脅迫と取引の中間
2036年6月7日 午後1時13分
「ふ、はははっ、喜べ、羽虫。貴様の使い道が決定したぞ」
間森が策を求めて周囲を警戒する中、相庭は高らかに哄笑しながら言い放った。
その緊迫を裂くように、場にそぐわない間延びした声が響く。
「ねえ、遅いんですけど。わたくし待ちくたびれたんですけどぉ」
相庭の背後から現れたのは狗飼だった。体操服姿で街中に立つその姿は異様だったが、本人は気にも留めていない。
「まあ、暫し待て。もう終わる」
相庭は鬱陶しげに手を振って狗飼を追いやろうとしたが、狗飼はそれを軽くかわし、間森へと視線を向けた。
その眼差しは、退屈を一掃するように嗜虐的な光を宿していた。
「あら? あらあら、まあまあ。誰かと思えば、こんなところで何をしているのかしら、このモグラさんは」
間森のサングラスの奥の瞳が、驚愕にわずかに瞬く。
「なんだ、知り合いか?」
相庭の問いかけに、狗飼は首を振り、声に甘さをにじませた。
「まさかまさか。わたくしと彼は初対面ですよぉ。でもでもぉ、1回くらいは会って話をしたいなぁとは思ってました。このような状況でもなければ、ですが」
「狗飼家のご令嬢が、この俺に?」
間森の皮肉めいた問いに、狗飼はわざとらしく小首をかしげる。
「そうですよぉ、間森啓吾さん、でしたっけぇ。いえ、でも、本当に惜しいですね。このような機会がまた巡ってくるとは限りませんのにぃ」
間森は肩をすくめる。
「俺は別に構わないんだが?」
時間稼ぎの意図を汲んだ相庭が、わずかに目を細める。
「ご冗談を。何事にも優先順位というものがあるでしょう? 今は、わたくし個人の興味を優先させるべきときではありませんのでぇ」
狗飼の回答に、相庭は呆れたように鼻を鳴らした。
「そうかい。――だったら、1つ提案がある」
「聴くと思うてか?」
相庭が吐き捨てるように言い、間森の頭に手を伸ばす――その直前。
「――今の慎では、辰上の王を殺すことはできないぞ」
その言葉に、空気が凍った。
相庭の動きが、寸分の狂いもなく止まる。
間森の頭に伸びかけた手も、宙に固定されたかのようだった。
「……なに?」
絞り出すような低音。
油断も余裕も、一瞬で掻き消えた。
間森は、わずかに唇を歪める。
敵意ではない。
無感情に、淡々と事実だけを突きつける冷ややかさだった。
「《無貌》とは、俺の知る限り、究極の隠形魔術だ。
正体を悟らせず、存在そのものを記憶から抜き取る。
知っていることすら対策にならない」
張り詰めた沈黙の中、狗飼だけが飄々とした態度を崩さなかった。
「その割には、ずいぶんと詳しいみたいですがねぇ」
狗飼の声は、皮肉にも取れ、単なる好奇にも聞こえた。
間森は、構わず続ける。
「記憶の改竄に備えるには、改竄されることを前提に記憶を弄るしかない。
記憶が書き換えられたとき、それをトリガーに本来の記憶を呼び戻す仕掛けを施す。
理屈上は、それで対応できる」
狗飼は、どこか愉快そうに目を細めた。
「……なるほど、理屈上は、ですねぇ。本当にそれを実行できるかは別にして。
いえ、相変わらず、発想の奇抜さと行動の大胆さだけは群を抜いてますねぇ、貴方がたは」
その言葉に、間森の表情は微動だにしなかった。
「……その口ぶりだと、やっぱり俺の正体には気付いてるらしいな」
「あまり原型術師の情報網を、侮らないでいただきたいのですが」
狗飼の声音には、無邪気な笑みすら混じっている。
だがその裏に、確かな毒が隠れているのを、間森は敏感に感じ取った。
「肝に銘じておく。……で、だ」
間森は、淡々と話を進める。
「《無貌》対策は、使う側にとっても不可欠な技能だ。
――本来の使い手を擁していた俺たちが、《無貌》に振り回されるはずがないって話さ」
相庭が、じり、とわずかに体重をかけ直す。
表情は変わらない。だが、周囲の空気は確実に緊張を深めていた。
「貴様は……なるほど、“土竜”とは、そういう意味か」
「一部界隈での、ただの蔑称さ」
間森が肩をすくめたとき――狗飼が、まるで子供のように声を上げた。
「モグラさん、かわいいのに」
その声音には冗談とも、本気ともつかない、危うい響きがあった。
間森は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに本題へと戻る。
「要するに、そこからあんたの正体に当たりを付けたってわけだ。《無貌》の使い手が消えたのは3年前。その最後の任務と魔術特性を突き合わせりゃ――答えは絞れる」
「隠すことでもない」
相庭の声は低いままだったが、その奥にはかすかな怒気が滲んでいた。
狗飼は、そんな張り詰めた空気も意に介さず、楽しげに手を叩く。
「待ってください。わたくし、いいことを思いつきましたぁ」
ふたりの視線が狗飼に向かう。
「この方、巻き込みましょう」
「は?」
「なに?」
間森と相庭が、ほぼ同時に声を上げる。
狗飼は無邪気な笑みを崩さない。
「ちょっと戦力不足だなと思っていたのです。ちょうど渡りに船ですね。
目的も似ていますし、協力しません? 間森さん」
「協力?」
「貴方にお願いしたいのは、英莉ちゃんの足止めです」
「は? 無理に決まってるだろ?
あの全身凶器みたいな存在の足止めなんぞ」
狗飼は、くすくすと笑った。
「いえいえ、こちらで用意した解呪の銀弾を配布しますので、楽な仕事になると思いますよぉ。
それとも、ここで任務を終了しますかぁ?」
言葉尻は柔らかい。
だがその中には、絶対の拒絶を許さない圧力が潜んでいた。
「それ、脅しだよな」
「はい、脅しです♪」
狗飼の無邪気な笑みの奥に、得体の知れない影が揺れる。
間森は短く息を吐き、肩を落とした。
「わかったやるよ、やらせていただきます!」
即答だった。
「戦力ゲット~♪ では、よろしくお願いしますね、間森くん」
場の空気に似合わぬ能天気な声を残し、狗飼はくるりと踵を返した。
だがその背には、相庭すら容易に踏み込めない、底知れぬ狂気がちらりと覗いていた。




