二一.潜入捜査Ⅱ
※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません※※
「あいつ、遅ぇな……」
一美海運の社員がぽつりと呟いた。ダイニングルームにはアスカとその男の二人しか残っていなかった。
「そういえば、一服しに行った奴らも戻ってこねぇな」
男の言葉を聞き、アスカは視線で後方デッキにいるハヤトを呼び寄せた。ハヤトが室内に入ってくると、アスカはさりげなく指示を出した。
「デッキにいる人たちに、『ドリンクラストオーダーですが、何か飲みますか?』って聞いてきてくれる?」
「兄ちゃん、ちょっと待ってて」
痺れを切らした社員の男が、地下へ様子を見に行こうと動き出した。すかさずアスカも「俺も行きますよ」と言い、男の後に続いた。
二人が階段を下りて地下一階のプレイルームに到着した瞬間、凄惨な光景が目に飛び込んできた。
麻雀をしていたはずの四名と、倉庫へ向かった一名。合わせて五名の一美海運の社員全員が、その場で頭から大量の血を流して息絶えていた。
「なんだこれ……!? おい、どうなってんだよ!」
男は半狂乱で叫び、咄嗟に壁に飾られていた脇差をひったくると、慌てた様子で一階への階段を駆け上って行った。
――その、瞬間だった。
ガタンッ!
激しい金属音と共に、船内の明かりが一斉に消灯した。
クルーズ船は、みるみるうちに夜の海の漆黒へと吸い込まれていく。
アスカは視界が遮断された途端、無言で近くのテーブルの影へと身を隠した。
その耳元へ、ハヤトからの音声通信が微かな電子音と共に繋がった。
『アスカさん。一階のフロントデッキに出ていた四名、それから操縦席にいた一名……一美海運の社員、全員が撃たれて死んでます』
アスカは「了解」と低く答えると、そのままマイクに向かって続けた。
「こちらも地下一階で、社員五名が射殺されているのを確認しました。キリコさん、無事ですか?」
数秒の後、カチカチ、とピアスを二回タップする音が聞こえた。
キリコ、ハヤト、アスカの三人が耳の軟骨に着けているピアスは、最新鋭の軟骨伝導通信機だ。声を発することができない状況でも、『はい』なら二回、『いいえ』なら一回タップすれば、それがそのまま確実な返答の代わりとなった。
「目的のデータ収集は?」アスカが再び尋ねると、またしても迷いのないダブルタップの音が響いた。
「了解。おそらく社長の一美自身もすでに襲撃に遭っている可能性が高いです。狙撃手の的になるから、絶対にライトは点けないで。各自、身の安全を最優先にしつつ、応戦せずにすぐ退避してください。有生さんの待つボートに集合。ただちに現場から離脱してください」
アスカは早口で的確な指示を飛ばした。
─
ハヤトが「了解です」と小声で答えた直後、最後の一人となった一美海運の社員が、船縁を伝ってこちらへ全力で走ってくるのが見えた。男は片手にスマートフォンを握り、そのフラッシュライトを周囲にかざしている。
「おい、やられてんのかよ! 誰か生きてる奴はいるか!?」
男はデッキに転がる仲間の死体に声をかけたが、全員が即死していると悟ると、「ちくしょう! ちくしょう!」と半狂乱で喚いた。
男は続けて「……社長」と呟き、二階への階段へ向かおうとする。だが次の瞬間、暗闇に向かって、男が「おい! てめぇ、ぶっ殺し――」と凄んだ声を放った。
その言葉が遮られ、ドスン、と重い肉体が床に倒れる音が響く。
ハヤトは停電の直後から、一階のフロントデッキにある操縦席の影に深く身を潜めていた。
今のでデッキが五人、地下が五人、そして今の男で十一人。乗船していた社員全員が全滅した。残るが一美社長一人だとすれば、この船を血の海に変えているのは一美海運の人間ではない。
単独、あるいはごく少数のプロの暗殺者による襲撃だと思われた。
やがて、完全な静寂が戻った船内に、――カン、カン、カン、と冷たい靴音が響き始めた。
襲撃犯が、迷いのない足取りでキリコたちのいる二階へと階段を上がっていく。
(キリコ姉さんを、助けなきゃ!)
