8>> 緩やかに
男の約束をしたことでアルの中にまた変化が訪れた。フレッドのことはまだよく知らないけれど、オデットを挟んでアルの中でフレッドは特別な関係の立ち位置にいる大人になった。それはアルの中では初めて意識する『大人の男性』でもあった。
村長たちとは違う。村の男性たちとも全然違う、けれどアル自身の友達とも違う……変わった関係……
アルにもよく分からないけれど、フレッドはアルにとっては『特別な大人の男性』になった。
フレッドは今、完成した一軒家に住んでいる。少し前までは近所の家に間借りしていたけれど、今は一人暮らしだ。一人で住むには少し大きな家だったが、だからこそアルは気兼ねなくワッツたちとフレッドの家に押し掛けて親の目も気にせずに遊ぶことができた。子供たちの体の良い逃げ場所になってしまったが、フレッドは子供たちが出入りすることを大して気にすることもなく──さすがに子供たちも寝室には入らないので──子供たちの親もフレッドの家ならば安全だろうと大目に見ていた。
「あ! お前達またサボってるのか!?」
家に帰ってきたフレッドが部屋の一室で地図を見て遊んでいたワッツとガゼルとアルを見つけて少し怒った声を出した。
それにワッツが涼しい顔で答える。
「サボってないよ。言われたことはちゃんと終わらせてきたよな〜」
「ね〜!」
ガゼルの相打ちに続くようにアルもフレッドに返事をした。
「遊んでないよ、勉強してるんだ!」
そう言って机の上に広げていたこの国の地図を撫でた。フレッドの家にはこの村にはなかったような本や地図などがあった。それらはフレッドが子供の頃から集めていた物で貴族が持つ物にしては安物ばかりだったが、それでも村に住んでいる平民には見慣れない物ばかりだった。だから中身に何が書かれているのか理解できなくても子供たちにとっては見ているだけで楽しめるものだった。
今はアルが地図の見方をワッツたちに教えていたところだった。だから遊んでいた訳では決してないのだ。
「勉強ね〜……」
疑いの眼差しを向けながらそう言ったフレッドにアルは笑い、若干大袈裟な動きで地図の上を指して場所の名前をワッツとガゼルに教えていた。そんな子供たちをそのままにフレッドは腕に抱えてた袋をキッチンの上に置いた。その置かれた袋からゴロゴロと芋が数個転がり出てアルの視界に入った。
「またおイモ?」
アルの質問にフレッドは水の樽から水をコップに移しながら「ん〜?」と返事をした。
「またっつーかここ最近ずっと芋だな。芋と肉と食べれそうな緑の葉っぱを適当に。慣れると塩でなんでも食えるから楽でいーぞ」
そう言って笑うフレッドにワッツとガゼルが嫌そうな顔をした。
「うえ〜! 何その食事!?」
「パンは?! 常備してないの?!」
「パン? いや〜買いに行くの面倒でなぁ〜。パン売りの人とも時間が合わないし」
「村長家に言ってくれたら持って来るのに?!」
「いやいや悪いよ。毎日家族の為に焼いてるんだろ? 数が増えると大変だ」
「村専属の剣士に塩だけの食事させてる方が大変じゃね?!」
「村長が知ったら泡吹くよ!?」
「大袈裟だな〜、腹いっぱい食べてるから大丈夫だよ」
「飽きないの?」
「俺は元々食えれば何でもいい方だったから飽きるとかはないな〜。満腹になるかどうかの方が重要だ」
そう言って本心から気にしてないという顔で笑うフレッドに子供たちの方が納得できないようななんとも言えない渋い顔をした。元貴族でそれはいいのか? と顔にも出ているのだがフレッドは気にせずに水を飲む。アルはその姿を見て『この人まさかお茶を入れたりもしないんじゃ……』と訝しんだ。
そんなフレッドの話は早速その日の夕飯時に村長の耳に入った。フレッドは元貴族。そんな男が一人暮らし。やはりか……、と村長は額を抑えながら呟いた。
「材料さえ手に入れば自分でできると言うから料理も覚えてきているのだと思っていたのだが……まさかパンさえ食べてはいないとは……
仕方がない。明日からはうちからパンを届けよう」
そう言った村長に村長の妻が苦笑いで同意した。
「そうですね。うちは育ち盛りの子供の為に毎日多目に焼いていますから、そこに1人分増えたところで大した手間ではありませんよ」
「そうだな。では誰に届けさせるかだが」
その村長の言葉を待っていましたとばかりにアルは手を上げた。
「お母さんがいいと思う!
