二日の日 1
俺は最近になって彼女の扱いに慣れてきた。
扱いと言っては少し体裁的に良くないが、彼女との接し方に初々しさがなくな
った。
俺は夢を必死に追っていた人間だった。いつ時もその夢を捨てることなく持ち続け
ていた。
彼女はどうだろうか。決して打ち明けてくれない夢についてどう思っているのだろ
うか。
いつ打ち明けてくれるのだろう。
いつになったら夢を一緒に追える日が出来るだろうか。
今日も彼女と会う。
俺は群を抜いて音の大きい目覚まし時計を止めて、机に付していた自分に気がつい
て起き上がる。
今日も夢を見ていた。
彼女に少しでも近付けたらと、今日も思っている自分がそこにはいた。
川根に帰って来てから次の日。エイプリルフールも過ぎた四月二日。
今日は一日何もする気力が起きなかった。だから何もする気力が起きないのなら、せめて自分の好きな小説でも読もうと思案する。
実家にはシャーロックホームズシリーズがそろっていて、自分も昔はシャーロキアンだったのだと本棚を見て懐かしんでいた。
それでも何度も読んだ本だったので、流石に再読する気力にもなれなかった。
しかし何もしていないというのも自分としては少し嫌悪感があった。仕事に毒された気がしたが、そういえばと思って、また読み途中の美さんの原稿を読んでいた。
第三章は一介の男子高校生が出てくる話で、その主人公の特徴としては自分に少し似ている気がした。美さんが自分をモデルにして書いたんじゃないかという気さえしてきた。それでも別に怒る気にはなれないが。
第三章を読み終わったところで少し睡魔に襲われていた。網戸から流れ込んでくる春の風が涼しくて気持ちよかった。都会では味わえない新鮮さがあって、別段といい気分になった。
実家はどの部屋も床が畳で、畳でない所は廊下か、風呂場かトイレ位のものだった。それ故椅子が無くてソファーもないものだから休まるところがない。仕方がないので俺はそこらへんにほったらかしにしてあるダニが少し湧いていそうな座布団のような布の塊を畳の横に置いて頭をのっけた。体を横にして、体を畳に擦らせた。
そうするとさらに眠気が増して、今は午前の十時だというのに眠ってしまった。
その時に嫌な夢を見た。
記憶としては良い夢で淡くて昔の高校生時代を思い出させる夢だった。
それでも今の自分には悪夢にしか感じられなかった。
俺はつまらない人間になってしまったと思った。夢でどうこう左右され、過去に惑わされ、しまいには自分の大好きな本にすら裏切られた様に感じる。
別に俺が悪いわけではないのに、俺が特別に不幸な気がした。神様はいなくて、不平等な今と未来を誰彼から与えられている気がした。
俺は気分が悪くなって外に出ることにした。気分が悪いと言っても調子が悪いという意味じゃなくて、頭に靄がかかってすっきりしない気分がしてた。
外へ出ても別段と何処へ行く当てもないのだが、俺は家の周りを歩いていた。
我々は何処から来たのか
我々は何物か
我々は何処へ行くのか
俺は急にそんなタイトルの絵を思い出した。ゴーギャンの有名な絵らしい。一度見たことがあるが俺はあれを見たところで何も感じさせられるものがなかった。元々芸術的なセンスがないのか、わからない。たぶんこういう所で、自分は何か特別な人と違ってくるんだなと感じた。
けれどタイトルは俺の心に留まるものがあるとは感じていた。
まさに今の俺の事を言っているようだった。
追っていた出来事の真相を調べることが出来た。けれど、何故か頭の靄が取れない。心に残る影がずっと暗闇に吸い込まれて、まだ俺はすべてを納得していないような気がした。
それでもそれ以上自分を納得させるものがないし、第一時間があまりなかった。
俺は近所の神社へと来ていた。コンクリートで整備された車の大通りより少し高台に自分の家があって、その高台を降りて、その大通りをすぐ北行くと、神社がある。俺はそこまで歩いた。その神社の手前にある森の入り口のような所に石碑が立っていて、字が書いてあってけれど、俺はその字体が崩れすぎて読めなかった。ミミズがのたくったような字で、上手いか上手くないのかさえ不安になるものだった。
その入り口から石の階段が続いていた。数段で登れる高さではなく、結構な高さがあった。
