忘却の盤上
2036年6月7日 午後2時57分
三年前――あの日、間森啓吾はそこにはいなかった。
関与していたのは、自分ではない。
ただの“前任者”。
名前すら、今では誰も口にしない。
だが、確かに存在した。
そして――その男は、《無貌》の使い手だった。
対象を問わず、存在そのものを認識から抹消する異能。
味方すら例外ではない。
だからこそ、彼は徹底した対《無貌》プロトコルを構築していた。
記憶が改竄されることを“前提”とし、
改竄を引き金に正しい記憶を呼び戻す仕掛けを埋め込む。
自衛ではない。
それは、生き延びるための最低条件だった。
間森は、ただその技術を受け継いだだけだ。
それが何を意味するかも知らずに。
そして今日。
その対策は、完璧に作動した。
相庭一臣。
あの男と対峙した瞬間に、違和感が脳を叩いた。
――認識の空白。
間森啓吾は、迷わなかった。
《無貌》だ。
ただし、あれは本来の術者によるものではない。
再現だ。
相庭一臣が、《王の法》で複製した模倣にすぎない。
本物――
本物の《無貌》の使い手は、既に失われている。
辰上の亡霊は、また別に存在する。
狗飼朱音。
あの少女の、異様な登場の仕方。
すべてが、線でつながる。
偶然などではない。
これは“始まり”だ。
天乃慎。
記憶を失ったはずの少年が、すべてを仕組んでいた。
記憶を失ったからこそ、起動した。
かつての意志が、忘却を超えて、今なお世界を縛っている。
間森は、静かに息を吐いた。
知らなかった。
だが、気づいた。
ならば――やるしかない。
己の立場も、過去も、今はどうでもいい。
これが、いま目の前にある現実だ。
そして、それを引き受ける理由は一つしかない。
俺はここにいる。
それだけだ。
2036年6月7日 午後2時59分
狗飼朱音。
あの笑み。
あの声音。
一見すれば、ただの無邪気だ。
少し変わったお嬢様の、気まぐれな遊び。
だが、違う。
間森にはわかる。
あの裏にあるものは――本物の“狂気”だ。
狗飼朱音は、自分がどれほど人間離れした存在かを、よく知っている。
そして、知った上で、意図的に“普通”を演じている。
戯れか。
計算か。
もしくは、両方か。
いずれにせよ、彼女の微笑みの奥には、絶対に立ち入ってはならない領域があった。
あの無邪気さは、絶対に信じてはいけない。
間森は、己にそう言い聞かせる。
だが、それでも――
(……こいつを敵に回すわけには、いかねぇ)
それが、即断した理由だった。
たとえ脅しに屈したように見えたとしても、構わない。
あの瞬間、狗飼朱音の“提案”を断った時点で、間森啓吾の未来は存在しなくなっていた。
だから、選ぶしかなかった。
生き残るために。
未来をつなぐために。
天乃慎が仕掛けたこの狂った盤面で、間森啓吾は自ら歩を進めると決めた。
誰にも、強制されず。
誰にも、背中を押されず。
ただ、己自身の意志で。
(……これが、俺の選択だ)
そう、心の中で呟きながら、
間森は、無邪気に笑う狗飼朱音へ、形だけの微笑みを返した。
――ゲームの始まりだ。
2036年6月7日 午後3時52分
銀弾を撃ち込んだ手応えは確かにあった。
英莉――いや、正確には“英莉の意識”は一瞬で瓦解しかけた。
予定通りなら、このまま無力化できるはずだった。
だが、突破された。
銀弾をもってしても、止められなかった。
間森啓吾は、静かに状況を分析する。
(……想定外、だな)
本来なら、英莉は銀弾による干渉で足止めできるはずだった。
天乃慎の本来の計画では、彼女が案内役を担う予定だった以上、過剰な力を行使する意図はなかったはずだ。
それが、この場で強行突破に及んだ。
(……なにか、こちらが掴んでいない変数があるか)
天乃慎の計画か。
あるいは、英莉自身の予想外の変調か。
どちらにせよ、状況は変わった。
だが、間森は結論をすぐに下す。
(――問題ない)
この突破行動が、天乃慎の覚醒条件を脅かすものではない限り、対応を変える必要はない。
狗飼が英莉を警戒したのは、単なる情報不足に起因するものだ。
そして、銀弾を撃った以上、自分の役目も最低限果たしたとみなせる。
(……あとは、慎の動き次第だ)
ただそれだけだ。
銃を構えたまま、間森啓吾は静かに夜の気配を読み取った。
2036年6月7日 午後4時44分
殺風景な地下室。
そこに突如現れた《無貌》の男が、膝を折って血を吐いた。
その様を、間森はただ無表情で見下ろす。
(……まあ、当然だな)
あれほど無理な転移を強行すれば、まともに立っていられる方がおかしい。
だが、生きているなら十分だ。
軽口を叩く。
挑発というより、確認だった。
もしここで折れるようなら、それまでだ。
計画の続行は不可能と割り切るだけの話。
だが、《無貌》の男は立ち上がった。
(バカ正直な……だが、こういう手合いは嫌いじゃねえ)
天乃との約束。
狗飼の依頼。
それらを守るためには、“王”を、このまま走らせなければならない。
だからこそ、あえて煽った。
鼓舞した。
自尊心をくすぐった。
すべては、天乃慎を「敵対者」として立たせるため。
覚醒者の条件を、満たすため。
(……もう誰も、立ち止まれねえ)
そうして、“王”は満足げに去っていった。
(さて、と)
残された間森は、手元の装備を確認する。
銃。
ナイフ。
魔弾。
(……どうせ、持ちこたえればいい)
たったそれだけの覚悟だった。
2036年6月7日 午後5時15分
伏見の気配をようやく撒いたことを確信すると、間森は大きく息を吐いた。
体力の限界などとっくに超えていたが、それでも歩みを止めることはない。
――大丈夫だ。
慎の奴は、予定通り“敵対者”になれた。
狗飼の計画も、慎の本意も、どっちも狂っちゃいねぇ。
間森は、灰色にくすんだ空を見上げる。
そこに浮かぶ月は、まだ曇りの向こうだった。
なら――
次は俺の仕事だ。
藤咲夏南
行方不明になった少女。
まだ“間に合う”と信じるなら、今動くしかない。
間森は、傷だらけの体に鞭打ち、再び闇の中へと姿を消した。
その背に、誰も気づく者はいなかった。




