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第二章 興味2

 侑希と出会って一ヶ月が経った六月上旬も裕貴の新宿通いは続けていた。最初は侑希の都合に合わせた日程調整を行っていたが、現在は裕貴の予定に合わせてくれている。侑希が半ば強引に決めてしまったため、裕貴は甘えるしかなかった。


 待ち合わせの場所は変わっておらず、夜の十一時に大きなスクリーンの前に集合する。また、侑希が深夜徘徊している理由を裕貴は知らない。気になっていたが聞くことはできていなかった。


 解散は深夜二時になることが多く、高校生である裕貴に配慮された結果である。真面目な侑希の性格が裕貴に学生らしい生活を促していたのだ。


 しかし、帰る頃に電車がない裕貴は自転車で片道一時間程かけて帰るため、設けられた時間制限はほとんど意味をなしていない。侑希と会った後の学校生活はほとんど寝て過ごすだけだった。


 ただ当然ながらそのことを侑希に伝えてはいない。一ヶ月が経って、裕貴はこの関係の継続を望むようになった。侑希を心配させるわけにはいかなかったのだ。


 それは侑希に惹かれつつある事実を意味していた。


 とはいえ、裕貴はまだ侑希という人柄をよく分かっていない。知っていることは神宮侑希という名前と都内に住んでいること程度なのだ。原因は侑希が話そうとしないからであり、裕貴からは故意に隠そうとしているように見えるほどだった。


 ただ、裕貴が不満に思ったところで状況が好転するわけではない。裕貴には焦る心を押さえつけることしかできなかった。


 この日はあいにくの雨だった。しかし、そんな天候が二人の約束に影響することはない。雨合羽を着た裕貴は力を振り絞って自転車を漕いでいた。


 バイトが長引いて遅刻しかけている。その事情を侑希に連絡できない裕貴は自転車を停めると全力疾走する。


 携帯電話を持っていないと聞かされたとき、裕貴は自分の耳を疑った。正確な年齢が分からないとはいえ侑希は若者であり、携帯電話を持っていないなど考えられなかったのだ。しかし、侑希がそう言う以上は納得するしかなかった。


 ただ、そのことがデメリットしか生み出さないわけではない。そのおかげで裕貴の生活の中で侑希が最も優先されるようになったのだ。


 携帯電話が普及した現代、人と人との約束は価値を失いつつある。遅刻しかけたとしても簡単に報告できてしまい、簡単に上書きされるようになったからである。しかし、侑希との間でその考えは通用しない。


 簡単に連絡を取り合えない二人にとって、その時に決められたことが最も重んじられる。別の用事が入ったとしても、侑希に伝えられない以上は約束が最優先されるのだ。裕貴の心は侑希に特別な感情を持つ一歩手前に迫っている。侑希が優先されることは言うまでもなかった。


 裕貴が目的地に到着したのは約束の時間ちょうどだった。


 「ごめん待った?」


 裕貴は大きく息を吐いて呼吸を整えようとする。そんな様子を見て侑希は心配そうな顔をした。


 「すごく濡れてる。やっぱり今日は良くなかったかな?」


 「全然大丈夫です。それより今日はやけに冷えます。待っていて寒くなかったですか?」


 裕貴はタオルを取り出して濡れた箇所を拭いていく。走ってきたため寒さは感じていない。


 「心配しないで。……とりあえず行こっか。良いところ見つけてあるの」


 侑希が先導する形でいつものように歩き始める。裕貴は礼を言ってからついていった。


 今日の侑希は飛び抜けて可愛らしく、周囲を歩く数多くの女性と比べても勝っている人はいない。裕貴は気付かれないように後ろ姿を観察した。


 タイツを纏った長い脚が膝まである長靴を履いている。ショートパンツとの境界に視線が向かってしまうのは仕方がないことで、上に羽織っているトレンチコートと相性がいい。侑希が着ているだけで最も理想的なように感じた。


