風を読む 那須与一宗隆 手塩の弓 第二章
第二章:風の道、湯煙の策
一、那須岳の嘲笑と「風の目」
那須の春は、山が笑う。
那須岳の雄大な稜線が残雪を抱き、麓では山桜が淡い紅を散らす。だが、その美しさは刃の如き鋭さを隠し持っていた。山頂から吹き下ろす「那須おろし」は、火山灰を巻き上げ、放たれた矢を無慈悲に押し戻す。
「……風、また変わりやがった。これじゃ鳥一羽、射落とせねぇべ。」
長兄が吐き捨て、弓を投げ出した。強風に逆らって三人張りの弓を引き続けた腕は、岩のように硬直している。
そんな兄たちの背後で、十一男の与一は、ただじっと那須岳の噴煙を見つめていた。
「兄さん、風は押し返すもんじゃねぇんだじ。風の中に、矢が通りたがってる『道』があるんだっぺ。」
与一が弓を構える。弦が鳴った刹那、放たれた一矢は、荒れ狂う風を切り裂くのではなく、風のうねりに乗って優雅な曲線を描いた。放物線の先で、遥か彼方を走る野兎の喉元が鮮やかに貫かれる。
「……風を読んだか」
背後で見ていた資隆の目が、鋭く光った。
二、鹿の湯の「裸外交」
その日の夕刻、一族は「鹿の湯」の白濁した湯に浸かっていた。
那須岳の懐に湧くこの温泉は、那須家にとって聖域である。火山礫の野を駆けずり、弓を引き絞る過酷な日々。その疲労で強張った筋肉を解きほぐさねば、翌朝には「弓の箸」で飯を掠め取ることも叶わぬ。
「あぁ……。極楽だっぺなぁ。」
与一が湯船で手足を伸ばす。だが、その隣に座る資隆の体は、湯の中でも弛緩してはいなかった。
「与一、よく聞け。温泉に浸かってるときほど、敵の動きが見えるもんだ。……宇都宮と佐竹の奴ら、最近、湯元の境界に物見を出し始めてやがる。」
温泉は、癒やしの場であると同時に、領土争いの最前線でもあった。
南の宇都宮朝綱は、源氏の棟梁・頼朝の動向を敏感に察知し、着々と力を蓄えている。北の佐竹義重は、奥州藤原氏と手を結び、この那須の「湯の道」を奪って南下を狙っていた。
三、見えざる「天狗の矢」
「殺せば、それを口実に攻め込まれるべ。だが、引けば那須は舐められる。……与一、おめぇならどうする。」
数日後、国境の森。
宇都宮の斥候が、那須の領内に足を踏み入れた。彼らが獲物を狙い、弓を引き絞ろうとしたその瞬間。姿なき場所から放たれた矢が、斥候の持っていた矢の「羽」だけを、空中で木っ端微塵に弾き飛ばした。
姿は見えぬ。だが、自分たちの急所が常に狙われているという、死の予感。
「……天狗だ。那須の山には、風を操る天狗が居るべ!」
恐怖に震え、宇都宮の連中は逃げ帰った。
「……これなら、戦にならねぇで済むっぺ。」
木陰で呟いた与一の瞳には、かつての方言の柔らかさはなく、ただ獲物を見据える職人の冷徹さが宿っていた。
四、中央の暗雲と「令旨」の風
その頃、都では、以仁王の令旨が密かに東国へ運ばれていた。
平家の栄華を根底から揺るがす「嵐」の種が、すぐそこまで迫っている。
資隆は、湯上がりの火照った体で、西の空を見上げた。
「風が変わるぞ、与一。次は鹿や兎じゃねぇ。天下という、いちばんデカい獲物を射抜く準備をしろ。」
那須の温泉で癒やした与一の腕が、その嵐を射抜く日は、そう遠くはなかった。




