交差する視線、凍結する空気
2036年6月23日 深夜1時28分
拳が空を裂くたび、空間がかすかに震えた。
《行き止まり》の連撃は容赦なく続く。天乃はそのすべてを、紙一重で回避していた。
彼にそれを可能にしているのは《魔術師殺し》。
魔力の流れを視認し、未来予測の精度すら引き上げる魔眼。
そして、それを即座に行動へと変換する”直観”。
身体への負荷は限界に近づいていた。呼吸は荒れ、筋肉は警告を発していた。
だが、まだ崩れてはいない。
「よく避けるな、お前……」
《行き止まり》が言葉を零す。
その表情に、微かだが確かな笑みが浮かんでいた。
無表情を貫いていた男の顔に、初めて感情の色が灯る。
「大したもんだ。俺の拳をここまで回避する奴は、そうはいねェ。」
その声には嘲りも苛立ちもない。
純粋な評価。敵として認めたという、静かな敬意が滲んでいた。
次の瞬間、空気の“密度”が変わった。
わずかに肌を刺すような重さが広がる。
「……なら、こっちはどうだ?」
魔眼が即座に反応した。
《行き止まり》の足元から展開される“停止領域”が、ゆっくりと広がり始めていた。
(まずい……領域を拡大してくる)
あの領域に触れた瞬間、動きは奪われる。即死に等しい。
天乃は即座に地面へ指を伸ばす。
「――《境界書換》」
世界の認識を操作する魔術。
広がりゆく“停止の膜”の境界へと干渉し、構造の定義を上書きする。
結界は、その輪郭を保ったまま膨張を止めた。
まるで見えない障壁にぶつかったかのように、領域は押し留められた。
(領域の拡大を止めやがった……いや、“通せない”と定義した?)
自らの目論見を阻まれ、そう思考する《行き止まり》はそれでも攻撃を継続する。
天乃は歯を食いしばる。動きは止めない。
魔眼が次なる危険を示し、直観が安全な軌道を導き出す。
跳ぶ。
しかし、《行き止まり》も手を緩めない。
(このままじゃ、ジリ貧だ……)
守るだけでは勝てない。魔力も体力も、じわじわと削られていく。
(ならば、突破する)
天乃の瞳に光が宿る。視線が鋭く定まる。
「――《境界書換》」
今度は、領域そのものの“定義”を塗り替えた。
《行き止まり》の停止フィルター。その内部に存在する対象の一部として、“天乃慎”自身を定義から除外する。
すなわち、自らを「停止させない存在」として書き換える。
奇しくも記憶を失う前のかつての自分と同じ方法である。
跳躍。
魔眼が導いた最適軌道をなぞり、拳を振るう。
だが――
手応えは、なかった。
拳は空を切り、標的はそこになかった。
《行き止まり》が、回避していた。
意表を突かれたのは天乃だけではない。
《行き止まり》もまた、わずかに目を見開いた。
「……俺が、避けた?」
本来ならば、天乃の拳は領域で停止する。
回避する必要はない。だが彼は、無意識に動いていた。
(……また、止められなかったらと……)
一度だけ、天乃は領域を突破した。
その記憶が、《行き止まり》の内部に、深く焼き付いていた。
一瞬の静止。空気が沈黙を孕む。
だが次の瞬間、《行き止まり》は表情を引き締め、低く呟いた。
「……じゃあ、そろそろこっちも本気を出すか」
深く、静かに息を吐く。詠唱が始まる。
「“原初に抱いた我が情景は、世の理を侵す思想“
“汝らよ、どうか我が眼前を駆け抜けて欲しい”
“汝らの疾走を阻むことこそが我が唯一の渇望であるが故に”
“停止した世界こそ最も穏やかで安らげる居場所となるのだから”
“終焉の幕はもう下りない、此処が終点――《行き止まり》”」
詠唱の終わりと同時に、空間が変質した。
空気が重くなる。粘性を帯びた何かが、天乃の動きを蝕んでいく。
(これは……“停止”じゃない……“減速”……!?)
新たに展開された領域――《減速領域》。
それは「止めたい」という《行き止まり》の願望と、「動きたい」という対象の意志が衝突した結果、契約として成立する干渉。
御堂の《拒絶の場》などと同様に”嵌合”と呼ばれる魔術現象である。
それは完全なる静止ではない。
しかし、それは確実に意志の速度を奪い、行動そのものを鈍らせる。
空間そのものが、《行き止まり》の意志と結びついていた。
そこは、彼の望む“終点”として定義されていた。




