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第43話「その物事の内容にかかわらず、人は自身にとって珍しい経験に感動を覚えるものである」

 ともあれ、そうして慌ただしく去って行く春菜の背中を見送りながら、俺はそこにまたしても、どちらかといえばのんびりとしていた若菜との性格的な違いを見出していた。いや、それは別の人間なのだから当然だという事は無論分かってはいるのだが、そのあまりにも酷似している外見や声質故に、特に意識せずとも半ば自動的にそういった思考が湧いて来てしまうのだった。


 その後、一連の予想外の出来事に精神的な疲労を感じた俺は暫しその場で呆けていたが、ふと先程左手に感じた温かさを思い出すと、折角のご馳走を冷める前に頂く為に足早に門を通り抜け、玄関の扉を開けてその内部へと舞い戻る。そして、履いていたサンダルを例によって脱ぎ散らかしたまま屋内へと上がり込むと、夕飯にハンバーグが出る時の小学生の如く、早歩きで食卓へと向かう。


 尤も、俺はどちらかというと唐揚げや生姜焼きの方が好みだった事は兎も角、今度の場合もそれは文字通りの意味でもあったが、早歩きの理由は春菜曰く高級なステーキを楽しみにしているというだけではなかった。いや、実際にはそれだけといえばそうなのだが、それが高級なステーキだからというだけではなく、久し振り、それこそ凡そ二十年振りに……まあ、後は言わずもがなだろう。


 ともあれ、当社比では高速で食卓、兼仕事用の机に辿り着いた俺は手に持った袋をそこに載せると、一刻も早くそれを口にしたいという欲求を抑えて一度その場を離れる。というのも、本当に小学生であるという訳ではないのだから、食事の前にはちゃんと手を洗うという程度の衛生観念は、一見すると生活能力が欠如している俺にも備わっていた。


 尤も、大して手が汚染される様な事をしていない時や、故あって非常に面倒に感じる時等にはそれを省く事が無い事もないのだが、今回は短時間とはいえ一応は外出をしていた事もあるし、何よりもその食事の内容が俺に万全の準備をする様に促したのだった。それは折角の高級ステーキだという事もあるが、それ以上にその二十年振りの某かであるという事が、万が一にもそれを食して何らかの問題が発生する事を俺に許させなかった。


 という訳で、洗面所に辿り着いた俺は除菌効果もあるハンドソープで自らの手を、いつもよりもやや念入りに隅々まで洗浄すると、タオルでしっかりと水気を取ってからその場を後にする。そして、道中で箸、コップ、ペットボトルのお茶をそれぞれの居場所から回収すると、この街に足を踏み入れる直前に感じていたのと同程度の、しかも今度は一切の不安を伴わない純粋な期待を胸に抱きながら、本日の朝食が置かれたテーブルへと急ぐ。


 斯くして、目的地へと辿り着いた俺は逸る気持ちを抑え、先ずはお茶とコップをテーブルの上に置き、箸を袋の中からその姿を見せた丼の上に載せると、空いた両手でお茶をコップへと注ぐ。すると、気の逸り故かやや勢い余って少々零れてしまうが、最早そんな事は俺にとってはどうでも良い事だった。準備を終えた俺は椅子へと腰掛けると眼前の丼を袋から取り出し、箸を右手に持ったままそれに掛けられたラップを勢い良く剥がし取る。


 その結果、漸くその全貌を、今度はラップ越しではなく正真正銘その本来の姿を見せたその「ステーキ丼」に、俺は自分でも妙だと思う程の感動を覚え思わず涙ぐんでしまう。とはいえ、そこは仮にも俺も大の男の端くれであり、流石に実際に涙を零す様な事は無かったが、自身が何にそこまでの感動を覚えたのかは自分でも分からなかった。


 しかし、それが単純に久し振りに目にする高級なステーキに対するものか、或いは同じく久し振りに眼前に現れた誰かの手料理に対してのものなのか、それとも二十年振りの……というものであるかの何れにせよ、その感動は俺にとって決して悪い感覚ではなかった。いや、感動を悪い感覚だと思う人間が何処に居るのかという話だが、それによっていい歳をして泣きそうになった事を加味しても、という意味である。


 ともあれ、眼前の「ステーキ丼」は既に湯気が上がらない程度には冷めてしまっている様だが、それでその料理が美観を損ねるというか、それに対して感じる「美味しそう」という感覚が変わる事は無かった。というのも、俺は極度の猫舌であり、というよりも全身のあらゆる感覚に対して過敏に反応してしまうのだが、それ故にあまり熱々の料理を食する事は出来ない為に、少し位冷めてしまっている方が寧ろ美味しく頂けるというものなのである。


 という訳で、その美味しそうな料理を十分に目で楽しんだ俺は左手でその丼を掴み、遂に手にした箸をそれの一端へと伸ばすと、そのやや赤みの残った牛肉の欠片とその肉汁や何らかのタレらしき物が染み込んだ白米を、掻き込む様な形で自身の口内へと放り込む。これは決して行儀の良い食事方法ではないかもしれないが、どうせ誰が見ている訳ではないという事を措いておくとしても、俺にはそれが最適な方法である事への疑いは毛頭無かった。


 無論、それはその染み込んだ何らかの液体により、丼の下部にある白米は普通に箸で掴む事は困難だという事もあるが、何よりもこの料理を作り、かつそれを俺へと贈った人物の事を考えれば、きっとこうして勢い良く食べる事を望んでいる事だろう。

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