拒絶の詠唱、溢れ出す本音
2036年6月23日 深夜1時03分
夜。静まり返った住宅街。
天乃は室内の灯りを落とし、無言で靴を履いていた。
「どこへ行くのだ、主殿?」
背後から英莉の声が飛ぶ。抑揚は乏しいが、わずかに疑念が混じっていた。
「ちょっと、コンビニ。夜食でも買いに」
「ではわっちはアイスを所望する」
天乃は苦笑し、玄関のドアを閉じる。
言葉に嘘はなかった。ただ、それだけでもなかった。
天乃の思考には、夕刻に出会った御堂の表情が焼き付いていた。
虚ろな目と、貼り付けたような笑み。それが、頭から離れなかった。
足は自然と人通りのない裏道へと向かっていた。夜風が私服の裾を揺らす。
照明の乏しい通りの先、暗がりの中に浮かぶ人影が見えた。
街灯の光をわずかに反射する、セラミック製の装具――
「……彩芽?」
名を呼ぶと同時に、少女の肩がぴくりと震えた。
振り向いた彼女の顔には、色のない疲労、押し殺した苛立ち、そして否応のない絶望が滲んでいた。
「……なんで、あんたがここにいんのよ」
「偶然だよ。ちょっと出ただけ。
……お前こそ、こんな時間に何してるんだよ。
中学生女子が出歩いていい時間じゃねぇだろ」
「関係ないでしょ。あんたには……何も、関係ない」
その声音には棘があった。だが、それ以上に――微かな震えが混ざっていた。
天乃は一歩前へ進む。その距離は、拒絶と渇望が同時に交錯する領域だった。
「彩芽、お前……」
その言葉に、彼女の身体が反応した。
スリングショットに手をかける。反射ではない。明確な“意思”がそこにあった。
「……近づくな。……これ以上、来たら……」
手甲型装具が構えられ、魔力が即座に収束していく。
青白い光が滲み、空気が緊張を孕みながら軋む。
「撃つわよ……」
迷いを含んだ声。それでも魔術は起動していた。
天乃は動かない。無抵抗を貫いた。
「本気で俺を狙ってるなら、それでもいい。でも……お前、本当は……」
言い終える前に、砲撃が放たれた。
金属音と魔力の震動が混じり合い、夜を裂く音が響く。
「見えてる……」
天乃の瞳が淡く光る。《魔術師殺し》の魔眼が、魔力の流れと弾道を視覚化し、その軌跡を正確に捉える。
空間の歪み、圧縮された力場の揺らぎを読み取り、天乃は身体を捻って弾道を回避した。
「なんで……避けんのよ……!」
続けざまに放たれる第二射、第三射。だが、そのすべてが天乃には届かない。
「彩芽、やめろ。そんなの、お前が一番傷つくんだ!」
「うるさい! 黙ってよ……もう、あんたの声なんか聞きたくない……っ!」
叫びが放たれると同時に、魔力の質が変化する。
御堂の唇が、詠唱の言葉を自然に紡ぎ出していた。
「”私が放った物体は、流星の如く流れ往く――”」
空気の密度が上がる。落ち葉が足元から巻き上がり、視界を乱す。
「”近寄ること勿れ、何時しか離れ往く運命なら……”」
天乃の視線が鋭くなる。術式の構成が見える。
それは、以前にも見た――《拒絶の場》の詠唱。
触れようとするすべてを排斥する術式。軽々に踏み込めば、あらゆるものが斥力に弾かれる。
「”私が抱けたものは、一つもない……”」
一拍の間が生まれた。彼女の指先が、わずかに震えていた。
その声には、明確な動揺が含まれていた。
「”……ただの一つも抱けぬ我が身でも、取りこぼせぬものがここにある……”」
その瞬間、天乃の表情が変わった。
御堂自身が、自らの言葉に困惑していた。
口にした瞬間、抑えていたものが崩れ出す感覚に包まれる。
「”私はあなたを拒めない。あなたは私を拒絶する?”」
詠唱とは自らの心象の開示。自らの起源に基づく渇望を露わにすることによって強力な力を発揮する。
すなわち、渇望の出流が別方向に発揮される場合もあるのだ。
「”もし許されるなら、触れ合いたい。私の願いは、一つだけ――”」
(今の……本音か? あいつが、こんな……)
詠唱が終わり、御堂の足元に結界が展開される。
本来は斥力をもって対象を弾くはずの《拒絶の場》が、逆に天乃を引き寄せていた。
「え……なに、これ……なんで……?」
御堂が呟く。詠唱者であるはずの彼女すら、この現象を理解できていなかった。
天乃は、そのまま歩を進める。引き寄せられるままに、ゆっくりと近づいていく。
「……本当は、拒絶なんてしたくなかったってことだろ」
その言葉に、御堂の肩がわずかに震えた。
「……それでも、私は……」
彼の足が、再び一歩、地を踏む。
その一歩で、スリングショットに収束していた魔力が霧散する。
「……やめてよ……優しくしないでよ……」
天乃の手が、そっと彼女の肩に触れた。
その瞬間、御堂の目に――初めて、涙が浮かんでいた。
「私が……どれだけ、何も守れなかったか……わかってんの?」
「……それでも、俺は、お前がここに立ってることを信じたい」
その一言が、御堂の内にある最後の防壁を打ち砕いた。
「私は……ずっと、間違ってばかりで……! それでも、なんとかしようとして……!」
「それで十分だよ」
短く、しかし強い言葉が、彼女の感情の芯を揺らす。
御堂は目を見開いたまま、膝をつく。
力が抜け、崩れ落ちるように。
「……私、もう……どうしたらいいか、わからないよ……」
天乃は何も言わず、そっと隣に腰を下ろす。
言葉ではなく、ただその場に“いる”という静かな行動で、寄り添い続けた。
夜風は、言葉を必要とせずに吹き抜け、どこまでも遠くへ流れていった。




