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なにもない六日の日  作者: 水無月旬
三日の日
20/31

新月



 二年になってはや十二月になろうとしていた頃、俺はいつも通りに学校を登校した。

 いつもと同じ時間に起きて、朝食を食べて、歯を磨いて、真っ黒い、皺が一つも入っていない学ランを着た。家を出て近所の早起きの老婆に挨拶をする。バス停でバスを待ち、バスが山の方から来たところを乗り合わせる。

 冬になるとバス内は暖房が利いていて温かかった。真っ黒い学ランの中にグレーの毛糸のカーディガンを着ているのでどちらかというと暑くも感じられた。

 窓が曇りガラスになっていた。バスの中には俺一人しかいなかったので、指で窓に落書きをしてみる。窓は冷たく、指に水滴が付いた。

 山を一つ越えると見慣れた集落が見え、数分もしないうちに見慣れたバス停が見えた。

 俺がつき合っている彼女、東條美月がこの通学バスに乗るバス停だった。

 けれども今日、彼女の姿が見えなかった。どうしたものだろう。いつだったか、前まで違うバスに乗っていた時に、一緒のバスに乗ろうと約束した時以来から、美月さんがこのバスに乗らないことはなかった。

 寝坊でもしたのかな?

 本が好きな彼女の事だ、また何時しかのように夜更けるまで読書に入り浸っていたのかもしれない。

 美月さんの事が心配でも、俺は普通にバスに乗り続け、バス停を降りて彼女を待つなんて真似はしなかった。自分も遅刻をしては困る。

 学校に着いた。流石は片田舎の公立高校、エアコンが各クラスに一応ついてはいるが、滅多な事にならなければつかないので、今日みたいな本格な冬になっていても電源が入る気配がなかった。滅多な事と言えば、授業参観とか、公の場だ。