ハヤトの胸に、強い予感が走った。咄嗟に床へと手を伸ばす。
光を放ったまま転がっているスマートフォンのライトを掌で隠し、そのすぐ近くの床に落ちていた、あの社員の脇差をしっかりと握りしめた。
キリコがクローゼットの隙間から一美の死亡を目撃した直後、船内の明かりが一斉に落ちた。キリコは再び暗がりに身を潜め、じっと周囲の様子を窺う。
──その耳元へ、アスカから船が襲撃されているから速やかに退避せよとの指示が飛んできた。
キリコはそっとクローゼットを抜け出し、出入り口のドアへと手を伸ばす。取っ手に手をかけた、その瞬間だった。
足元に転がっていた鉄パイプに足を取られ、キリコは激しく躓いた。
転がるように前のめりになって膝をつき、そのままの姿勢で勢いよくドアを開ける。
――パスンッ。
暗闇を引き裂くように、真正面からサイレントガンが放たれた。直後、部屋の奥の壁に掛かっていた額縁が激しく粉砕される。
もし立ったままドアを開けていたら、確実に頭部を撃ち抜かれていた。キリコの全身に冷たい緊張が走る。
狙撃手は二階のフロントデッキ、つまりキリコの真正面に陣取っている。だが辺りは完全な漆黒で、相手の姿は全く見えなかった。
キリコが身を低くしたまま素早く外へ飛び出すと、階段の下から「姉さん!」とハヤトの緊迫した声が響いた。
「来るな!」
キリコが叫ぶのと同時に、船尾の後方デッキでドンッ! と凄まじい爆発音が鳴り響き、船体が大きく傾いた。
直後、船尾から巨大な火柱が立ち上がり、夜の海を赤々と照らし出す。
階段の下から顔を出したハヤトが、床に這わせるようにして一本の脇差を滑らせてきた。
キリコが顔を上げると、火光の中に、爆発の揺れに足を取られてよろめいている前身黒ずくめの暗殺者の姿が浮かび上がった。
キリコは一瞬の迷いもなく、床を滑ってきた脇差を拾い上げた。そのまま流れるような動作で、低い体勢のまま円を描くように鋭く二回転する。
刃が空を切る。閃光が奔り、狙撃手の足首を深く斬り裂いた。
「ぎえええええーーっ!」
暗殺者が断末魔のような悲鳴を上げた。男は聞き覚えのない異国の言葉で何かを叫ぶと、慌てた様子でそのまま夜の海へと飛び込んでいった。
キリコは追いかけようと立ち上がったが、後ろからハヤトがその手を強く引っ張った。
「姉さん、行きましょう!」
二人はそのまま並んで走り、船の左舷から夜の海へと同時に飛び込んだ。
背後ではクルーズ船がさらに勢いよく炎上し、無数の火の粉を撒き散らしながら、静かに水底へと沈んでいった。
─
有生は、一美海運のクルーズ船から西の方角に四百メートルほど離れた海域で、小型ボートを待機させていた。
緊急退避の指令を出してから、すでに二十分が経過している。そろそろ誰かが戻ってくる頃だと思い、有生はペンライトを握り、海に向かって点滅の合図を繰り返した。
やがて、真っ暗な水面を割ってアスカが顔を出した。
有生は「お疲れ様です」と声をかけ、ボートに這い上がってきた彼に手際よくバスタオルを差し出す。
アスカは「あっす」と短く礼を言うと、珍しく神妙な面持ちで残りの二人を待った。
十分ほど経った頃、ハヤトが水面に姿を現した。アスカがホッとした表情を浮かべ、ハヤトを力強く引き上げる。
「キリコ姉さんも、もうすぐ来ます」ハヤトの言葉を聞き、アスカの顔にようやくいつもの笑顔が戻った。
ほどなくしてキリコがボートにたどり着くと、有生はバスタオルのほかに、新しいTシャツとチノパン、そして事前に各自で用意してもらっていた下着の着替えを手渡した。
すると三人は、周囲の視線を気にする様子も見せず、その場で躊躇なく全裸になって着替え始めた。有生は大急ぎでペンライトを消灯した。
本当に周囲が真っ暗で良かった、と心底思った。自分が今、猛烈に赤面しているのが誰にもバレなくて良かった、とも思った。
「――式呉島までは、二時間くらいです」
有生は照れ隠しのようにそう告げると、ボートのエンジンを静かに始動させた。




