理と情の狭間
2036年6月7日 午後9時30分
「お嬢様、そういえば、天乃様と緋澄様に関して蛇足というかご報告が」
「ん? なになに」
2036年6月7日午後2時24分
「英莉は間違った誘導をしていることを疑問に思ってないし、俺もこれに気付きつつ無視してるんだから」
「へえ。てっきり似合わない御人好しに目覚めたのかと。
それか、英雄願望ね。自分に酔うタイプの」
緋澄はそういうと少し笑みを浮かべ、天乃を見遣る。
「でも、そう、本当によかったわ。あなたがちゃんと打算に塗れてくれていて」
「え? 緋澄は、何かに気付いてて指摘したんじゃないの?」
「いえ、全然。まったく。これっぽちも。ただ、天乃慎の行動が純粋に気持ち悪かったから指摘したまでよ。そういうのを目の前で見せられて、無性にイライラしたの」
「えぇ……」
緋澄の八つ当たりとも言える開き直りに、無駄にリスクを負うことになっていまった天乃が困惑を示す。
「だって、しょうがないじゃない。やっぱり、私にとっての天乃慎は、誰もが焦がれる人情に篤い英雄様なんかじゃ決してないのだもの。血の通っていない冷酷無比な機械みたいな輩であるべきなのよ。
『無償の奉仕に価値などない』
『理由がなければ動かない』
『我が身を顧みぬ人助けなど、唾棄すべき愚行でしかない』
そう公言して憚らないのが、天乃慎なのよ。実際、他人に何かを施す際には契約や対価に拘ってたし」
「周りの顰蹙買いそう」
「それについては、あなた自身が大バーゲンセールをしていたのだから、仕方ないんじゃないの?」
「おっしゃる通りです。」
ぐうの音も出ない正論に、天乃は項垂れる。
「でも、それを聞いた当時の私は、なるほどと思ったのよ。言葉は悪いけど、こいつは善人のことを慮ってもいるんだなって」
「――……」
「だって、これは善行であってもちゃんと対価を取れって話よね。善意は無償で提供されて然るべきなんて考えが蔓延っちゃったら、無償でなければ善意でないことになってしまう。それでは、究極的には金銭的・物理的な余裕のある者しか善行を積めなくなってしまう。別に、善行によって金銭的に裕福になれる社会である必要はないんだけど。でも、善意は何らかの形でちゃんと報われるように事前に手配しておけって言いたかったんじゃないの? そして、施しを受ける側も無償の愛に甘えるなってことなんじゃない?」
「……どうだろう、深読みしすぎじゃないか? そう考えている人間の口から出る言葉じゃないでしょ。もしそうなら、情報の受け取り手に対する配慮に欠け過ぎている。これじゃあ、拝金主義との誹りを受けても仕方ないんじゃないかな。あと、自然に“いいこと”ができる人ってのは、そんな打算なんてないからこそ、そんなことができてるんだし。報われてほしいとは思うけど、報われるための準備をしておけと強要するのもなんだかなあ、って感じだ」
「それは否定しないわよ。だからこそ『善人のことを慮って“も”いる』って言ったのよ。人間って浅ましい生き物だから、度し難い聖人が先に無償で救いを与えてしまうと、それに救われ慣れた人間は、後に続く者にも同じ質の奉仕を期待するのよ。救われることが当り前だとすら考え始める。既得権益を手放せない。それが勝ち取ったものではなく、ただ与えられただけのものなのに。それでは、聖人以外は息が詰まってしまうわ」
曖昧な表情になる天乃に対し、緋澄は最後に少しだけ情報を付け足す。
「でも、さっきのには、そういった意味合いのほかにもポジショントークが含まれているのも間違いないわよ。あなたは、そういった行為が嫌いだったの。あなたが唾棄すべきと愚行と吐き捨てた合理性のない感情に任せた行為こそ、あなたを殺す刃だったのだから」
「え?」
天乃が気付いた時には既に手遅れであった。
緋澄はいつのまにか再び天乃のすぐ傍まで接近しており、正面から天乃に抱き着いたのである。緋澄は、そのまま腕を天乃の背後に回し、天乃を強く抱きしめる。
その緋澄の行動は、いままでの行動からは予見できるものではなく、そうすべき合理性も一切ない。
だからこそ、天乃には緋澄の抱擁を避けるべきという“直観”が働かなかったのである。
「ほらね、予測できなかったし、躱せなかった、でしょ。これが刃物じゃなくてよかったわね」
