凍てつく視線と静止の領域
2036年6月23日 深夜1時22分
風が広場を抜ける。
石畳の敷かれた空間に、足音ひとつ響かない。
天乃は構えることなく、《行き止まり》を正面から見据えていた。
彼の眼には魔力の光が宿っている。異能《魔術師殺し》――
魔力の流れを視認し、動作の予兆を読み取る魔眼。
観察、解析、抑制――彼の戦術は常に“理解”を起点とする。
だが、今はその基礎が成立していなかった。
《行き止まり》の魔術について、天乃は何ひとつ知らされていない。
(何もわからない……あいつが何をしてくるのかも、どこから仕掛けてくるのかも)
男は動かず、ただその場に立つ。だが、その周囲の空気は異常を孕んでいた。
淡く揺らぐ境界。その歪みに、魔術的な作用の存在が透けて見える。
(あれが……魔術の効果範囲か? なら、どのような原理で……)
風が落ち葉を一枚、空中へ舞い上げる。
それが《行き止まり》の周囲に差し掛かった瞬間――
止まった。
葉は宙に静止し、時間そのものを断ち切られたように、空間に釘付けにされたまま動かなくなる。
(……止まった? 空気抵抗すらない……)
天乃は魔眼で葉に絡む魔力を探る。
だが、そこには術式の痕跡も、魔力の圧も存在していなかった。
(魔力干渉じゃない……いや、干渉はしている。
だがそれは、物理的な“停止”……?)
それは構造や概念を通さず、直接的に対象を抑え込む力。
作用対象の速度が基準を下回るとき、その一切が止まる。
(速度……? ある基準以下の動きだけが止まる?)
観察の末に、仮説が形になる。
《行き止まり》が、にやりと笑った。
「……来ねぇなら、こっちから行くぜ」
直後、足元の空気が爆ぜた。
――『飛翔』。
純粋な魔力制御による推進。瞬間的な魔力噴出によって、爆発的な加速を得る移動術。
その身体が一閃の如く、天乃の懐へ突進する。
全体重を乗せた、超高速の拳。
(来る――!)
魔眼が捉えた軌道に即応し、天乃は後方へ跳躍する。
(触れたら終わる。絶対に触れてはいけない)
”直観”だった。
その拳は“ただの攻撃”ではない。魔眼が警鐘を鳴らす前に、身体が危険を察知していた。
紙一重でかわす間も、思考は止まらない。
(もしあれが“すべてを停止させる”力だとするなら……)
(なぜ俺は、あいつの姿を見えている?
なぜ会話が成立する?
なぜ奴の呼吸は妨げられていない?)
光は届き、音は響き、空気も流れている。
(ということは、《行き止まり》の能力は、それらには作用していない……?)
もし空間そのものを停止させているなら、視界は遮られ、会話は不能となり、呼吸すら維持できないはずだ。
(じゃあ、例えば――閃光弾のような“光”は? 爆発音のような“大音量”は?)
(超音波、低周波、あるいは空気を媒体とする毒ガスの類は?)
瞬間、可能性が広がる。
だが、すぐに天乃はそれらを却下する。
(いや、無理だ。そんなもの、俺が用意してるはずがない)
現状、彼にあるのは魔眼と限られた魔力、そして自身の経験と直観のみ。
(別のアプローチが必要だ……)
そのとき、ふと脳裏に浮かんだのは――《境界書換》。
(あの“フィルター”は、すべてを遮断しているわけじゃない。だったら……境界そのものを書き換えれば、通れるんじゃないか?)
見える。聞こえる。呼吸もできている。
その事実が、突破の可能性を示していた。
2036年6月23日 深夜1時27分
御堂は、まだその場に立ち尽くしていた。
二人が夜の闇に溶けてから、どれほど時間が過ぎたのか。
それすら、もう曖昧だった。
足は重く、鉛のように動かない。
胸の奥に巣食う罪悪感と、消えない恐怖。
踏み出そうとするたびに、それらが鎖のように身体を縛った。
だが――
(……見届けなきゃ)
静かだが確かな意志が、内側から響いた。
(私が関わった戦いなら、最後まで目を背けちゃいけない)
ゆっくりと、つま先が地を蹴る。
最初の一歩は困難だった。だが、身体は次第に熱を取り戻す。
重たい空気を振り払うように、彩芽は駆け出した。
夜の舗道を、一心に走る。
――二人の戦いを、この目で、最後まで見届けるために。




