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第4話「愛しさと切なさと懐かしさと」

 ともあれ、既に視界から消え去った自転車とその運転者にいつまでも思いを馳せていても仕方が無い事だけは確かである為、一先ずは当初の目的である荷物の運搬を済ませてしまう事にして、道路の端に雑に止めてある愛しのオンボロ軽自動車の許へと歩き出す。


 そして右側の後部座席のドアを開くと、少し考えてからその中で最も手に取り易い位置にあった段ボールを持ち上げる。仕事用のパソコンの一式が入ったそれは結構な重さがあり、万年運動不足の俺にはそれを運ぶだけでも重労働も良い所だったが、流石にこれを運ばない事にはこの地での生活は始まらない為、既にそれなりの疲労を抱えていた身体を押して新居の玄関まで運んで行く。


 その疲労は概ね此処までの数時間の運転によるものだったが、そもそもついこの間まで昼夜逆転生活を送っていた俺は今日の早起きの時点で既に若干のそれを抱えており、その上で味わった先程の一件は正直に言って心身共に中々に堪えるものだった。そして、更にこの自分としては重労働である荷物運びとなれば、この時ばかりはノートパソコン派に転向したくなるのも仕方が無い事だろう。


 ともあれ、そうして何とかそれを玄関まで運んだ後、次の比較的軽い段ボールを運ぶ所までは恙なく済ませたものの、その時点で俺の気力は限界になっていた。尤も、それは朝から積み重ねた疲労の為ではなく、先程の一件……厳密にはそれによって得られた情報による精神へのダメージの為だったが、何れにせよこれ以上の重労働をこなす程のやる気は残ってはいなかった。


 とはいえ、無論俺もその一件、つまり幼馴染が自分以外の相手と子を成していたという事について、仮に自身がかつて気持ちを伝えていればそうはならなかった、と断言する程に自惚れている訳ではない。ただ、何れにせよ同じ結果が待っていたとしても、自身がすべき事、或いはしたかった事を出来なかったからこそ、その事への後悔が今もこの胸を苛んでいるのだという事は、文字通り痛い程に理解出来ていた。


 ともあれ、その後悔という名の胸の痛みを、身体を動かす事によって少しでも緩和出来ないかという期待も込めての荷物運びという仕事であったものの、結果としてその目論見は外れてしまった。そして、結局はその仕事も中途半端な所で終わりを告げる事になってしまった訳だが、だからと言ってここで不貞寝をするという訳にもいかないという事は無気力の権化と化した今の俺にも分かっていた。


 家の前では未だ我が愛車が、つい昨日まで暮らしていた土地であれば即座に盛大なクラクションによる合奏を耳にする事が出来たであろう程の雑さで停められており、あまり人通りが無い田舎の街であるとはいえ、それをいつまでもそのままにしておく訳にはいかなかった。それ故に半ば仕方なく立ち上がると、溜め息を一つ吐いてからもう一度玄関の扉を開いて外に出る。


 するとその瞬間、丁度俺が家から出て来るのを待っていたかの様に、一陣の風が辺りを吹き抜ける。季節外れの暑さと一連の重労働によって汗が滲んでいた俺の身体に何とも気持ちの良い涼しさが与えられ、先程から抱えている気の重さも幾分か和らいだ様にも感じられた。そして、実際に先程までよりも大分涼しくなっている事にも気付くと、同時に懐かしい音色が辺りに響いている事にも漸く気が付く。


 或いはそれは実際にこの瞬間に響き出したのかもしれないが、かつてはこの時期によく耳にしたものの、帰省のタイミングもあって此処を出てからは二十年の間てんで聞く事の無かったその懐かしい、そして何処か切なげな音色の正体は、辺りに見える何れかの樹に留まっているであろうひぐらしの鳴き声だった。それは最早無条件に人に懐かしさと切なさを抱かせる声であり、胸中に抱いていた後悔や虚しさは自動的にその中での割合を下げていった。


 だがしかし、或いはだからこそ、残った荷物を家まで運ぼうという気はやはり湧いては来なかった。俺は外に出た本来の目的に沿って車庫の横に転がすタイプのシャッターを開くと、愛車のドアを開けて硬いシートに腰掛ける。そして鍵をシリンダーに差し込むが、それを捻る事も無くただ窓の外の音色に何となく耳を傾けて目を閉じる。


 此処までの道中の間……いや、此処に帰って来る事を決めた時から微かに期待し、頭の中で思い描いていた、薔薇色とまではいかずとも穏やかで幸福な生活。その幻想は付きつけらた現実によってあまりにも早く打ち砕かれた訳だが、大の男が既に決めた事を易々と曲げる訳にはいかない、などと格好付けるまでもなく、既に旧居を解約してしまった俺にはもう戻る場所は存在していなかった。


 その動かし様のない事実と、自身が抱いていた期待という幻想の滑稽さに思わず笑みが零れてしまうが、無論そうした所で何が変わる訳でもない。だが、その間も窓越しに聞こえていた蜩の鳴き声や、目を開けると一目で昨日までの住処との違いを十分に感じられる自然溢れる風景に、その期待の要素の一部には未だ叶えられる余地がある事を思い出すと、俺はイグニッションキーを回しながら敢えて声に出して呟く。


「……俺は、此処で趣味に生きる事にするさ」

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