三日の日 1
もっと長く生きていたかった。
もっとあの子の所へといてあげたかった。
私は昔から体が弱かった。人より何倍も努力する必要があった。
けれど私はそのハンディキャップを乗り越え、今まで生きて来れた。
あの子にもそういう生き方をして欲しいし、何より幸せになってもらいたい。
彼ならあの子を幸せにすることが出来るかもしれない。
太陽を失った向日葵のように、磁場を失ったコンパスのように、行き場を失ったあ
の子の居場所を見つけて欲しい。
できれば私の死は何もなかったものとして受け取ってくれるのが一番いい。
私はあの子の母親ですもの、幸せを奪う権利などないわ。
懐かしの校舎を眺めながら春先の風を浴びて俺はまたも美夜空の小説を読んでいた。
第四章にまで入ると風向きが少し怪しくなってきた。所謂起承転結で言うなら転の部分に入っているのだと思う。
懐かしの校舎とは、俺が高校時代に通っていた田舎の公立高校。俺はぼろい耐震性が不安定に見える校舎の横にある小さなベンチに腰掛けていた。
そこは少し丘のようになっていて、少し下にグラウンドがあって、それが眺められるようになっている。
この学校のシンボルである桜の並木道はこのベンチと校舎の反対側に位置していて今は見えない。今の時期では昨日の小学校のように桜が満開に咲いているのだろうに。
それでも俺は桜があまり好きではないのでそこまで気にしなかった。第一ここに自ら座ったのだし。
俺は会社勤めをしていて世間をあまり見ていないせいか、まだ公立の学校が春休みだという事を知らなかった。若いから子供もいないし、結婚もしていないし。あ、でも最近大学の時の友達が子供が出来たと言っていたな。その前にも数人の友達が…。別に結婚したいとか子供が欲しいとか、そういう訳ではなく、一人置いていかれる気がして、少し落ち込んだ。
そう、未だ公立高校がお休みのおかげで、今日俺は平日でありながら、すんなりと学校の見学を校長より許可してもらった。
それでもこの高校は確か五月に学園祭があるので、その準備をしている文化部や、インターハイの近い運動部がたくさん学校に来ていて、今俺が見ている丘の下のグラウンドにもサッカー部の生徒や、グラウンドの横にあるテニスコートにもたくさんの生徒や顧問がいた。
静かにはならなかった。特に静けさを求めている訳ではなかったが、折角母校に出向いたのだから追憶する趣くらいは欲しいと思った。
けれどもなんだか複雑な気分だった。今ここで追憶なんてしたらまた涙が出てしまうのではないかと思った。そう考えると活気づいた生徒たちがうらやましくてありがたかった。
「なんであなたがここに居るのかしら?」
後ろから、つい最近耳にしたような声が聞こえていた。聞きなれているのではなく、本当につい最近聞いたばかりのもの。
俺は後ろを振り返った。
すると校舎の裏側の出入り口から一昨日に寝間着姿で出くわしたあの女がいた。
「それはこっちのセリフです。何故あなたがここに?東條さん」
俺は少し睨むように座ったまま彼女を見た。するとその俺の眼を見ても特にひるむことなく、またこちらに歩み寄った。どこからか余裕が感じられた。これは年上の余裕なのか、それとも完全に優位性を持っているのかいまいち分からなかったが、自信が顔に現れていた。
「本当にこっちのセリフです。私ここの教師ですもの」
特に静岡なまりのない言葉を話す。
「何の教科ですか?」
疑っている訳ではないが問いただした。
「英語よ。で、何故あなたはここに?」
俺は彼女を睨んで少し黙った。応える筋合いはないと思ったが、不審者に思われたくないので事情を話した。
「母校の見学です。久しぶりに帰ってきましたから。しっかりこちらの校長先生にも許可をとってありますよ」
「知っているわよ」彼女は即座に答えた。
はぁ?