そういって、両手の指を天乃の背中に一瞬だけ強く食い込ませながら天乃の耳元で囁く緋澄の声には、してやったりという勝ち誇った響きがあった。
一応、緋澄の名誉のために補足しておくと、彼女が正常な精神状態であり、羞恥心がわずかなりともまともに機能していれば、ここまでの行動に出ることはなかったであろう。
ただ、彼女は彼女なりの事情により、精神的な均衡を保つのが難しい状態だったのであり、かつ天乃に対する子供っぽい対抗意識と、周囲に他人の目線がなかったという複合的な要因が重なったことにより、衝動的にこうした行動に出てしまったのである。
ただ、そのような事情を知る由もない天乃はというと、このような異性との触れ合い(物理)イベントに心の一つでもときめかせていたのであれば、まだ可愛気があるというものだが、緋澄の感触を実感する前に発生したもう一つの問題の方に気を取られており、正直それどころではなかったというのが実情である。
「――え……あ、あぁ、そっすね」
と、実に予想外な微妙な反応を返す天乃に対し、ある意味正常な判断能力が失われていた緋澄もようやく周囲の目を気にし始める程度には羞恥心が戻りかけ、それと同時に天乃の態度に小さな疑問を持つことに成功する。
「なによ、冷めたこと言っちゃって。少し恥ずかしくなってきたじゃない」
「えっと、これは、言っちゃってもいいものなのか?」
「どうぞ?」
「天空さん――見なかったことにしません?」
「…………え?」
その後、天乃の視線を追って後ろを振りむいた緋澄が声にならない悲鳴を上げながら天乃を突き飛ばし、ばっちり目が合ってしまった天空にあらゆる手段を講じて念入りな口止めを行ったのだが、本人の名誉のためにその詳細は伏せさせていただく。
2036年6月7日 午後9時33分
「――ということがございまして。 緋澄様は当初は天乃様のことを『敵』と呼んでいたのですが……なにか、事情がありそうです」
「なにそれ!? まこちゃん大胆! そして怪しぃ。これは調査の必要があるね。あの双子の事件は去年の 2036年6月7日 午後9時30分
「お嬢様、そういえば、天乃様と緋澄様に関して蛇足というかご報告が」
「ん? なになに」
2036年6月7日午後2時24分
「英莉は間違った誘導をしていることを疑問に思ってないし、俺もこれに気付きつつ無視してるんだから」
「へえ。てっきり似合わない御人好しに目覚めたのかと。
それか、英雄願望ね。自分に酔うタイプの」
緋澄はそういうと少し笑みを浮かべ、天乃を見遣る。
「でも、そう、本当によかったわ。あなたがちゃんと打算に塗れてくれていて」
「え? 緋澄は、何かに気付いてて指摘したんじゃないの?」
「いえ、全然。まったく。これっぽちも。ただ、天乃慎の行動が純粋に気持ち悪かったから指摘したまでよ。そういうのを目の前で見せられて、無性にイライラしたの」
「えぇ……」
緋澄の八つ当たりとも言える開き直りに、無駄にリスクを負うことになっていまった天乃が困惑を示す。
「だって、しょうがないじゃない。やっぱり、私にとっての天乃慎は、誰もが焦がれる人情に篤い英雄様なんかじゃ決してないのだもの。血の通っていない冷酷無比な機械みたいな輩であるべきなのよ。
『無償の奉仕に価値などない』
『理由がなければ動かない』
『我が身を顧みぬ人助けなど、唾棄すべき愚行でしかない』
そう公言して憚らないのが、天乃慎なのよ。実際、他人に何かを施す際には契約や対価に拘ってたし」
「周りの顰蹙買いそう」
「それについては、あなた自身が大バーゲンセールをしていたのだから、仕方ないんじゃないの?」
「おっしゃる通りです。」
ぐうの音も出ない正論に、天乃は項垂れる。
「でも、それを聞いた当時の私は、なるほどと思ったのよ。言葉は悪いけど、こいつは善人のことを慮ってもいるんだなって」
「――……」
「だって、これは善行であってもちゃんと対価を取れって話よね。善意は無償で提供されて然るべきなんて考えが蔓延っちゃったら、無償でなければ善意でないことになってしまう。それでは、究極的には金銭的・物理的な余裕のある者しか善行を積めなくなってしまう。別に、善行によって金銭的に裕福になれる社会である必要はないんだけど。でも、善意は何らかの形でちゃんと報われるように事前に手配しておけって言いたかったんじゃないの? そして、施しを受ける側も無償の愛に甘えるなってことなんじゃない?」