石段を少しずつ踏みしめていくと、清掃されていない落ち葉が石段を覆っていて、樹が石段の道を囲んで日が当たらないようになっている。腐葉土の匂いがまた一段と感じられた。一段一段上るにつれて、その匂いが増していき、それでも俺は目の前の上部に見える神社の鳥居を目指していた。
一番上まで登ってみると、上ったかいがはたしてあったのだろうかと疑わせるような神社の廃れ様を俺は冷めた目で見ていた。けれどがっかりは不思議としていなかったし、既知の場所なのである程度は予想が出来た。ここは昔からこの腐葉土の匂いと、廃れた神社、暗い空間がお似合いだった。
神社の注連縄の前に賽銭箱があって、賽銭箱の投入口の縦に並ぶ木の棒は折れていたり、中に何も入っていなかったりと、お賽銭を受け入れる箱ではなかった。
生憎、という訳ではないけれどその時俺は財布を持っていなかったし、金を投げ入れようとする意志もなかった。
けれど何故か不思議と自分は平手を自分の首の前あたりで合わせて目を閉じていた。注連縄を揺すっても錆びきっている青銅色の鈴は鳴る様には見えなかったので揺すらなかった。
少し静かになって、俺の背後では木々の隙間から流れる風が神社の境内を埋め尽くす落ち葉を舞い上げていた音が聞こえた。
なんでだろう急にまた涙が出そうな気がして、自分はこんなにも涙もろくなってしまったのかと自分でも驚いた。たぶん十年分の涙が溜まったんだ。自分でそう言い聞かせる。
俺は気が済んだところで誰もいないのに涙を出さまいと走って最初入ってきた入り口と真逆の出入り口から境内を出ようとした。
そっち側の出入り口は石段ではなく、コンクリートの坂道だった。走る途中で、落ち葉で隠れていた大きな踏み石に足を引っ掛けて転んでしまい、転んだ先の地面は柔らかくて怪我はしなかったが、服が汚れてしまった。今日はジーンズにTシャツを着ただけだったからまだよかったかもしれない。そのまま立ち上がって坂道をダッシュで駆け降りた。
境内から出ると急に太陽が明るく、眩しく感じて、丁度南中に差し掛かろうとするまぶしい日差しを見上げた。少し出かかった涙がそのおかげで乾いたような気がした。
自分の来ている服を改めて見てみると、泥で全体が汚れていて、落ち葉がジーンズのあちらこちらについていた。簡易に払って、そして歩き出した。
汚れている自分と、先程の手に翳した太陽を見ていると、なんだか子供に戻った気がする。
そしてそんな事を考えて歩いていくと、自分が通っていた小学校の方へ向かっていた。
さっきの神社の入り口から東側に向かって、また俺の家がある集落の中へと入っていく、民家を何軒か抜けた後、狭い土地で広大に広がる茶畑を抜けてまだ摘まれていない新茶の若緑の匂いがした。先程の腐葉土の匂いとは違って、春の訪れを感じる静岡ならではの匂いが感じられた。
すると、山の斜面が真上に差し掛かる山のふもとに辿り着いて、川の流水の流れる音がした。山の麓に大井川の源流ともなる分岐した川の一つで、せせらぎの岩ばかりの川が流れていた。山、川、と続いて、その次にあるのが、俺が昔通っていた小学校だった。廃校になっても、建物自体は残されていて、タイヤの跳び台や、コースが数本しかない落ち葉が水面に浮かぶ二十五メートルプールがある。昔のままだった。
卒業してから一回も訪れていないことに今頃気がついて、はっとさせられた気分になった。桜の樹が一本だけ咲いていて、学校の入ってすぐ見える校舎の壁には、最期の卒業生なのか、焼き物のパネルを合わせて大きな絵がかいてあった。一本の桜の木と、笑う生徒達、その絵は初めて見たものだったが、この学校の象徴ともいえる一本の桜の木は昔から変わっていない。
十年たってだいぶ変わった俺が来てみても、ここはいつ時と変わらず鄙びている懐かしい風景を映し出していた。
気が付くとずいぶんとお腹がすいてきた。久しぶりにデスクワークから抜け出た、突き抜けた心地よさがあるのかもしれない。やはり昔を思い出した気がして、小学校の時のように土曜日の授業終わりの昼を思い出した。
来た道と今度は別の道を通った。ここの集落は小さいが、道をたどると一周できるような構造をしていて、先程同様茶畑と隣接している事には変わりがなかったが、また変わった風景が見て取れた。
やっぱり昔と変わらない。学校帰りの道にあるここの集落唯一の商店である『川根屋』という店の前に来て、そう感じた。