「あなたが校長室で校長と話している様子を偶々見たのよ。まあ少ししか盗み聞きしてないけれどね」
「あなたがいると知っていたのなら来ませんでしたけどね」
「そう?私に会いたいのかと思っていたわ」
彼女は不気味な笑いを見せた。普通に見ると不気味ではないけれど、彼女の性格を知る限り、意味深な笑いにしか俺は取れなかった。
「何のために?」
「私の渡したあとがきはもう読んだ?」
あとがき?急に何を…そういえば今日持ってきたバッグの中に入っているけど。
「………」俺は何も答えなかった。
「読んでみると良いわ。何かわかるかもね」
また笑った。
「どういうことです?」
「美月の事調べていたんでしょ?元彼氏さん?」彼女は少し馬鹿にしたように俺を見てくる。
どうして彼女はこんな平坦な気持ちでいられるのだろうか。俺は少しずつイライラしてきて拳を強く握り締めた。痛かったけれど気にしていられなかった。
「いいです。もう済んだことですし」
「本当にそれでいいのかしら?」
また笑う。そのたびに俺は彼女に対する憤りが隠せず、頑張って自尊心で抑えようとした。
「どういう事ですか」それでも気になって仕方がなかった。
「美月はまだ死んでいないのよ」
「えっ?」
俺は頭の中が真っ白になった。そしてそう言った後に反転して校舎に戻っていく東條美星を追いかけようとした。
けれどもまた強い貧血が起こって、座っていたベンチに引っかかってこけてしまった。幸い地面が芝生で覆われていたが、俺はその芝生に悔しさとどうしようもない感情に込めておもいっきり握ってむしった。
最後に過ぎ去っていく彼女の声が聞こえた。向こうを向いているので声はあまり聞こえなかったが、はっきりと俺には伝わった。
「あなたの中では死んでいないの」
彼女はそう言って、校舎の扉を閉じる前にそう言って消えた。
俺はやはり悔しさに煮えたぎって、そのまま芝生に横倒れになったままこぶしを握り締めていた。
その時に俺は思った。
まだ解決しなければいけない事があるらしい。
彼女のために。
また車を運転していた。白いワゴン車を走らせて、スピードをどんどんとあげていつ事故が起こっても仕方のないくらいの危ない運転で山道を駆け昇っていた。
気持ちがそのまま運転に現れた。どうしようもなく俺はハンドルを握って車を運転する。
学校で東條美星と別れたのちに、そのまま彼女に言われた通り彼女からもらった東條美月筆のあとがきを読もうとしたけれど、そこで読む気にはなれなかった。どこかで東條美星が見ているような気がして読むことはできなかった。それに何よりここでは気が落ち着かない。もっと別の所で読むのが良いと思い至った。
それでも移動中の車の中ではどうしても先程ぶつけられなかった東條美星への憤りがよみがえってしまい、今に至った次第である。
俺が今この燃費の悪そうな白いワゴン車で向かっている所は彼女、東條美月が自殺したダムへと向かっている。俺が先日袖を濡らしたあのダムだった。
なぜ行こうと思ったのかは自分でもわからない。けれどたぶんそこに行ったら彼女の事が少しでもわかるような気がしていた。何をつかもうとしているのか、何を追っているのか、自分は何者で、どこへ行って、そして何を証明しようとしているのかが分かるかもしれないと思った。
別に家でだってそのあとがきは読むことが出来る。けれど俺にはそのあとがきが自分をそのダムへと導いているのではないかと思うほどだった。
高校から昔乗っていたバスの通路をたどって、また昨日のダムへと行く通りをとって行った。その道のりで枯れた花束が置かれたガードレールを一つ見て俺はそのまま通り過ぎた。
俺は車の運転中何故かこんな事を思い出した。
それは高校二年生の冬の事だった。
季節が春を流れ、夏が過ぎて、秋が終わりを告げようという寂寥感の佇むある寒い日の事だった。
ここは山に囲まれた町である。だから冬は寒い。温暖化といっても雪は降るし、霜も降りる。
そしてうちは質素な家の造りをしているので冬の寒さは壁を突き抜けしびれるように寒い。
『冬来たりなば春遠からじ』という言葉がある。これは冬のように厳しい時期を越えなければ春の暖かい陽光のような時期は来ないという意味だ。
俺はその言葉を聞いて以来、毎年その言葉を信じ、冬を越えていた。
今年も寒い冬が来た。
その日は朝から凍えるような寒さで布団から出たくないと思うような日だった。
俺はその言葉を信じて布団から頑張って出ようとするのだが、
まさか冬より厳しい季節が春先に起ころうとしているとは考えても見なかった。