だってお母さんとフレッドさんは友達だから!」
「え? あ、アルっ?!?」
アルの発言に驚いたのはオデットだ。いきなり何を言い出すのかと慌てるオデットだったがアルの発言に驚いていたのはオデットだけで村長や他の家族たちはそんなオデットを見て優しく笑っていた。
アルは楽しそうな目をして村長を見ていた。そこにはもうこの家に来てすぐの頃の怯えた感情も不安な感情も浮かんではいなかった。今のアルの目にはイタズラを思いついた悪ガキのような感情が浮かんでいる。一時期抱えていた『母親が居なくなる寂しさや怯えの感情』は今のアルには全く感じ取ることはできなかった。
村長はフフッと笑ってアルとオデットに慈しみの眼差しを向ける。
「ではオデット。明日からフレッドの家にパンを届けて上げなさい」
「わ、私がですか……? でも、朝はお家のお仕事が……」
村長の言葉に戸惑いを見せるオデットに村長の息子嫁が話し掛ける。
「貴女が少し離れたくらいで問題ないわ。それよりうちの村に居てパンも食べられないなんて話がでてる方が問題よ」
その言葉に村長の妻が頷く。
「味付けが塩だけなんてのもね。他所の村に知られたら笑われちゃうわ。
オデットさん、うちにある調味料も持って行ってフレッドさんに料理を教えてあげてくれる?」
「え?!」
突然の話にオデットは驚く。だが驚いているのはオデットだけで他の誰も、息子のアルでさえニコニコしているだけだった。
驚きと戸惑いで頬を赤くして狼狽えるオデットに村長の息子嫁は自分事のように喜んで胸の前で手を合わせた。
「まぁ! それがいいわ! 最近オデットの料理の腕も上がってきたもの! 自分で作るだけより人に教えながら作った方が上達するって言うし、そうしなさいオデット。家の事なら気にしなくても大丈夫よ」
嬉しそうにそう言われてオデットは返事に困った。料理はこの家に来てから覚えたオデットは本当ならまだ人に料理を教える程の腕ではない。でも『上達の為に』と言われてしまえば下手を理由に断る事はできなくなってしまった。
オデットは無意識にアルの顔を見た。自分が困った顔をしているのが分かる。息子の反応が気になったが、当のアルは心底嬉しそうに微笑んでオデットを見ていた。
◇ ◇ ◇
「アル……」
自分たちの部屋へ戻ってきたオデットは先に部屋に入っていたアルの小さな背中に声を掛けた。その声には戸惑いがどうしても滲み出てしまう。やましい事など何もないがオデットの心がフレッドに対して特別な感情を持っている所為でそのことが息子への後ろめたさになっていた。
『母親が父親以外の男を意識していることを息子は気持ち悪いと思うかもしれない』という考えが無意識にオデットの心に見えない重石となってのしかかっていた。恋心は『母』ではなく『女』をオデットに意識させる。息子の前でその感情を出すことにオデットは戸惑いを感じずにはいられなかった。母を求める息子の前では『母』であらねばならない。なのに自分はフレッドの前ではどうしても昔の感情に引きずられて“母親ではない自分”がでてきてしまう……だから……
「フレッドの事なんだけど……」
オデットはなんと言えばいいのか分からず言葉に詰まった。フレッドの顔を見ていたいと思うのにフレッドの側にはあまり居たくないと思ってしまう。その矛盾にオデットはまだ自分の中で上手く折り合いをつけることができていなかった。それなのに強制的にその状況になろうとしている。そんな自分を見て息子はどう思うだろうか。そのことに不安を覚えてしまうオデットは後ろめたそうな視線を息子に向けていた。
「ん?」
