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第5話「人の記憶とは案外にしぶといものであり、それに抱く感情も同様である」

そう自らに言い聞かせる様に呟いてから更に溜め息を一つ吐き、車のギアをリバースに入れてバックミラーを見ながらアクセルを軽く踏み込む。このバックでの駐車というものが、昔……運転免許取得の合宿に行っていた頃から現在に至るまでずっと苦手なのだが、自宅の車庫へのそれであれば多少斜めになっても問題は無く、最悪軽くぶつけてしまったとしても損をするのは自分だけなので、あまり気を張らずに出来るのは正直に言ってかなり助かった。


 そうして目論見通りの見事な斜め向きで愛車をその住処へと収めると、小さな成功体験に少しだけ気を良くしてサイドブレーキを引き、ギアをパーキングに入れてエンジンを切る。そしてドアを開けて外に出ると、再度蜩の切なげな鳴き声が鼓膜を震わせ、一日で、もといたった数分でズタズタにされた俺の胸へと優しく染み渡る。


 尤も、当の蜩君としては単に子孫繁栄の為の行動であり、同種の雌以外に対してはそれを聞かせるつもりすら無いのだろうが、そういう物に勝手に意味や救いを見出すのが人間の特権であり、そして俺の仕事でもある。


 そんな事を考えながらそこまでの短い距離を歩き、懐かしの我が家の玄関の扉を開けて中に入ると、少し考えてからその鍵を掛ける。俺が此処に来た時点でそれが開いていたという位には、此処が平和な街である事は俺も経験から理解してはいたが、長年の都会での暮らしによって培われた俺の防犯意識、もとい疑心暗鬼はそれを開けたままにしておく事を許してはくれなかった。


 ともあれ、外では既に日が大分傾いてきている事もあり、玄関を含む家の中は先程と比べても更に暗くなっていた。折角少しは立ち直った気分がまたそれと同様になっても困る為、記憶を頼りに電灯のスイッチを探してそれを押すと、天井に設置された電球が最近ではあまり見掛けなくなった赤みがかった光を放ち始める。ただそれだけの事にも若干のノスタルジーを感じるが、実に二十年振りの帰郷とはいえあまり感傷的になり過ぎるのもどうかと思った為、一先ずはやるべき事をやっていく事にしてその順番を考え始める。


 小考の末、先ずは手を洗うべきだと考えた俺は正面で存在を主張している階段を無視し、その右側の廊下を通ってその奥の洗面所へと向かう。そこでも先ず電灯のスイッチを入れると、先程とは異なる白い光がその空間と俺の身体を照らし出す。


 そこには両親が使っていたであろうハンドソープ等が未だ残されており、本来の持ち主を失ったこの家に若干の同情を覚えながらも、有難く使わせて貰ってやや念入りに手を洗う。そして、そこで漸く先にタオルを用意しておくべきだった事に気付くが、当然ながらその時にはもう全ては完全に手遅れとなっていた。


 仕方が無いので何度か手を振ったり等して水気をある程度飛ばした後、再度記憶を頼りに手を拭ける物がある場所を探しに移動する。玄関の時点でそうだった為に今更の話ではあるのだが、濡れた手でスイッチに触れる事には抵抗があった為に電灯は点けたままにしておく。それは流行りのエスディー何たらは兎も角、電気代という意味では無駄のある行動なのかもしれなかったが、こうして行く先々で灯りを灯して明るさを確保していくのは、何となくゲームをしている様な感覚で少しだけ楽しかった。


 尤も、それは孤独を紛らわす為の逃避に近い感覚である事は理解しているし、電灯は点ける際が最も電気を使うという話を見聞きした事がある様な気もするので、電気代的にそれが本当に無駄なのかは定かではなかったが、そんな事は今の俺にとってはどうでも良いにも程がある事だった。人生にとって大切なのはその時々を楽しむ事であり、今の俺にとって大切なのはさっさと手を拭く為のタオルを手に入れる事だった。


 ともあれ、そうして洗面所から玄関方面ではない方向へと抜けると、そこにあるのはやや時代を感じるタイプの台所だった。その空間にも懐かしさを覚える点はいくらでもあったが、少なくとも此処にはタオルが存在しない事は明白であるので、そのまま通過して次の部屋へと向かう。


 そこはやはり年代を感じるテーブルが置かれている小さな食堂の様な空間であり、そこから壁や扉を挟む事無く、この家では最も広い部屋であるリビングへと繋がっていた。そのテーブルで食事をしたシーン等を思い浮かべると、懐かしさ……だと思われる感覚によって胸の辺りがキュンと痛むが、実際にはリビングに置かれている炬燵兼卓袱台の方で良く食事を取っていた事を思い出すと、思わず小さな笑みが零れて来る。


 しかし、どちらにせよその様な思い出に浸っている場合ではない事は確かであり、目的を果たす為にリビングに置かれている箪笥へと目を遣るが、記憶に頼る限りではそこにはタオルの類は入っていない様な気がしていた。それを信じて更に先の部屋がある方向を見ると、不在中に通気性を良くしておく為か、和室への隔たりとなる襖は開け放たれたままになっていた。


 そこに入る前に、それがある位置の関係で今までは暗いままでいたリビングの電灯のスイッチを入れ、その明かりを頼りに和室の電灯のスイッチを探す。これまでのそれの位置は概ね明確に記憶されていたが、何故かこの部屋だけはいつも紐を引いて切り替えていたイメージがある為に、その場所を自信を持っては確定する事が出来なかった。


 とはいえ、無論程無くしてそれは無事に見付かり、最終的に一階に存在する電灯の殆どを点灯状態にする事に成功するが、ただそれだけの事でいちいち過去の記憶がフラッシュバックしてしまった事には、我ながら感傷的になり過ぎていると乾いた笑いが込み上げてしまう。だが、その頃には濡れた手もある程度渇いてきていたが、此処に来た本来の目的を思い出すと、タオルを求めてそこに置かれた古風な箪笥を物色し始めるのだった。

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