第6話「某神話の箱の如く、人の胸中には必ず何らかの希望が残されているものである」
それから然程の苦労をする事も無く、最下段の引き出しを開けた時点で目的のタオルは見付かり、それを取り出して一連の大冒険の目的を果たすと共にそれに終止符を打つ。それで一先ずは満足したと言いたい所だが、その引き出しの中身は殆どがそのままに残されている様で、転居した両親はそれらを持って行かなかったのかという疑問は残されていた。
とはいえ、有難い事に我が家はそれ程暮らしに困った覚えは無い程度には裕福であり、両親も無駄な散財をする様な類の人間ではなかった、と少なくとも息子である俺には思われるので、転居を機に生活必需品を新たに揃えたという可能性は大いにあり得る為、その疑問は直ぐに自身がそれをせずに済んだ事への有難さへと変わっていく。
尤も、その裕福というのは今の俺と比較してという話であり、この街や県や国の中で比較した際にどれ程のものかは俺も良くは知らなかったが、その費用が浮いた事を有難がる程度の俺よりは遥かにマシである事は確かだった。
ともあれ、こうして一先ずの目的を果たした今、俺は次に何をすべきかを考え始める。少し考えた後、そうするまでもなく自然にすべきだった事に気付くと、俺はそのタオルを持ったまま立ち上がり、再度洗面所へと歩き出す。
その際、距離的にそちらの方が近い為に当然ではあるのだが、和室から玄関方面に繋がる襖を開いてそちらに移動した事で、自然と懐かしの、そしてこれから過ごす新居の一階を一周した事になり、何となくテレビゲームでマップを踏破した時の様な小さな喜びを感じる。それは四十にも届こうかという大の男の情緒として如何なものかとは俺自身も思うが、未だ精神年齢十五歳を自負している俺としては、そういう喜びは大事にしていきたいものだった。
何はともあれ、そのまま洗面所に移動してタオルを居るべき場所に掛けると、今度こそ次にやるべき事について思案し始める。尤も、次にすべき事も殆ど自明ではあったのだが、その順序をどうするのかという事や、その前にすべき事が無いか等……と、そこまで考えた所で俺は漸く気付く。到着早々にあまりにも濃い出来事があった為にすっかり忘れていたが、無論途中にパーキングエリア等に寄っていたとはいえ、長時間運転をしていた俺は暫し用を足していなかったという事に。
という事で、そそくさとトイレに駆け込んで便座の蓋を開けると、180度振り向いてから穿いている物をすべて下ろし、その上に跨って一つ深い息を吐く。そしてそのまま小用を足すと、諸々の儀式をしてから先の動きを逆側から順番に繰り返す。尤も、自身の考えに基づいて蓋に関しては上げたままにしておくが、元来トイレが近くなりがちな性質という事もあり、そうして久し振りに満たされた身体の欲求に俺は大層すっきりとした気分でそこを出る。
そして再度洗面所に戻って手を洗うと、つい先程用意したばかりのタオルが早速役に立った事にまた何となく嬉しくなる。だが、小さな事に喜びを見出すと言えば聞こえは良いものの、それはその様な事にもそれを見出さねばやっていられないという事を意味しており、真に満ち足りている人間は決して小用の後の手洗いで喜びを感じたりはしないであろう事は、かつてそれに近い生活を送っていた経験からしても間違いの無い様に思えた。
そのかつての生活と現状とのギャップに軽く眩暈を起こしそうになりながらも、この短期間に於いて二度目の今度こその思案に入ろうとした時だった。リビングの方から、今時の若者には想像も付かない様な白い受話器が壁に掛けられているタイプのインターホンの、やや間の抜けた様なピンポーンという音が聞こえて来る。
「……こんな時間に一体誰だ?」
わざらしくと声に出してそう呟くが、その間の抜けた音とは裏腹に、それを耳にした瞬間から一気に速くなり出した鼓動と、同時に全身に広がった緊張感を手掛かりにするまでも無く、実際にはその相手には薄々と想像が付いているのは自明の事だった。無論、それがいつか……そう遠くない内に来る時である事は覚悟していたが、丁度小用を済ませて気が抜けた瞬間だった事もありその覚悟は薄れ、それに応対しに向かう足取りは自分の物とは思えない程に重かった。
仮に先程の春菜との邂逅が無かったとしても、凡そ二十年振りに再会する相手との対面は、自他共に認めるコミュニケーション弱者の俺にとっては中々にハードルが高いものであるのだが、今回はそれにあまりにも重いおまけが付属していると来ている。はっきり言ってしまえば、この先に待っているであろう相手とどの様な顔をして会えば良いのかさえも、今の俺には微塵も分からなかった。
とはいえ、それが誰であろうと自身に用があって訪ねて来た相手をむやみに待たせるべきではなく、またその様な一般的な規範に則るまでも無く、それは俺自身の信条でもある。つい先程まで抱いていた期待通りの瞬間が眼前に待っているというのに、事前にちょっとした情報を得ただけで今や胸中を占めているのは不安や緊張ばかりになってしまっていたが、その奥底に未だ幾分かだけ残っていたその期待の欠片を頼りに、俺は重い足を何とか引き摺って来訪者の許へと向かうのだった。