「……どうだろう、深読みしすぎじゃないか? そう考えている人間の口から出る言葉じゃないでしょ。もしそうなら、情報の受け取り手に対する配慮に欠け過ぎている。これじゃあ、拝金主義との誹りを受けても仕方ないんじゃないかな。あと、自然に“いいこと”ができる人ってのは、そんな打算なんてないからこそ、そんなことができてるんだし。報われてほしいとは思うけど、報われるための準備をしておけと強要するのもなんだかなあ、って感じだ」
「それは否定しないわよ。だからこそ『善人のことを慮って“も”いる』って言ったのよ。人間って浅ましい生き物だから、度し難い聖人が先に無償で救いを与えてしまうと、それに救われ慣れた人間は、後に続く者にも同じ質の奉仕を期待するのよ。救われることが当り前だとすら考え始める。既得権益を手放せない。それが勝ち取ったものではなく、ただ与えられただけのものなのに。それでは、聖人以外は息が詰まってしまうわ」
曖昧な表情になる天乃に対し、緋澄は最後に少しだけ情報を付け足す。
「でも、さっきのには、そういった意味合いのほかにもポジショントークが含まれているのも間違いないわよ。あなたは、そういった行為が嫌いだったの。あなたが唾棄すべきと愚行と吐き捨てた合理性のない感情に任せた行為こそ、あなたを殺す刃だったのだから」
「え?」
天乃が気付いた時には既に手遅れであった。
緋澄はいつのまにか再び天乃のすぐ傍まで接近しており、正面から天乃に抱き着いたのである。緋澄は、そのまま腕を天乃の背後に回し、天乃を強く抱きしめる。
その緋澄の行動は、いままでの行動からは予見できるものではなく、そうすべき合理性も一切ない。
だからこそ、天乃には緋澄の抱擁を避けるべきという“直観”が働かなかったのである。
「ほらね、予測できなかったし、躱せなかった、でしょ。これが刃物じゃなくてよかったわね」
そういって、両手の指を天乃の背中に一瞬だけ強く食い込ませながら天乃の耳元で囁く緋澄の声には、してやったりという勝ち誇った響きがあった。
一応、緋澄の名誉のために補足しておくと、彼女が正常な精神状態であり、羞恥心がわずかなりともまともに機能していれば、ここまでの行動に出ることはなかったであろう。
ただ、彼女は彼女なりの事情により、精神的な均衡を保つのが難しい状態だったのであり、かつ天乃に対する子供っぽい対抗意識と、周囲に他人の目線がなかったという複合的な要因が重なったことにより、衝動的にこうした行動に出てしまったのである。
ただ、そのような事情を知る由もない天乃はというと、このような異性との触れ合い(物理)イベントに心の一つでもときめかせていたのであれば、まだ可愛気があるというものだが、緋澄の感触を実感する前に発生したもう一つの問題の方に気を取られており、正直それどころではなかったというのが実情である。
「――え……あ、あぁ、そっすね」
と、実に予想外な微妙な反応を返す天乃に対し、ある意味正常な判断能力が失われていた緋澄もようやく周囲の目を気にし始める程度には羞恥心が戻りかけ、それと同時に天乃の態度に小さな疑問を持つことに成功する。
「なによ、冷めたこと言っちゃって。少し恥ずかしくなってきたじゃない」
「えっと、これは、言っちゃってもいいものなのか?」
「どうぞ?」
「天空さん――見なかったことにしません?」
「…………え?」
その後、天乃の視線を追って後ろを振りむいた緋澄が声にならない悲鳴を上げながら天乃を突き飛ばし、ばっちり目が合ってしまった天空にあらゆる手段を講じて念入りな口止めを行ったのだが、本人の名誉のためにその詳細は伏せさせていただく。
2036年6月7日 午後9時33分
「――ということがございまして。 緋澄様は当初は天乃様のことを『敵』と呼んでいたのですが……なにか、事情がありそうです」
「なにそれ!? まこちゃん大胆! そして怪しぃ。これは調査の必要があるね。あの双子の事件は去年のゴールデンウィーク辺りだったからね。やるよう、天空ぅ。レッツ、推し活!!」
こうして口止めの甲斐もなくあっさりと一番厄介な相手に事情をばらされたわけだが、それはご愛敬ということで。




