三十一日の日 5
俺はその上司の話を聞いて少し貧血を起こしてしまった。
俺は調子が悪いと言って今日は会社を早退させてもらった。上司の大川は何故だか今日は少し優しく、色々と諮ってくれた。彼は自分の所為で俺が調子を悪くしてしまったと思っているらしい。
「おい、大丈夫か?タクシー呼ぶか?」俺は彼に退社するまで面倒を見てもらった。
俺は申し訳ない気がしてならなかった。
「いいえ、大丈夫です。こういう時のために、会社から近い所に住んでいるんですから」
我ながら言っていることの意味がわからなかった。なんだよ、こういう時の為って。
少しの間、休憩室で寝させてもらっていたので、この時は確かに貧血だった時から少し調子が良くなっていた。どっちかというと、気持ちが悪いというより、頭がぼーっとしていて、何かを考えられる気がしなかった。仕事も手につかないし、生きている心地さえしなかった。
帰り道はふらふらとしながら帰っていった。帰り際に会社の一階で、さっきエレベーターで出会った井上佳織とまた会った。
「聞きました、体調がすぐれないそうで。大丈夫ですか?」と彼女から声をかけられたが、「あ、うん、大丈夫だから」と生返事をした。
また彼女との間に少し壁ができてしまったような気がした。もっとも壁を作ってしまったのは自分だけど…。
帰り道、俺は何も考えていなかった。もうすぐで午後の二時となるのに、腹が減っているのかもわからなかったから、只々帰り道を間違えずに帰る事だけを考えていた。いや、それ自体も考えていたのかどうかは少し微妙なラインだった。
歩いていて、いつも通る公園を通りかかると、いつもその公園の青色でぬられた木製のベンチで寝ている一匹の猫が見えた。
この公園は、美さんの家からも近く、また俺の家とも近いので、よく通る事が多い。その時、この公園でその猫を見つけるのだ。いつもそこで寝ているが、特に誰かの飼い猫というわけでもなく、名前があるわけでもなかったので、俺はその猫に勝手に『アルジャーノン』という名前を付けていた。
なぜそんな名前を付けたのかというと、彼?彼女?とりあえずその猫がとりわけ頭の良い猫だと認識しているからだった。
そこら辺でゴミをあさっている野良猫とは打って変わって、アルジャーノンは近くの商店街までわざわざ出向いて、新鮮な食べ物をそこの店の人々から度々もらっているのをよく目にしていた。
そしてなんといっても、その猫の行動力が優れている、という点だった。その猫はこの公園だけでなく、公園から隣町に離れた所まで移動していたところを目にしたことがある。アルジャーノンは迷うことなく、我が町を歩きまわり、そしてまたこの公園へと帰ってくることができるのだ。
本当に頭が良い。
そしてもう一つその名前を付けたのには理由がある。それは、昔住んでいた川根本町内のとある公園にも猫がいて、その猫と瓜二つと言えるほど似ているからだった。雑種の茶虎色の毛色で、体型はぽっちゃりしている。何と言っても可愛いのだ。そして、その猫の名前もアルジャーノンだった。行動が広く、そしてその川根にあった公園にはよく花束が供えてあった。その供えられていた近くのベンチによくその猫が寝ていたという事で、俺がその名前を付けた。名前というより呼び名だけど。
吾輩は猫である、名前はまだない、ってか。
俺は帰り道のその公園でまたアルジャーノンを見て少し目が覚めた気がした。ぼーっとしていた頭を起す為に俺はその公園へ入って、水道で顔を洗った。そしてポケットに入っているハンカチで顔を拭いて、なぜか衝動的にベンチのアルジャーノンの寝ている横に腰をおろして、アルジャーノンの体に触れて毛を撫でていた。アルジャーノンは頬を俺の手に寄せてはすりすりしてきた。毛が程よい肌触りでさらさらして気持ちよかった。
俺は何となくずっとそうやって座りながらぼーっとしていた。
気が付くともう時間は午後の三時になっていて、昼を食べていなかった。流石に成人男性の自分としては少しお腹がすいてきた。それでも俺は食欲がある様には到底自分では思えなかった。
アルジャーノンはずっと俺の隣で寝ていて、程よく寝息を立てていた。平日だが、今学生は春休みまっただ中なので、小学生の小さい子供たちが数人で遊んでいるのが見られた。
本当に無邪気でうらやましい限りに思えた。
