例外を許された指先
2036年6月23日 午前1時18分
薄暗く静まり返った舗道に、乾いた足音が鳴る。
夜気の中、規則正しく近づくそれは、周囲の静寂を確実に侵していた。
「……逢引かァ。こんな場所で」
一言が響いた瞬間、御堂の身体がぴくりと反応する。
路地の陰から姿を現したのは、《行き止まり》。無機質な瞳で、天乃と御堂を順に見据えた。
「戻るぞ、《流星》」
低く平坦な声。命令というより、機械的な報告にも似た響きだった。
「……いや……」
御堂の声は掠れていた。拒絶の意志より、動揺が強く滲んでいた。
《行き止まり》が御堂に向かって無言で歩を進める。
空気がわずかに軋む。
彼の周囲に常時展開されている“静止”の魔術が、風の流れすら抑制しているのだ。
そして、その手が御堂の手首に伸びた、その瞬間――
「やめろ」
天乃の声が響き、咄嗟に伸ばした手が《行き止まり》の肩に触れる。
——触れられた。
空気が一拍だけ凍りつく。
常ならば誰一人として踏み込めぬ領域に、天乃の指先は確かに到達していた。
通常であれば、天乃の指先が《行き止まり》に触れることは出来ない。そのようなことをする前に手が止まるか、あるいは《行き止まり》の機嫌が悪ければ心停止すら起こりかねない状況だからだ。
だが、今回はそうならなかった。
それを受け、《行き止まり》の瞳がわずかに揺れる。
「……あァ、そりゃそォか。触れられるように“残しといた”んだった」
呟きは静かだったが、確信の色を含んでいた。
「いつかまた来るかと思ってな。あのとき、俺をブッ倒した“ガキ”がよ」
天乃の表情に一瞬の困惑が浮かぶ。
「何の話だ。俺は……そんなことはしてないとは断言できないけど……」
《行き止まり》は淡々と、事実のひとつとして告げる。
「随分なキャラ変だなァ。それとも記憶でもなくしたかァ? ……まァ、そりゃあどォでもいい」
感情はない。ただ現状を受け入れる声音だけが残る。
肩をすくめ、《行き止まり》は皮肉のように言葉を投げた。
「んで? どうすんだよ、この空気。俺が悪ィみてぇじゃねェか」
声音こそ軽やかだが、鋭い視線の奥には、意図的な圧力が込められていた。
天乃は、黙って御堂の方を見る。
彼女の視線は、拒絶と懇願のあいだで揺れていた。言葉よりも先に、目がすべてを物語っていた。
だが、天乃はすぐに返答できなかった。
かつての彼の信条は、「勝てない戦いは勝たない」――すなわち、入念な事前準備と情報収集によって、敗北の可能性を徹底的に排除する――「勝てる勝負しかしない」という意味だった。それが、天乃慎という魔術師の戦い方だった。
だが今の彼は、その信条の解釈を変えていた。
――戦いそのものを、戦いでなくしてしまう。
対立すら成立させず、力を振るわずに結果を導く。それが、今の天乃の信条であり、戦闘スタイルだった。
だからこそ、今この状況は彼にとって矛盾だった。
目の前の相手は、自分よりも遥かに強大な存在――《行き止まり》。
そして、その戦いはほとんど避けようのないものとして喉元に突きつけられている。
ここですぐに戦闘にならなかったのは《行き止まり》が自身に触れた天乃に興味を示したからに他ならない。
そして、《行き止まり》が遂にその言葉を発する。
「だったら、こォしようか。――勝負しろよ、俺と」
その一言は、提案ではなく、ほとんど宣告に等しい。
「勝てば、《流星》は解放してやる。悪ィ話じゃねェだろ?」
条件付きの戦い。
言葉こそ柔らかくとも、その本質は支配的な構図だ。
ここで断っても天乃が無事に帰れる公算は低い。
「……ただし、場所は変えよォぜ。ここじゃ狭すぎる。少し歩けば、見晴らしのいい広場があるからよォ」
語調に揺らぎはなかった。戦いの流れは、すでに彼の主導で進行していた。
それに対して、御堂が反応する。
「だ、だめ! やめて……! 応じないで。こいつは……こいつは、本当に、強いのよ……! あんただってやられちゃう……! 私はもういいから!」
警告と懇願が混ざり合った御堂の声は、かすかに震えていた。
天乃は、再び彼女を見る。
そこには、自責と恐れ、そして救いを求める微かな希望が滲んでいた。
「……それでも、やるしかない」
天乃が一歩、足を前に出す。
「オレがオマエを救いたいから」
言葉は静かで、決意は揺るぎない。
この戦いは、負けられない。
それが天乃の選択だった。
その言葉を聞いた《行き止まり》が背を向けて歩き出す。
天乃もその後を追う。
対する御堂は、その場から動けなかった。
「……私は……」
掠れた声が漏れる。
脚は重く、地面に縫いつけられたように動かなかった。
彼女のために、天乃が戦おうとしている――その現実が、心にのしかかる。
(私が……私が全部、巻き込んでる……)
うつむき、唇を噛み締め、拳を握る。
やがて、夜の中に二人の姿は溶けていった。
残されたのは沈黙と、闇の冷たさだけだった。