瞳を揺らす母を不思議そうに見返したアルが少しだけ首を傾げる。まだまだ幼さの残る声で「どうしたの?」と聞き返されて、オデットは喉に少し詰まってしまった言葉を続けた。
「アルは……気にならない? お母さんが、彼のところへ行って……」
オデットの中でアルの記憶が浮き上がる。『絶対に側に居てね。僕を離さないでね。僕を一人にしないでね、母様』その幼い声が木霊する。アルから離れる気はないけれどフレッドの側に居たら絶対に自分はフレッドのことを考えてしまう。フレッドのことを見てしまう。フレッドの声に耳を傾け……もしかしたらアルよりもフレッドを優先してしまうかもしれない。アルを……一人にしてしまうかもしれない……
オデットにはそれが怖かった。
だけどオデットのそんな不安など分からないアルが母が何を聞いているのかわからないという顔できょとんとしてオデットを見返した。
「気にならないよ? それよりもフレッドさんが塩味の湯で芋ばっかり食べてる方が気になるよ! お肉も焼いて塩だよ!? この前なんて夕飯作るの面倒だって干し肉齧ってたからね!」
呆れを通り越して不満だと言わんばかりの勢いでアルはフレッドのことを話した。そしてオデットの前に来るとその手を取って笑った。
「お母さんもフレッドさんの友達なら叱ってやってよ! 絶対あんなの体に悪いよ!」
アルの反応にオデットは少しだけ驚いて、そして困った様に微笑んでアルを見返した。
「……まぁ……、お野菜も食べてないの?」
「緑の葉っぱとか言ってたけど……、あれ? あれって野菜のことだったのかな?」
「まぁ?! ……そんなの食事とは言えないわね」
「そうだよ! だからお母さんからも言ってやってよ! 僕たちが言っても軽く流しちゃうんだから!」
「フフ、……そうね……、“お友達”として注意して上げなきゃ……」
優しげに笑うオデットをアルは見上げる。自分の母を。自分だけを守ってくれると考えている母を。アルのことだけをずっと考えてくれていて……そしてフレッドの名前を聞くと少しだけ寂しそうな目をする母を……、アルはジッと見た。
「……お母さんあのね」
「なぁに?」
改めて呼ばれて、オデットは目を細めてアルを見る。その瞳は愛で満ちていた。全身からアルへの愛を向けてくれるオデットをアルは一度も疑ったことなどない。
愛を向ける先が増えたって、母は母なのだ。
「僕ね、ここに来てたくさんの友達ができたんだよ。ワッツやガゼルなんか友達じゃなくて僕のことを弟だって言ってくれるんだ」
「……そう……」
弟、と聞いて少しだけオデットの瞳が揺れた。潤んだ目は嬉しさを表していた。
「孤児院の子とも仲良くなったんだよ。お兄ちゃんって呼んでくれるんだ」
「お兄ちゃん……」
その言葉にオデットはフフフと笑う。アルがそんな風に呼ばれることになんだか胸が温かくなる。自分の息子が大きくなったような、そんな感覚。
「色んな人と知り合ったよ。これからもっと知り合うんだ」
「そうね。たくさんお友達を作りましょうね」
そう言って笑ったオデットを真剣な目でアルは見つめる。
「僕もう淋しくないよ。
だからお母さんを独り占めするのはやめるんだ」
そう言ってアルはオデットに抱き着いた。
「え?」
戸惑うオデットにアルはイタズラっ子の様に笑う。
「僕だけのお母さんで居てくれてありがとう。お母さんはお母さんだけど、お母さんの“好き”が僕だけのものじゃなくたって、僕はずっとお母さんが好きだよ」
「アル?」
「フレッドさんは良い人だよ。僕の友達なんだ。お母さんを守ってくれるって、僕と約束してくれたんだ」
「そんな……約束を……」
「僕が友達と遊びに行っててもフレッドさんがお母さんを守ってくれるんだ。だからね、だから……お母さんも“友達”と遊んでいいんだよ」