 俺は席について、座るや否や、鞄の中から文庫本を取り出して読み始めた。

 美月さんとは同じクラスだ。登校すればすぐに気が付くだろう。


 学校が始まっても美月さんは来なかった。それじゃあたぶん休みなのだろう。秋が過ぎて急に冷え込んだ。風邪を引いたのかもしれない。

 今日は月曜日。金曜日に美月さんを見た時は元気だったが、土日を挟んでは想像さえつかなかった。

 今日の学校はやけに長く感じた。授業中、美月さんの席を見る度に、ひっそりと人気のない席が一つあってそれを目が捉えると落ち着いていられなくなった。

 帰りのショートホームルームが終わった後、担任である若い女教師に声をかけた。その教師は髪の毛が明るい茶色の背が小さく小柄な教師だった。

「すみません、彼女、じゃなくて、東條さんどうしたんですか?」

 その教師は俺の顔を見るや否や急に暗い顔をして俺を見た。何か言ってはいけないような何かを持っている気がした。

「あなたなら聞いていると思っていたけど…」彼女はそう言った。何かはぐらかそうとしているようなのが見て取れた。

「何も聞いていません。何かあったのですか?もし風邪ならお見舞いに行きたいと思っているのですが」

 俺は慇懃にそう聞いた。はっきりとこちらの意を見せないとその教師は俺に何かの事情を話してはくれないのではないかと何故か思った。

 そうすると彼女は渋々話しづらいような苦い顔をしてこういう、

「聞いていないなら。あなたは東條さんの所へ行かない方が良いかもしれない」

「どういう事ですか?」

「明日、クラスの皆に話す予定だったけれど、あなたがどうしてもっていうなら東條さんの事情を話します。でも、東條さんの所へ行くのかはあなたが決めてね」

 俺はごくりと生唾を飲んで、

「はい」

 と真面目な眼をして応えた。

 担任は少し教室から離れた、資料がたくさん並んでいる部屋へ連れて行った。恐らく、生徒一人一人の進路に関する資料だと思う。前からここの部屋の事は聞いていた。

 部屋の中は薄暗く、少し埃が立ち込めているようだった。窓が小さく、ファイルがたくさん並ぶ大きな棚があるだけで、人間の入ることが出来るスペースが少ししかなかった。

 その担任の女教師はその中に俺をいれ、部屋の扉を閉めた。

 少し俺は別の意味で緊張していた。どういう事かというと、その教師は若くて、意外と美人だったりして、それにこんな狭い部屋で…って、邪な事は一切考えていない。

 それより今は美月さんの事だ。俺はさっきの欲情とは言わないけど、それに近い感情を捨てその教師を見つめた。

 すると教師はドアを閉めて、俺に近づいてこう言った。

「東條さんのお母さんが死んでしまったの」

 …えっ。

 声にならない言葉だった。一瞬頭の中が真っ白になって、目の前がぐるぐると回りだしたような気分に襲われた。

 その教師は続いて何か話している。俺は気分がおかしくなっても彼女の言葉を聞こうとした。

「彼女のお母さんは身体が弱かったらしくて、最近発症した病気が重篤だったらしいの。それで金曜日の夜に死んでしまったの」

 俺は頭をめぐらせた。病気?重篤?死?

 一番初めに美月さんの母親にあったことを思い出す。確かに病人みたいに体が白かった。それには俺も気がついていた。けれども彼女はとてもはつらつとした元気な女性で、若く見えて…。

 そういえば最近、彼女の運転する軽トラに乗っていない事を思い出した。

 美月の降りるバス停で降りようとすると、ここ最近は「お母さん今日は忙しくて」とか「お母さん今日は用事があって」といわれることが最近多かった。今となっては美月さんがその時に少しトーンの低い声で話していたことを思い出す。

「あの市野瀬君大丈夫?」

 教師が俺の顔を覗き込んでそういう。本当に心配してくれているようだった。

「はい大丈夫です。はぁ、はぁ、ショックだったので」

 少し息が荒くなっていた。過呼吸には流石にならなかったが、それでも苦しかった。胸とその周辺が。

「東條さんの家に行くかはあなた自身がよく考えて行くのよ。それじゃあ、もうこの部屋を閉めるからね」彼女は生気を持たずに立ち尽くしている俺の手を取り、部屋の外に引っ張って彼女はその部屋の鍵を閉めた。


 そして俺は力なしに歩き出す。

 気がついてみたらバス停の前に立っていた。学校から歩いて三分も満たない位置にあるバス停だった。

 バスに乗り込んで自分以外に誰もいない静かな車内で俺は思い悩んでいた。

 どうして美月さんは言ってくれなかったのだろうか。

 彼女はなぜ俺にお母さんの事を言ってくれなかったのか、死んでしまう前にお見舞いだって行っていないし、何より死んでしまったことが彼女の口から告げられなかった。

 休みを挟んでいたから?それでもなんで…。

 俺は美月さんのお母さんにとてもお世話になっていたし、何よりあの人は優しい人だった。

 俺はお礼一つ言っていないし、別れも告げていない。

 俺はそんな美月さんと、美月さんのお母さんの事を思うと涙が出て来て、バス内に自分以外の乗客がいなくてよかったと思った。拭っても拭っても涙は出て、まだ美月さんのお母さんが死んだという実感が湧いていないのに涙はどんどん湧いてきた。

 美月さんの降りるバス停に到着した。

 こじんまりとした集落は、山の木々の枯れ模様から寂寥感を感じ、見えていない風が吹いていた。丸型のバス停も今は力なく佇んでいる様子が感じられ、何もかも営力が無いような感じがした。

 俺はバスの固い椅子から立ち上がり、力なく吊り輪に手をかける。そしてバスの前方へ行き、バスをその場で降りた。

 バスは俺の降りた後方でドアを閉じ、そのまま一つ先の山まで登っていく、途中にバス停が三つあって、その三つ先のバス停を俺は降りるはずだった。

 バス停の時刻表を見ると、今去って行ったバス以降のバスはもうここには来ない。

 俺は静かな空間の中に音を立て走るバスを目で送った。そしてそのあと、彼女の家まで続く長いコンクリートの一本道を見つめた。

 俺は美月さんの前で何が言えるのだろうか。このバス停で降りて何をしようというのか。もう家まで送ってくれる、彼女の母親はもういない。

 そういえば彼女には母親以外の家族は居るのだろうか、いつもお母さんの軽トラと、もう一台ボロい乗用車が車庫に止めてあったが、あれは誰の物だろうか。意外にもあまり美月さんの事は知らなかった。そんな自分を悔んでいる。だから彼女は俺にあの事を教えてくれなかったのではないのかと。

