狗飼の救出
2036年6月7日午後6時35分
「……ここだ」
天乃が足を止めた先には、厚い鉄扉があった。
なお、雹霞は相庭の見張りを行っており、ここにはいない。
また、伏見とエリザベートが豪快に暴れ散らかしていたが、それも今は事なきを得ている。
水無月が手のひらをかざして魔力を流しながら力を籠めると、錆びついた錠前が音を立てて解錠される。
ギィィ……と鈍く開いた扉の向こう。
薄暗く、わずかな照明に照らされた小さな部屋の中心に、一人の少女が横たわっていた。
「……朱音っ!」
水無月が駆け寄り、天乃も続く。
ぐったりとベッドに倒れていた狗飼は、浅い呼吸だけを繰り返し、意識は戻っていない。
「生きてる……けど、反応がない」
「長時間、拘束されてたんだ。魔力の流れも抑制されてる。
これ……封印術式か」
天乃が指先で狗飼の額に軽く触れ、《境界書換》で魔力の経路を少し開く。
その瞬間、狗飼のまぶたがぴくりと震えた。
「……ぅ……」
「朱音っ、大丈夫……!?」
「……ふぅ……ちゃん?」
かすれた声が漏れた。目を細め、周囲をゆっくりと見渡す。
「ここ……どこぉ……?」
「大丈夫よ、もう安全だから」
天乃は携帯端末で外部と連絡を取る。
十数分後、魔術対応の救護班が駆けつけ、狗飼は担架に載せられて運ばれていった。
2036年6月7日午後7時30分
天乃と水無月は、壮年の医師――藪とともに病室の前に立っていた。
「彼女は拘束魔術によって長時間意識を封じられていたみたいだよ。
幸い、脳波にも異常はなく、魔力回路にも深刻な損傷はない。
念のため一晩検査入院させるが、明日には退院可能だと思うよ」
天乃は頷いた。
「……何も覚えてないって、本当ですか?」
藪が静かに答える。
「まぁね。本人の記憶は――発見される直前まで、一切ないと。
目覚めた直後も、誰に何をされたのか、何もわからないと」
水無月が唇を噛む。
「利用されたのね……」
「……でも、無事だった。今はそれでいいさ」
2036年6月7日午後8時15分
狗飼はベッドの上で静かに目を開けていた。窓の外、街の灯がぼんやりと揺れている。
そっと開いた扉から、天乃と水無月が入ってくる。
「……寝てた?」
「……ううん、起きてた」
狗飼の声は、どこか怯えと不安をにじませていた。
けれど、それでも懸命に二人の顔を見つめている。
「あのぉ、わたくし、何か……変なこと、しちゃった……?」
水無月が駆け寄って、狗飼の手を握る。
「大丈夫。何もしてない。何も、悪くないわ。全部……終わったから」
狗飼の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「……こわかったの。ずっと、暗かった。動けなくて……誰かに呼ばれる夢を、何度も、見て……」
天乃はその言葉を黙って聞いていた。
彼は知っている。この少女が利用された理由を。
天乃をおびき出すための餌だったことを。
「すまなかった」
「どうして謝るんですか? えっと――ふぅちゃん、この人誰?」
「え? オレを知らない?」
だとすれば、天空との協定とは一体何だったのか。
「その反応、もしかして有名人かなぁ?
あ、あれだ。手術の前日にやってきて『君のためにホームランを打つから頑張って手術を受けるんだよ』ってやつだよぉ、きっと」
「アンタは手術しないし野球少年でもないでしょ」
天乃はしばらく絶句していた。
だが、それは単純な戸惑いだった。
(この娘……本当に心当たりがないのか?)
「……あの、狗飼さん。オレ、天乃慎って言って……」
「うんうん、あのね、名前は聞いた気がする気がするけど、顔は初対面!
よろしくね、天乃くん!」
あまりに屈託のない笑顔に、天乃の返答が一拍遅れる。
「……ああ、よろしく」
その後ろで、水無月が肩を竦める。
「アンタ……本当にこの状況でそのテンションなの?」
「え、なんかダメ? あっ、でも病院って静かにしなきゃダメなやつだよね。
ごめん、ふぅちゃん、ちょっとテンション抑えるね?」
「そういう意味じゃないんだけど……ま、いっか」
狗飼は、ころころと笑いながらベッドに寝転がり直す。
「でも、なんだろう。誰かに会った気はするんだよね~。夢の中で。呼ばれて、導かれて。なんか、ふわ~っとした声で……」
「……夢の中、ね」
天乃はその言葉に、ほんのわずかに視線を細めた。
(記憶が封印されたわけじゃない。きっと、都合よく“夢”として整理されてるだけだ)
だが、狗飼の様子に悪意はない。
ただ、まるで夢から醒めた子どものように、あまりにも無垢で、無防備で。
だからこそ、少し怖いくらいであった。
「ま、まぁ、元気そうで良かったよ。ホント」
「うんっ! あっ、そうだ。あとでアイス食べてもいい?
病院の売店にあるやつ、好きなの!」
「……しっかり休んでからね」
水無月はそういって、狗飼の頭を軽く撫でた。
天乃も小さく笑う。
「じゃあね。今日は無理しないで寝なさい」
「うん! またね~、ふぅちゃん! 天乃くん!」
二人が扉を閉める直前、狗飼はぽつりと呟いた。
「……まだかなぁ。みんながもっとハッピーになれる日は」
彼女は笑っていた。
まるで、何も知らないまま、全部を知っているかのように。




