会った?」
「廃街区域の、入り口で……
おれ、外で、硬貨を探していて……
それで、あいつに声をかけられたんだ」
ジルの指が机の上をゆっくりと叩いた。
「ふーん……おまえ、どこに住んでる?」
「……は、廃街区域、だ」
「いつから?」
「三年前……おれ、子どもがいて、でも仕事がなくて……
廃街区域って、金がかからないから」
「廃街区域で怪しい人に会ったことはあるか?」
「あそこ、だれも、怪しいんだが……」
ジルは笑みを消さず、口角をわずかに上げた。
一瞬ジルを見上げた男は、息を詰め、心臓が喉まで飛び出すかと思うほど早鐘を打った。
男はすぐ俯いた。
「おまえのような人は廃街区域にとって、怪しくないよ~」
ジルはニタリと笑い、視線を男の額にじっと釘付けにした。
「俺が知りたいのは、おまえのような人間じゃない者のことだ」
男は体を揺らし、必死に考えた。
「……そ、それなら、廃街区域の北部には……街の人みたいな人が……いる」
ジルは眉をわずかにひそめた。
「どんな人?」
「おれも……しらない。
あの街の人が……
おれみたいな廃街の人間じゃない、普通の街の人が、
よくあそこに出入りしてるんだ……」
ジルは視線をもう一人の騎士に送り、手で合図を送った。
その騎士は無言で部屋を出ていった。
「どんな用件で?」
「し、しらない……
ときどき見かけただけで……
あいつら、なにをしてるか、しらない」
「どんな人が出入りしてる?」
男は一歩一歩、処刑台に近づく感覚になった。
「普通の街の人だ……
おれみたいな、クズじゃない……
最近、女も子どもも……見かけたことがあった」
「……女と子ども?」
「そうだ……でも、見たのは、一度だけ」
騎士が取調室に戻り、手には地図を持っていた。
「北部のどの辺?」
ジルは地図を広げ、男の前に差し出した。
――廃街区域の地図だ。
男はしばらく迷いながら、震える手で北部の一点を指さした。
「女と子どもを見たのは、ここだ」
ジルの笑みは薄く変わらない。
だが、その視線は男の胸に突き刺さった。
「へぇ~、すごいね。そんなにはっきり覚えているの?一度しか見かけていないのに?」
「あ、あそこにごみ捨て場があったんだ!だ、だから、覚えてる……」
ジルは息をひそめ、男を見下ろしながらゆっくりと近づいた。
「ふーん……北部のごみ捨て場か」
男の背筋に冷たい汗が伝った。
「その女と子どもは、もしかして……」
ジルはそこで言葉を止めた。
言葉を濁したその瞬間、男の呼吸が荒くなり、手の震えが止まらなくなった。
ジルは微笑みを崩さず、男の耳元で静かに囁いた。
「さて……おまえが知っていること、すべて吐いてもらおうか」
部屋の空気は張り詰め、男はただ床を見つめ、心臓の鼓動だけが耳に響いた。
「お、お、おれは……もう、なにもしらない!その女も子どももしらない!一度しか見たことないんだ!」
男は震える口で訴えた。
「し、信じてくれ!ど、毒は病院に運んで行っただけだ!それ以外何もしていない!本当だ!信じてくれ!」
ジルは再び騎士をちらっと見た。
騎士は首を横に振った。
……ふーん、やっぱ嘘ついてないんだ。
つまんないなぁ。
ジルはこれ以上情報を引き出せないと判断し、男を拘留所に入れた。
特殊魔法を持つ騎士が、その男の持っていた金の痕跡を調べた。
すると、廃街区域のあちこちからその痕跡が出てきた。
おそらく、廃街区域で集められた金を寄せ集めたものだろう。
「徹底してるな……」
ジルは呟いた。
あの男から、女と子どもに関する情報は得られた。
麻薬団員の口封じのために動かされた医者の妻子である可能性が高い。
もうすぐアーロン大臣から、正式な捜査命令が下るだろう。
デリュキュース国は発展した実力主義の国だ。