 コンクリートを歩く足は既に冷え切り、夏にあれ程熱を反射していたコンクリートが嘘のような冷え具合である。突き抜ける風も耳を通り過ぎ痛く、そして耳を赤くしていく。手も手袋がないとかじかんで指一本動かせない程だった。

 見慣れた建物が見えてきた。

 ここら辺の集落では珍しい豪華な二階建てと、車庫に入る物寂しい軽トラ。

 かつて一回だけ開かなかったドアが今日は絶対開く事の無いような雰囲気を醸し出していて、俺は一層この家のインターホンを押すのが躊躇われた。

 インターホンは鉄でできている訳でもないのに、寒い日に静電気を恐れてドアに触りたくないような気分がした。

 ピンポーン

 それでも古ぼけたインターホンでアナログな音が出た。

 反応がなかった。

 インターホンの音が響き終わった後、その音は静寂に飲まれ、そこは一種の開かずの扉となった。

 俺はもしやと思い、いったんドアから離れて下から二階を見てみる。

 するとここから見える一つの部屋のカーテンが動いているのが見て取れた。

 俺はそれを確認するとまたもインターホンを押して立っていた。それでも誰も出てくる気配がしなくて俺はそのドアの前に立っていた。

 風邪を引きそうなほど寒くて、手が凍えて、耳が痛くて、鼻水が出そうだった。これから歩いて一つ山を越えた先にある自宅へ一時間もかけて歩いて帰ることを想像すると余計辛かった。

 そして何よりも辛かったのが、彼女、美月さんが家から出て来てくれなかったことだった。


 もう何時間ここに立っているのかわからなかった。冬なので日が既に暮れそうで、気温もそれに比例してあれよりもどんどん下がってきた。

 インターホンを何回も押すのは彼女から出てきてもらう一番よくない方法だと分かっていた。だから俺はずっと立ち続けた。

 それでも彼女は出て来てれない。

 俺は半ばあきらめて、帰ろうとした。

 すると、急にドアが目の前で開いて、人が一人出てきた。

 その人は彼女、美月さんではなく、

 髪の長いおっさんだった。

 

 やけにタバコ臭くて、髪が長くて、目元も見えなければ、口元すら見えない。

 けれどわかるのは、その男が如何にも貧乏くさいこと。それ故ここの家が東條美月の家ではないのではないかという気がしてきた。それでも確認すると表札は東條で、見慣れた軽トラが車庫にしっかりとしまってある。

 今考えると、確かに東條家には美月さんのお母さんが吸わないはずなのに、いつもタバコのにおいがしていた。

 俺がじろじろとあたりを見回していると、その男は別段と驚いた様子でもなくこう言った。

「あんた、まだいたのか」

 何かやる気のなさそうなホームレスのおっさんをイメージさせた。さっきはたばこのにおいしかしなかったが、ほんのり酒ぐさいにおいもする。到底いいにおいとは言えなかった。

「美月さんは居ますか?」

 俺はその男にただこのことだけを伝えた。俺は彼女に用があるのであって、こんな顔も見たことのないおっさんの相手をしている暇はなかった。

「美月なら二階に居るが」その男はしゃがれた声でそういう。

「呼んできてもらえませんか?」こんな男にでも俺は一応丁寧な言葉遣いをした。

「俺の言う事をあいつは聞かん」そう言って男はどんどんと俺を追い出して、家の扉を閉めてしまおうとした。

 その事に俺は憤りを感じて、怒鳴ってこう言った。

「じゃあ二階へ上がらせて下さい」きっぱりと

 その男は顔が見えないから表情がつかめなかった。

 閉めようとする扉から手を放し、その場を離れる。

 気づけばもうどこかへ行ってしまって、俺は一人開いた扉の前で立ちどまっていた。

 俺は口を真一文字に引き結んで、折り畳んだ階段を上がる。

 さっきカーテンの動いた場所を目指す。あそこが美月さんの部屋で間違えないだろう。

 こんこん。ドアをノックする。

 返事がない。

 彼女は俺が家に来ている事を知っているはずだし、さっき大きな声で「美月さんの部屋を教えてください」といっていたので、たぶん俺が部屋の前に居ることも知っているはずだ。

 もう一度ノックする。

 返事がない。

 返事がないってことは入っていいのかな?

