第1話「本当の意味で驚いた時、人は声を失うものである」
走行距離が十万キロメートルを超えるオンボロ軽自動車の硬いシートに腰掛けて早数時間、大気汚染と地球温暖化に積極的に寄与し続けて流行りのエスディー何たらに真っ向から喧嘩を売ってきた甲斐もあり、漸くフロントガラス越しに見えて来た寂れた、もとい長閑な街並みは、紛れもなく我が懐かしき故郷のそれだ。
尤も、物書きを志して上京してから実に凡そ二十年振りの帰郷ではあるものの、年に一度程度は実家に帰省をしていた事でそれなりには見慣れていた事もあり、その懐かしさも現時点ではそれ程ひとしおという訳ではないのだが。
なお、自分自身の名誉の為に断っておくが、その夢を抱えて足を踏み入れた地から故郷に帰る道中にあると言っても、決して夢に破れたからという訳ではない。どう逆立ちをしても売れっ子とは呼ぶ事は出来ないが、それでも俺は一応その道で生計を立ててはいるのだから。
とはいえ、では何故帰郷しているのかと言えば、それは病を患った父親の療養の為に両親が転居した事で実家が空になり、家賃という最も支出に占める割合が大きい出費を0に出来るというしょうもない理由の為だという事からも分かる通り、言葉通りに一応はそうだという程度の話なのだが。
ともあれ、六月にしてはクソみたいに暑い外気とは無縁の車内で、昔……それこそ上京する前に流行っていた歌などを歌っていると、気付けば愛しの我が家まではあと二回も角を曲がれば着く様な所にまで近付いていた。
そうして徐々にその距離が縮まるに連れ、慣れ親しんだ安らげる実家に近付いているにもかかわらず、俺は自らの胸中に何とも言えないそわそわとした感覚を覚え始めていた。それが期待なのか、或いは一種の恐怖なのかは自分でも良く分からなかったが、その原因が何であるのかは既に明確に理解出来ていた。
則ち、それは凡そ二十年振り、つまり俺が上京して以来会う事が無かった幼馴染、柴田若菜との再会の時が近付いている事による期待、或いは恐怖であり、それはまるでかつて学芸会でその幼馴染と共に舞台に立つ前の時の様に俺の鼓動を速くさせていた。
とはいえ、この二十年の間、俺達は何の連絡を取り合ってすらいなかったのだから、何も期待する様な事は無い筈であるのだが、この引っ越しの話を両親から持ち掛けられた際に告げられた、柴田若菜は未だこの街に住んでいるという話を耳にした時から、俺の心の中には淡い期待が燻っていた事は否めなかった。
なお、それだけで期待を抱く様な相手であるならば、何故今日に至るまで連絡を取り合ってすらいないのかという話であるが、それは単純にその手段を互いに持っていなかった為である。というのも、その頃は丁度携帯電話が一般に普及され始めた頃だったのだが、当時はそれを俺しか持っておらず、互いの家が非常に近い事もあってわざわざ電話等をする必要も無かった為に、その番号を教える事も無かったのである。
無論、俺が故郷を出る時にもそうする機会はあったのだが、向こうから聞かれなかった事が何となく悔しかったのか、結局最後まで教える事は無いまま旅立ってしまったという訳だ。その下らないプライドのお陰でその事をこの二十年の間に何度後悔したかも分からないが、結局そのプライドの所為で未だに連絡を取ってすらいないのだから、まったく救えない話……もとい救えない男だ。
ともあれ、そんな期待やら後悔やらを誤魔化す様に、一層大声でがなりながらオンボロの愛車を運転していると、やがて見慣れた木の枝が塀の向こうから道路に向かって飛び出している曲がり角が視界に入る。
それを目にした瞬間、俺の心臓はいよいよドラムロールかとツッコミたくなる様な程の鼓動を鳴らしていたが、何とか事故を起こす事も無くその曲がり角を無事に右に折れると、程無くしてあまりにも見慣れた二階建ての家屋が見えて来る。
ああ、懐かしき我が家よ。と感慨に浸る間も無くその前に車を止めるが、その慣れ親しんだ姿を目にした為か、深呼吸と共に俺の鼓動は一気にその勢いを落としていった。尤も、未だ先程からのそわそわとした気分がすっかりと鳴りを潜めたという訳ではなかったが、それを気にしていつまでもこの硬いシートに座っていても仕方が無い為、俺は運転席の扉を勢い良く開く。
その瞬間、喧しい程に鳴り響くやや季節外れな蝉の声と、同じく季節外れとしか思えないむわっとした熱気が車内へと入り込み、俺は自身の行動を軽く後悔する。だが、それらが大人しくなるまで此処で待つ訳にはいかない為、意を決して懐かしき故郷の大地へと降り立つが、そこで漸くこの後の行動を何も考えていなかった事に気付く。
殆どの家具は両親が残していった為に別にそれ程に大荷物という訳ではないが、考え無しでそれらを運ぶ事でこの熱気を余計に味わう事は御免だった為に、どの様な手順を取るのが最も効率的かを一定時間考えた末、取り敢えず玄関を開けようとそちらへ歩き出した時だった。
「おかえりなさい、たっくん」
そう言いながら、玄関の前の簡単な門と車庫の間から突如飛び出して来た少女の姿に、俺は言葉を、そして呼吸を失くす程の驚きを覚えて立ち尽くす。無論、それは誰も居ないと思っていた所から人が現れた事への驚きでもあったが、何よりもそうして現れた少女の声と姿こそがその要因の殆どを占めていた。未だ頭の中で反響し続けているその声も、その後ろにある景色が見えなくなる程に網膜に焼き付いているその姿も、俺の記憶にある幼馴染のそれと少しの差異も見付けられないものだった。