 向かった先はまだ行ったことのない新しい店だった。場所選びはいつも侑希がしてくれている。


 入店すると二人がけのテーブル席に通され、侑希と向かい合うことにまだ慣れていない裕貴は表情を強引に作る。ただ、その違和感はすぐに見破られた。


 「どうしたの?私の顔に何かついてる?」


 「何でもないです。いつも場所を決めてもらって申し訳ないな……なんて」


 「せっかく名前も自然に呼んでくれるようになったのに。……まだ緊張してる?」


 「そんなことないです」


 裕貴は濡れた髪を直すふりをして心を落ち着かせる。しかし、侑希はそんなことで解放してくれなかった。


 「じゃあ、もう一回名前で呼んでみて」


 テーブルに身を乗り出した侑希が近づく。顔が近づくだけで喉が苦しくなる。


 「……侑希」


 「やっぱり緊張してる。そんなに恥ずかしいことかな?ねえ、裕貴」


 笑顔になった侑希が徐々に引き下がっていく。その表情にも羞恥心が含まれていた。


 名前を呼び合うことを提案したのは侑希だった。不思議な関係を築くにあたり、心の壁を取り払う意味が込められていた。しかし、それが上手くいっているのかは分からない。


 飲み物と軽食を注文した後、わずかな沈黙が訪れる。話が止まった時のため、裕貴はいつも話題を幾つか考えてきている。しかし、今日はその前に侑希から話し始めた。


 「裕貴って何かスポーツしてるんだっけ?」


 「特には。どちらかというと運動は苦手な部類に入るので」


 せっかくの侑希の話題だったが、会話を進展させられない。嘘をつくことも苦手なのだ。


 「そうなんだ……観ることもあんまり?」


 「そうですね。オリンピックなんかは雰囲気に飲まれて観たりしますけど」


 裕貴の回答を聞いて侑希が残念そうにする。裕貴は過去の自分を責めた。


 「私は好きなんだ。特にプロ野球観戦をよくするんだけど、私がどこのファンか分かる?」


 「……何でしょう。このあたりだとやっぱり巨人とかですか?」


 裕貴は唯一知っている名前を出してみる。ただ、それを聞いて侑希の眉間にしわが寄った。裕貴は失言してしまったのかと焦る。


 「そこは永遠のライバルだよ。……このヒントで分かったりしない?」


 侑希は巨人が好みでないことを伝えて、もう一度回答を促してくる。ただ、裕貴にこれ以上の知識はなかった。


 「分からないです。どこなんですか?」


 「阪神タイガースって聞いたことない?」


 「ああ、あります」


 「どこが本拠地か知ってる?」


 侑希の表情はどうせ答えられないと言っている。裕貴はそんな考えを覆そうと真剣に考えたが、頭に入っていないものを取り出すことはできなかった。


 「甲子園って聞いたことある?」


 「あります。色々な大会の名前に使われていますよね。場所は大阪の方だったと思いますけど」


 裕貴は持ちうる全ての情報を発言する。しかし、再び侑希の表情が曇った。


 「よく間違われるんだよね。甲子園が大阪にあるとか尼崎にあるとか。……これ違うからね」


 「……じゃあどこにあるんですか?」


 「兵庫県の西宮市ってところにあるの。……って言われても分からないよね?」


 「そうですね。全ての地方自治体名を把握している人はいないと思いますし」


 裕貴は自らの無知を一般化する。侑希もそれを非難はしなかった。


 「そうだよね。でも、裕貴には知っていて欲しいかも」


 何故かは分からないものの侑希が弱く要求してくる。初めて侑希が自分の話をしてくれたこともあり、裕貴はしっかりと頷いた。


 「友達にも伝えておきます。甲子園は大阪ではなくて西宮にあるって」


 「でも裕貴、友達そんなにいないんでしょ?」


 「……そうでした」


 裕貴が真顔で返答すると侑希がくすくすと笑う。今日からは野球の勉強をする必要がありそうだった。


 侑希はそれからも野球関連の話を続けた。タイガースの低迷や高校野球について楽しそうに話している。新鮮なその姿に裕貴を魅了するには十分すぎる。侑希が楽しいと思うことは裕貴も楽しい。それが心地良かった。


 それからも話は弾み、あっという間にいつもの時間を迎えた。時刻を確認した侑希が解散へ舵を切り始める。


 「今日は俺に出させてください」


 「いいよ、私に任せて」


 店を出る前に会計で意見が対立する。侑希には裕貴に払わせないようにする傾向がある。今日の裕貴は引くつもりはなかった。


 「学生の内は頼れる人を頼っていたら良いよ。一生懸命働いて貯めたお金なんでしょ?」


 以前、バイトの話を家庭の事情を関連させて行ったことがあった。しかし、その時から考え方が変わった裕貴ははっきりと自分の意見を伝えた。


 「俺は侑希と一緒のこの時間が好きです。侑希のために自分のお金を使えるのなら嬉しい」


 言ってから顔が熱くなっていく。侑希も驚いたようだった。


 「生意気……じゃあ、私が裕貴の分を払って裕貴が私の分を払うのはどう?」


 「……良いと思います」


 恥ずかしさに飲み込まれた裕貴は、結局意見を押し通すことができない。支払いが面倒になっただけだった。


 精算を終えた二人は深夜の街に飛び出す。入店時に比べて街は落ち着いているが、それでも眠っているわけではない。雨はすでに止んでいた。


 「今日も楽しかった。……ありがとう」


 いつもの大きなスクリーン前にやってくる。別れの言葉は侑希から始まった。


 「お礼されることはないです。俺も楽しかったですから」


 「絶対に学校で寝ちゃダメだよ?毎日ずっと勉強するなんて学生しかできないことなんだから。……もし裕貴が授業を寝てるなんて知っちゃったら、この時間をなくさないとダメになる」


 「それは困ります」


 裕貴は即答する。侑希は私もと笑った。


 「それじゃ解散しよっか。……次は三日後だっけ?」


 「はい、お願いします」


 裕貴はスケジュールを思い出して頷く。仮に用事があったとしても、約束してしまえば結果は一つに収束する。


 「それじゃ、またね」


 侑希が手を振って裕貴もすぐに返す。別れることにも慣れた裕貴は駅へ歩き始めた。ただ、何歩か足を運んですぐに侑希のことが気になってしまった。今まで別れてから後ろを振り返ったことはない。そんな姿を侑希に見られたくなかったからである。


 しかし、この日に限って侑希をもう一度見たいという考えに蹂躙された。もっと侑希が知りたくなったのだ。


 迷っている暇はないと意を決して振り向く。侑希に見られたとしても笑って誤魔化せば良いだけだと思ったのだ。


 ただ、その視線の先に侑希の姿はなかった。

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