 「はいっていい?」

 返事がなかった。けれど、何やら部屋の中で物音がした。扉の開く音、ガサガサと音を立てる。

 俺はドアノブを捻って扉をあける。

 中は暗くて電気がついていなかった。カーテンもさっきと同じようにかかっていた。

 中には小柄な少女のシルエットが見えて、部屋の中にあるベッドの上に座っていて、足を地面につけていた。

 精力がなくてだらんとしていた。一瞬死んでいるように思えてしまったが、呼吸が荒いように見えて、肩を上下させていた。

 俺はその場に立っていたけれど、話す隙が見つからなく、また話す言葉も浮かばなかった。

「美月…」ぽつりと呼び捨てでそう言った。

 すると、暗い六畳スペースの部屋の中で小さな声が聞こえた。

「ごめんね」

 美月がそう言ったのだ。

「お葬式は、お金がなかったから家族葬祭にしたの。一矢君に言えなかったのは、一矢君が言うと絶対来ちゃうと思ったから」

 涙を我慢するような声を押し殺したような言葉だった。

「行くに決まってるだろ…」

 俺はすかさずそう答えた。

「ごめんね」

 彼女はまたもそういう。もう何かの拍子に号泣しそうな声だった。

「もういいよ。でも、それでも俺は美月の口で言ってほしかった。お母さんにはとてもお世話になっていたし、それに俺と美月がこういう関係になれたのだって…」

「ごめんね」

 トーンが変わった。震える声で、もはや何を言っているのかもわからない程だった。

「俺はお礼がしたかった。もしお葬式に出れなくても、心から言ってあげたかった」

「ごめんね…」

 俺は涙をこらえていた。ここで泣いたら彼女だってどうしたらいいのかわからなくなってしまう。

 彼女にばれないように目じりに溜まった涙をぬぐってこう言った。

「お墓…今度行っていい?」

「…うん」

 美月はベッドで座っている所からふらふらと立ち上がって、髪の毛で顔元は見えずに、俺の方へ近寄ってきた。彼女は力なく、俺の胸元に倒れ込み、黒色の学ランを両手で握り締めて、胸の上で泪をながした。

 声がない泣き声で、胸に響いて、俺は学ランを握っている彼女の両腕の外側から手を覆い被せるように彼女を抱いた。その時の感覚は今でも忘れることはできていない。



 お墓参りへやってきた。美月もその週の木曜日から学校に来られるようになって、その週の土曜日にやってきた。

 今日も肌寒くて、上空の不穏な天気が心を沈ませた。彼女の集落の少し離れた山の斜面にいくつも並ぶお墓があった。どうやらその中に美月のお母さんのお墓があるらしい。

 歩いて出向いていた俺たちは斜面の道に続く茶畑に囲まれているアスファルトの道を歩いた。

 もう既にお墓には行って、彼女のお母さんにしっかりと、今までのお礼と、感謝の念を込めて手を合わせた。今はその帰りである。

 俺たちは不安定な天気同様、不安定な空気を二人の間で作っていた。

 美月が学校に来られるようになっても、一緒にバス停に降りないので、二人の意思が遠くなってしまったような気がした。

 俺は居たたまれない気分になって、ふとこの間の事を思い出した。

「美月、そういえばさ、この間家にいた人って、お父さん?」

 彼女の家族の話を聞いたことがなかった。それはこの間も思ったことで、けれどもこの間彼女の家に行ったとき、ドアから顔を出したのは彼女のお父さんらしき人物だった。そのことが最近どうにも気になって仕方がなかったのだ。

「あの人?」

 彼女は不思議そうな顔で問うて来た。

「あの人って?」おうむ返しだ。

「髪の長い人?」

「そうだけど…違かった?てっきりお父さんだと思っていたけれど」

 彼女は首を横に振った。そうかお父さんだったのか。

「あの人はね」

 俺は寒い風の突き抜ける耳が痛く響くこんな日でも、彼女の言った言葉を決して聞き洩らさなかった。

「あの人は、消えるべき新月なんだよ」

 笑みを含めた、口元を緩めているその表情も見逃さなかった。

 どうしてかわからないけれど、その時俺は彼女から何かを感じて、彼女が空恐ろしく感じて肌に粟が立った。寒いからかもしれなかったけれど、心なしか、指が震えているような気がした。

 それは年の暮の訪れをまるで待っていない鄙びた集落でのとある日のことだった。






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