そしてまた気が向くままに家に帰ることにした。俺がベンチから立ち上がると、アルジャーノンも起き上がり、ベンチから飛び降りて、公園の草むらの方へ行ってそこから公園を出て行ってしまった。
もう姿は見えない。
途中でスーパーマーケットに寄った。お腹は確かにすいているのだが、料理を作る気力がなかったので、出来合の弁当と冷蔵庫の在庫切れのヨーグルトを買って帰った。
部屋に帰ると、当然の事だけれど、部屋を出た時と同じような風景になっていたので安心した。
俺は結構神経質な性格のようで、家以外の場所では安心できない性質なのだ。大学生の時、友人とハワイ旅行へいった時なんかは、随分と神経をすり減らされて、観光へ行く先々の乗り物で酔っていた。あれは流石に思い出したくはない。
高校を出て、大学で下宿したての時なんかも少しのホームシックに患っていた。家族が恋しかったんじゃない。家が恋しかったのだ。
それでもその下宿先の部屋にもずいぶんと慣れて、就職をしたのに、大学の頃からその部屋を変えていない。
俺は帰るや否や、腹が減っているのにも関わらず、自室のベッドに飛び込んだ。やはり朝が早くて、きつかったのかもしれない。連日の疲れが残っていたのかもしれない。今日は数時間しか働いていなかったのに、疲れがピークに達したのか、俺はスーツを着たままタイも緩めず寝てしまった。
起きると、もう午後の五時半を回っていて、春なので夕方である今はもう薄暗くなっていた。それでも昼間が冬からは少し伸びてきたようだった。
流石にお腹がすいてきたのを感じた。同じことを帰ってくる途中の公園でも思っていたような、と思い出して、何もする気力はなかったけれど、ここで何も食べなかったら、いつ自分はご飯を食べるのだろうと思って、俺は仕方なく疲れた体を何とか起こして、帰路の途中でよったスーパーで買った弁当をレンジで温めた。記憶が曖昧だったけど、帰った後何もすることなくすぐ寝てしまったようで、自分はスーツを着ていて、よれよれのネクタイを巻いて、床に転がっている弁当と、ヨーグルトの入ったビニール袋を拾っている自分が少し滑稽に思えてきた。
弁当をレンジで温めて食べた。自分は基本的に家事ができる人間なので、こういうご飯は久しぶりだ。弁当はおいしくもなく不味くもなく、ただ安いという点だけを考慮して買ったものなので、何とも言えなかった。しいて言うなら、揚げ物はもう少し衣がサクサクした触感が残っていた方がおいしかっただろうに。
それでもある程度の満足感が得られた。お腹がいっぱいになり、子供の様にまた少し眠くなってしまった。でもこのまま寝てしまうと、食事の片付けもせず、風呂にも入らず、明日の目覚ましの時間をセットすることもしない気がしたので、その眠い体を起こし、まず風呂に入ることにする。気分をすっきりさせたかった。
風呂の中で考え事をすることはよくあるが、今日は特に深刻だった。シャワーだけの風呂だったら、考え事をすることも出来なかっただろうから、浴槽のある自分の部屋が、やっぱり一番安心する。
湯気が立っている風呂場でぼんやりと時を忘れて考え事をしていた。やはり今日の出来事を少し整理しなければならないと思ったのだ。
俺は今日、東京という土地で彼女の名前を聞いた。
何故だ、どうして?
何故、今更になって、十年前の彼女の名前を耳にしなければならなかったのか。
どうしたらいい、俺はどうすればいいんだ。この気持ちのやるせなさをどこにぶつければいいのか。
やっぱり帰って、確かめた方が良いのかもしれない。それで全てがわかるのなら俺はそうせざるを得ないだろう。しかし、あの事と全く関係がないのかもしれない線も拭えない。
けれど俺は今日、自分が過ごしてきたみたいに、何もしていない自分に腹が立った。自分の安心できる部屋で蹲っている自分に腹が立った。
俺は今すぐにでも行かなくてはいけない。
結局俺はそう思い至って、俺は風呂を出て寝巻を着た状態で一目散に上司の大川に電話を掛ける。やはりこの上司は良い人なのかもしれないと俺は思った。俺を相当心配してくれて、最期には俺の無理矢理な横暴に耳を傾けてくれた。
東條美月、彼女をつきとめなくてはならない。
俺は自分の頭の中で交錯する記憶をしっかりと思い出そうとしていた。
死んでいった彼女の事を。