そう言って少しだけ抱き着いてくる腕に力が籠もった息子にオデットの胸が小さく軋んだ。ずっと腕の中に抱き締め、一つも零れ落ちないように守ってきたものが自分の意志で腕の中から抜け出してしまった様な少しの喪失感。それと同時に感じる嬉しさ……それはきっと息子の成長を感じたから……
「アル……」
自分を愛おしげな目で見るオデットにアルは気恥ずかしげにはにかんだ。そしてそのはにかみを戯けるような笑みに変えて笑った。
「フレッドさんの健康はお母さんにかかってるんだからね! もう塩味の芋なんか食べれないってくらい美味しいもの食べさせて上げてよ!」
そう言われてオデットは困ったように笑った。
「お母さんもまだ料理は覚えたてだから、美味しいって言ってもらえるように頑張らないとね」
「フレッドさんと一緒に頑張ればいいよ!」
目を輝かせてそんなことを言う息子をオデットは目を細めて見つめた。母だから、恋しいから、そんな自分の中にある浅ましい葛藤も息子の前では光に当てられた影のように薄くなる。何か理由を付けてフレッドとの交流を拒絶することは簡単だった。『母』としての自分を守りたいならそうすべきかもしれない。だけどそんなことは息子は望んでいない。息子は気付いている。オデットの気持ちに。オデットがフレッドへ向ける心に…… それに気付いている上で息子は母の背中を押してくれているのだ。
僕は大丈夫だから、
お母さんも好きにしていいんだよ
……と。
「フレッドと一緒に?」
微笑みながらそう口にすると、何故だが涙が瞳を覆った。無意識に自分の中に押し込められていた心がアルの言葉を聞いてゆっくりと浮上する。『母親なのだから』と蓋をしていたフレッドへの想いがアルの言葉で光の中へと導かれる。
「うん!
僕ね、フレッドさん好きだよ!
お母さんは?」
無邪気な問いかけにオデットは自然と口を開いていた。
「フフ、お母さんも好きよ」
言葉と共に笑顔も溢れた。それが自分の中にずっとずっと閉じ込められていた本心なのだとオデットには分かった。一度も消すことなんかできずに、でもどこにも出すことが許されなかった心。外に出してはいけないと思っていたそれを、アルは優しくすくい上げる。持っていてもいいのだと、息子へ向ける心と、恋へと向ける心を隣りに置いてもいいのだとアルは言ってくれている。
「へへ♪ フレッドさん喜ぶね!」
母の言葉に自分のことの様に頬を染めて笑うアルをオデットは抱き締めた。
「アル……、好きよ。大好き」
「僕もお母さん大好きだよ!」
抱き返してくる腕の温かさにオデットは泣いた。溢れてくる涙が嬉しさなのだと分かる。気付いていなかった子供の成長と、そして、抑えていた自分の心を息子が許してくれたことへの喜び。息子の手を右手で握りながら、左手をフレッドへ伸ばしても許されるのだということがオデットのずっと固まったままだった心を溶かす。それをしてもアルにとってはオデットは母のままなのだと。
『母親』と『恋心』を両立できなかったのはオデットの心だった。強くないオデットはどちらかを選ばなければもっと弱くなってしまう気がして怖くて息子を抱き締めるのに精一杯だった。だから無意識に心に蓋をして、フレッドから伸ばされた手を取れなかった。そんなオデットの握り締めた手をアルは優しく引いてくれる。オデットの手を引いて、アルは反対側の手でフレッドの手を握っていた。母としてのオデットをフレッドへと繋げながら、アルは笑う。
良いんだよ。お母さんだってもう自由だもん。
そんな息子の優しさに触れて、やっとオデットは自分を縛り付けていた何かから解放された気がした。