気向くままに中へ入った。もちろん客は自分以外に誰もおらず、第一、店番のお婆さんも見えなかった。
特に買うものがなかったが、何となく懐かしい駄菓子をいっぱい買った。
ただ甘いだけのプラスチックのケースに入った小粒のグミ。その中にピンクや黄緑などの色のついたグミが綺麗に並べられていて、それを食べるように爪楊枝が一本ついていた。うまい棒、ひもでつるされた赤いピラミッド状の飴、辛い味付けのイカのするめ等々、色々あった。
何となく商品を見て回ると、調味料やら、なにやら色々と賞味期限切れの商品も少々あった。
すると店番のそのまた奥にフリルのカーテンをかけた通路の方から足音が聞こえた。そこから俺の母さんよりずっと年上のお婆さんが出て来て、
「ああ、いらっしゃい」とだけ声をかけて座った。
俺はこのお婆さんをよく知っている。小学校の時からここをいつも利用して、お菓子を買いすぎたりして母さんによく怒られたものだった。
けれどお婆さんは俺の事を覚えていないのか、客と店員の関係だけの挨拶をした。
それでも俺は別に何とも思わなかった。このお婆さん位の歳だと、認知症になったって年相応だし、それに毎年帰って来ていたけれど、今日来た、神社、小学校、川根屋は全部十年ぶりに来たところだった。このお婆さんが忘れていて当然だと思った。
そして手に取った商品をカウンターに出す。そして言われた金額の値段を財布から出そうとする。昭和から値段が変わっていないようなとても安い金額だった。少し経営状況が心配になったけれど、どうせ他人事だから何も言わない。
すると、左側にアイスをいれる大きく白いケースがあって、それが気になって中を覗く、しっかりそのケースは通常運転していて、中には透明な引き戸から見える氷が張ってある内側が見えて、数種類のアイスが並んでいた。当然だと思ったが、コンポタージュ味のアイスが無くて、好きな自分にとっては少し残念だったが、その代わりに、ある懐かしいアイスを見つけた。
丸い惑星のような形をしていて、それを象徴する黄緑色、丸の上から棒が一本伸びていて、左右に枝分かれしている、それが蓋となっていて、その口からアイスが食べられるようになっている。
メロンアイスだった。そして昔が大好きで毎日のようにそれを食べてきたことを思い出した。
ここへ来ると決まって店番のこのお婆さんが『かず君今日もメロンアイスかい?』といっていたのを思い出す。
俺はケースの引き戸を引いて、少し肌寒いケースの中へ手を伸ばして、数個あるメロンアイスの中から二個手に取ってカウンターに出した。母さんの分も買っていこうと思った。
すると、その店番のお婆さんが驚いたように顔をあげて俺を見上げる。少し見つめた後お婆さんは、
「かず君なのかい?」
目を見開いてそう言った。
「うん、帰ってきたんだ」
「なんで急に…」
「父の法事で」
そう言った後、お婆さんは少し考え込んだような顔をして、
「そうかい、あの時は大変だったねぇ」
「はい」
「でも、かず君が、いい大学へ行って、いいところで働いてるって、由貴子さんから聞いて安心したよぉ」
由貴子は俺の母さんだ。
「そうですか」
「昔はあんなにやんちゃだったのにねぇ、随分変わったものだねぇ」
俺は手にしていた腕時計を見る。時刻は十二時半だった。そろそろ家に帰らないといけない気がした。母さんに何も言わずに出てきてしまったから心配させてしまうと思った。
「じゃあそれでは」
俺は愛想笑いを浮かべて濁ったビニール袋に入った商品を持って店を出て行く。ドアの立てつけが悪くて、がたがたと二、三回引いても開けられなかった。するとお婆さんがドアの方へ寄って来て、
「これにはコツがあるんだよぉ」といって、戸の上側を一回割れるかと思うくらいにバン、と叩き付けて、戸を引いた。するとすんなり開いて俺は店の外に出ることが出来た。
その時に何かデジャブがあって、急にいろんなことが思い出された。
さっきお婆さんが自分を覚えてないとか、認知症がなんとか言い出したのは自分なのに、この戸の開け方のコツを忘れたのは自分だった。小さい頃初めて来たときにお婆さんに教わって以来、来るたびに戸が割れる位の大きい音で叩いていたのを俺は忘れていたんだ。
俺は礼をして、店を立ち去る。お婆さんが店の前で俺に手を振って見送っていたのを、俺は一度振り返っただけで、その後振り向かなかった。