比較的住みやすくはあるが、格差も貧困も存在する。
そうした人々の中には、日々の辛さから逃れるため、一瞬の幸せを求めて麻薬に手を出す者もいる。
大金を得るために麻薬を売買する者もいる。
富裕層の中には、火遊び感覚で麻薬に手を出す愚か者もいる。
ジルの知り合いの貴族の中にも、麻薬依存者が何人かいる。
その気持ちは理解できないが、おそらく彼らにとっては「娯楽」だったのだろう。
後で後悔しても、麻薬は一度ハマると一生やめられない。
王様は何度も麻薬の恐ろしさを国中に通達しているが、効果は限定的だった。
何らかの理由で、人はどうしても麻薬に手を出してしまう。
これは王様と十大大臣の悩みの種のひとつだ。
リーマのよく言う「街は物騒で残酷で残忍」とまではいかないが、
国ほどの巨大組織の中には必ず闇がある。
デリュキュース国でも麻薬が出回っていることを、国防省も騎士団も把握している。
ジルも、幼馴染たちも、他の騎士も、これまでに何人もの麻薬売買者を逮捕してきた。
他の街の騎士団拠点も、何十もの麻薬団を潰してきた。
しかし、麻薬工場が王都プロメルにあったことはなかった。
今回の麻薬団の裏にいる人間は大胆すぎる。
王都近郊に麻薬工場があると副団長から聞いたとき、ジルは驚いた。
しかも大量の麻薬――
あんな量があれば、余裕で国一つ二つを危険に晒せる。
リーマが王都に来て三日で大事件を発見したとは、誰が想像できようか。
しかも、あのリーマが麻薬依存症の治療法を知っている。
今、最高幹部の間では麻薬依存症治療の話題で持ちきりだ。
麻薬で苦しむ国民を救う兆しとして、王様も十大大臣も大いに期待している。
治療の途中で四人が口封じされたという衝撃的な出来事もあった。
しかしリーマは、アーロン大臣から直々に依頼を受け、治療を継続して順調に進めている。
これからまた麻薬依存症の治療に危害が及ぶかもしれない。
だが、それを防ぎ、対処するのは騎士であるジルたちの仕事だ。
リーマの護衛はカイテルに任されている。
あいつは喜んで全力で、命をかけてもその仕事をやり遂げるだろう。
リーマ自身の心配はまったく要らない。
しかし、他の騎士たちの行動は……
いや、彼らは勝手にリーマを守ることを、自分たちの宿命だと信じ込んでいる。
ジルはこの間の騎士団本部の出来事を思い出した。
リーマがアーロン大臣から麻薬団員の看病を依頼され、特別に病院へ出勤することになった。
その日の夜、騎士団本部は騒がしかった。
誰が病院の任務を担当するか――
くじ引きで決めた。
当たった者は、狂ったように大喜びしていた。
団長や副団長に一喝されても、構わずはしゃいでいた。
ジルは思わずふっと笑った。
騎士団には女性騎士もそこそこいて、きれいな女騎士も何人もいる。
しかし男性騎士の割合が圧倒的に高い。
女性騎士は並の女性以上に逞しく、場合によっては男性騎士より強い。
体格も大きいため、守られる対象として意識されないこともある。
リーマは美少女だ。
女性不足の騎士たちに非常に好まれる。
カイテルがリーマを騎士団本部に連れていきたくない気持ちも、よくわかる。
ドラゴンやホワイトウルフ、ブラックベアさえ制御できる特別な力を持ち、
植物の知識も豊富だ。
特別な子だと、改めて思う。
カイテルの目の確かさも、納得できる。
ジルはため息をついた。
もし。
……もしあの時、
俺が先にあの子に出会っていたら、今はどうなっていただろうか……。
リーマはテレンズ家に住んでいる?
街中で、俺があの子の手を引いて歩いている?
それは今はできないことを、胸の奥で、少しだけ——
残念に思った。
「……」
……まったく、柄にもないことを考えるな。
ジルは思いを巡らせながら、廃街区域の捜査準備に取りかかった。




