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『風を読む ―那須与一宗隆 手塩の弓 全十章  作者: あっちゅ寝太郎


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『風を読む ―那須与一宗隆 手塩の弓


 那須の風は、甘えを許さない。

 大冷山から吹き下ろす「那須おろし」は、火山礫の転がる荒野を撫で、飢えた者の肌を容赦なく削る。この地で生きるということは、風に抗うことではなく、風の一部になることだった。

 後世、人々は「那須与一」の名を、屋島の海に舞った紅の扇とともに語り継ぐだろう。だが、彼が真に射抜こうとしたものは、名誉でも、ましてや英雄の座でもなかった。

 それは、明日の飯であり、引き裂かれた血族の再会であり、そして何より「那須の人間は、しぶてぇんだっぺ」と笑い飛ばす、終わりのない一族の生存そのものだった。

 これは、華やかな源平合戦の影で、弓という「道具」一つを武器に、時代の嵐を読み解き、八百年の未来を射抜こうとした一人の職人の物語である。

第一章:石の野と「弓の箸」

一、飢えた牙と、那須の地獄

那須の朝は、風の音で始まる。

大冷山から吹き下ろす「那須おろし」が、火山礫の転がる乾いた原野を撫で、隙間風が板張りの床を這いずる。この風には土の匂いと、どこか鉄の味が混じっていた。

那須家当主・那須資隆は、囲炉裏の隅でじっと座していた。その眼光は、家を温めるためではなく、目前の「十一本の矢」を検分するためにあった。

「座れ。……品定めは済んだか」

資隆の低い声が響くと、囲炉裏を囲む十一人の息子たちが一斉に殺気を帯びた。

中央に置かれたのは、わずかな麦飯の鉢と、昨晩の猟で仕留めた鹿の赤身肉が数片。それだけだ。十一人の巨漢おおおとこを養うには、あまりに無慈悲な分量である。

二、国境の壁と「雅」の遠雷

長兄を筆頭に、十人の兄たちは岩のように座し、目を血走らせて肉を睨みつけていた。誰がどの順番で、どの肉を奪うか。その算段だけで、部屋の空気は凍りつく。

末弟の与一は、兄たちの分厚い肩の隙間に埋もれるようにして、小さく呼吸を整えていた。

その頃、都では平家が春を謳歌し、贅を尽くした宴に興じているという噂があった。だが、ここ那須において「みやび」などは石ころほどの価値もない。

南には、名門・宇都宮朝綱が広大な下野の沃野を支配し、白米を飽食している。北には、常陸を根城とする剛勇・佐竹義重が、奥州藤原氏と手を結び、冷徹に南下を窺っている。那須家は、その巨大な二つの壁に挟まれた、砂粒のような小豪族に過ぎなかった。

資隆は知っていた。理屈や外交では土地は守れぬ。隣国に「那須の連中を怒らせれば、寝首を抜かれる」という本能的な恐怖を植え付けること。それだけが一族を存続させる唯一の道だと。

三、神速の一射、風を食らう

「……始めろ」

資隆の合図と同時に、長兄の太い腕が動いた。だが、その指が箸を握りしめた刹那、場に鋭い風が抜けた。

「……ごっつぉさんだっぺ!」

声が響いたときには、与一の鉢は空だった。

マッハの如き速さで己の飯を胃に流し込み、その勢いのまま、長兄が狙っていた一番大きな肉の塊を、与一の「弓の箸」がひらりと掠め取る。兄たちの網膜には、与一の指先さえ映っていなかった。

「あ、貴様っ、与一!」

「待ちやがれ、この野郎!」

兄たちが吠え、立ち上がるより早く、与一は土間に転がり、草鞋も履かずに表へ飛び出した。

「悪いな、あにさん。これ、俺がもらってぐじ! 追いつけたら返してやんべ!」

四、空腹という名の「抑止力」

笑い声だけを残し、与一は那須の原野へと消えた。走りながら、懐から取り出した鹿肉を噛みしめる。固く、血の味がする。だが、これが那須の「生」の味だ。

資隆が、土間からその背中をじっと見つめていた。

「……風を読みおったか。奴だけだ。誰よりも先に、風が止む一瞬の隙を見抜いたのは」

資隆は立ち上がり、板戸を開けた。

遥か南には宇都宮、北には佐竹。そしてさらに西の彼方、鎌倉の地では、源頼朝という新たな嵐が胎動を始めている。

「与一、よく見ておけ。宇都宮の連中は、今頃温けぇ飯を食ってんだろうよ。だがな、飢えを知らぬ矢は、決して風を越えられねぇ。お前のその空腹こそが、那須を救う一矢になるんだっぺ」

那須の山々が、朝日を浴びて赤黒く燃え始めた。

「弓を引け。さもなくば土を噛め」

資隆の独白が、冷たい風に乗って消えていった。

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