第3話「ある種の感情が一定の強さを超えるとそれは胸の痛みとしてのみ自覚される為、その正体は本人にすら推測する事しか出来なくなる」
そうして突然の嵐が過ぎ去った後、一人その場に残された俺は暫し呆然と立ち尽くしていたが、既に夕刻に近いとはいえ初夏の日差しはその間も容赦無く照りつけて来ていた。故に、やがて季節外れの暑さに耐え切る事は難しくなって来た俺は、その暑さから逃げ出す様に目の前の家の門を開けると、そのまま玄関の扉の取っ手に手を掛ける。鍵を開ける事も無くあっさりと扉は開き、その不用心さにこの街が相変わらず平和である事を実感する。
そのまま懐かしき我が家に足を踏み入れると、屋内に入り日光が遮られた為か、既に誰も住んでおらず冷房の類も稼働していないにもかかわらず、入って直ぐ正面に二階への階段が迎えてくれた玄関は外よりも大分涼しく感じられた。それは今となっては奇妙に思える間取りであったが、当時この場所に住んでいた自分にとっては疑問にすら思わぬ当たり前のものだったのであり、その事実に何となく乾いた笑いが込み上げて来る。
それを鼻から一息で開放し、支えていた右手を外して扉を閉じると喧しい蝉の声も遠くに聞こえる様になる。つい先程までとは大違いのその快適さに、再び外出する事が億劫になって来た俺は、そのまま薄暗い玄関の床に腰を下ろす。
尤も、そもそも先に玄関に来たのは鍵を開けて荷物を運び込む為なので、こうして家の中に足を踏み入れている時点で本来の目的とは既にずれているのだが、今はその様な事を忘れ、ただこのままこの薄暗い空間で座っていたい気分だった。
とはいえ、無論それはその様な環境の変化のみによるものではなく、言うまでもなく先程の少女……春菜との出会いからの一連の出来事が影響しており、もっと明瞭に言い切るのであれば、それによって齎された情報の内容こそがその気分の要因の大部分を占めていた。
無論、二十年も連絡を取り合っていなかったのであるから、その様な可能性がある事にも一定の覚悟をして帰って来てはいたものの、幼い頃の話とはいえ結婚の約束までした幼馴染の娘と実際に相まみえてしまったという事実は、俺の精神に……いや肉体にまで及ぶ程の多大な影響を与えていた。
とはいえ、その原因となった本人には何の罪も無い為にその手前では平静を装ってはいたものの、俺の心臓はその頃から尋常ではない程の動悸を見せて、いや響かせており、それに伴ってか胸の辺りには鈍い痛みの様な、此処に到着する直前に感じていたそれを何倍も強くした様な感覚を覚えていた。
しかも、その時には動揺からそこまで頭が回ってはいなかったが、あれだけの歳の娘がいるという事は、その要因となった出来事があったのは俺が故郷を出てからそれ程時間が経たない内の話という事になり、その事に気付くと胸の痛みは更に激しさを増して来ていた。
「いや……確かに俺がそう頼みはしたんだけどさ、大した口の堅さだよ、まったく」
そして同時に、自分からそういった情報、つまり幼馴染の情報を伝えぬ様に請うていたとはいえ、今の今までそれを一切漏らす事が無かった両親に対して現在の状況にはそぐわない程の妙な感心を覚えると、誰も居ない玄関でそれを思わず口に出してしまう。
いや、百歩譲って秘密にし続けていた事は良いとしても、良くもまあそれを知っていた上で、息子に帰郷を勧める際に未だ幼馴染が住んでいる事を説得材料に出来たものだという事には、心底呆れに近い感心を覚えずにはいられなかった。
とはいえ、かつてその思いを伝える事もせず、それどころか連絡先を教えもせずに故郷を出た上に、それから二十年も自分から連絡を取って来なかっただけではなく、地元に住む両親からその情報を得る事すら放棄していた手前、それで幼馴染である若菜に裏切られたなどと思う程には、俺は恥知らずな人間ではない。だが、だからこそ、このやり場のない気持ちをぶつける対象が自分以外には存在しない為に、俺の胸の痛みはいつまでも引く事を知らないままであった。
しかし、こうしてその事について考える程に後悔ばかりが募っていくが、これ程までに大きなそれを味わった覚えは無いものの、俺も伊達にそればかりの人生を過ごして来た訳ではない。経験的にこのままそれを味わい続けている事は不味いと考え、気分の暗さに拍車を掛けているであろうこの場所の薄暗さにも別れを告げる為に立ち上がると、再び熱気の元にこの身を晒す覚悟を決めてドアノブへと手を掛ける。
そうして覚悟と共に再度屋外へと出たものの、視界に映る空は既に随分と茜に染まっており、伴って暑さも幾分か和らいでいた。その事に安堵する間も無く、次の瞬間には視界の端に自転車に乗って向かって右方向、つまり先程春菜が帰っていった方向へと走って行く女性の姿を捉えたが、その時には既に後姿となっていた事もあり、その人物の詳細な姿までは認識する事は叶わなかった。
尤も、先程の春菜の言葉やこの街の人口密度等を考えれば、その人物の正体は自ずと予想は付いて来てはいたのだが、やはり大声を出すと威圧的になってしまうという事もあり、結局は黙って見送る事しか出来なかった。ではその正体を確信出来ていれば、或いはもう少し距離が近い内に見掛けていれば声を掛けられたのかと言えば、まあいずれにせよ今の俺にはそうする事は難しいと言わざるを得ないのだが。