叡智の副作用を呑み込む直観という異能
2036年6月7日午後5時1分
「ようやく、前向きに話を聞く気になったのか?」
「いや、全く。
とはいえ、条件は聞いておいても損はないと思ってな」
《無貌》の男の言葉に、天乃は挑発的な言葉を返し、その見通すことのできない素顔をじっと見据える。
「損はない?
ハッ、確かに、未知は恐怖をもたらし、時に打ち手を誤らせるが、一方で身を護る術となることもある。
逆に、既知は疑問を晴らし、見通しを良くする一方で、諦観を生みだし、時に相手に取り込まれる。
これらは表裏一体で、決して都合のよい面だけを享受することはできないものだ。
特に、知らぬことで避けられることがあるというのは、魔術師には常識の部類だぞ。
敢えて特定分野に関する知識の取得を放棄する者すらいるほどにな。
それでも、貴様は知ることに損はないと?」
確かに、これからすぐに危険があることを事前に知っていれば、避けるための準備や心構えができるだろう。
しかし、それが理論上不可能であり、決して成就しないことを知っていれば、その何かに真摯に打ち込むことはできるだろうか。
前者を知らなければ準備なく危険に対処する必要があるが、後者を知らなければ、少なくとも何かに取り組むことに躊躇はしないだろう。
そして、前者を知っているが故に危険に怯え、対処を誤ることも、後者を知らなかったからこそ取り組んでいた『何か』により、偶然にも別の有用な『何か』を得ることだってあるだろう。
そして、《無貌》の男が指摘したように、知っているからこそ避けられなくなる魔術や相手が知っていることによって効果が増幅される魔術が実在するというのは、事実である。
ちなみに、天乃も、敢えて詠唱を用いて手の内を晒し、相手に特定の条件に応じさせることで効果を生じさせる魔術の形式については、既に直接見て体験したことがあるので、このことは勿論知っていた。
それは、御堂彩芽が用いた《拒絶の場》である。
一時的とはいえ、天乃自身が、それを形成する術者ともなった《拒絶の場》は、英莉の話によると、正確には“嵌合”と呼ばれる魔術とは似て非なる現象であり、この世界における魔術の法則を逆手に取った“バグ技”のようなものであるとの説明を受けていた。
あのときに御堂が使用していた《拒絶の場》は、特定の内心の意思表示を条件として、周囲の人間を勝手に魔術の術者へと引きずり込み、魔術を維持するための燃料に変えてしまうという非常に悪辣なものであったが、その前提として、御堂は詠唱を用いて周囲の人間に《拒絶の場》の全容を周知していたのである。
つまり、その場で詠唱を耳にした全員は、その術者に組み込まれる条件を知っているのだから、その詠唱を聞いた者はそれに合意したと擬制され、術式を維持する燃料となることに同意したとみなされるのである。
とはいえ、当然のことではあるが、詠唱そのものは、それを字句通りに捉えても、その全貌を理解できるような代物ではない。
それでもそれを理解したものとみなされるのは、そもそも詠唱とは言葉による魔方陣のようなものであり、それを耳した者はその魔術の構造を理解するために必要な情報が与えられているということになる。
だからこそ、理解できないはずがない。
要するに、『契約書は渡したので、内容は各自で確認してください。後で知らなかったでは通りません。安心してください。あなたに不利益が齎されることがあってもそれはあなたが無知なせいなので』ということである。
その結果、詠唱を聞いた時点で、“嵌合”に応じる意思ありと一方的にみなされ、術者に勝手に取り込まれるという押し売り同然の現象が生じていたのである。
これは、逆に言えば、あの詠唱を聞いていない者でれば、あの場において“嵌合”の条件となる意思を持っていたとしても“嵌合”には巻き込まれないということでもある。
実際、あの場に後から現れた『殺し屋』や英莉は、《拒絶の場》には一度も巻き込まれていない。
このように、魔術の中には詳細を知ることを条件として発動するものも存在する。
したがって、《無貌》の男が言ったことはおよそ間違いという訳ではない。
だが、それに対する天乃の回答は既に決まっているものだった。
「ああ、情報を得ることは、オレに限っては損がない。
“直観”があるからな」
緋澄曰く、天乃の“直観”とは、天乃にとって既知の情報から導き出された最適解である。
これはつまり、天乃にとっては既知の情報が増えれば増えるほど“直観”の精度が高まるということである。
もちろん、間違った情報は“直観”の精度に影響を及ぼすことになるはずだが、今までの“直観”の頻度や精度からすると、“直観”は、情報の信憑性を考慮要素としているようである。
英莉からの間違った情報があったにもかかわらず、ここまで明確な間違いを引いていないことがそれを裏付けている。
「ハッ、だろうな。それをちゃんと理解しているなら問題ない。
――さて、気になる『覚醒者』へと至る方法だが」
そこで言葉を切った《無貌》の男は、三俣の方を一瞥する。
「あぁ、いいよ。僕の用事はもう済んだんだ。
あとは、ここで事が成就するまでは待機してるから。
気にせず行くといい。時間はあまりないよ」
しばらくして自分に視線が向いていることに気づいた三俣は、そう言って《無貌》の男に先を急ぐように促す。
「――わかった。では、ついてこい」
三俣の言葉を受けた《無貌》の男は、即座に振り返ると、天乃に声を掛けてからその場を立ち去る。
それに続いた天乃を見送った三俣は、引き戸を閉めると、机の上の地図に目を落とす。
(さて、本来はもう舞台を降りて傍観している予定だったんだけど)
そう内心で呟く三俣が見ているのは、この建物の5階の現在の光景である。
《俯瞰地図》という魔術の本来的な用途は、その名の通り、地図を介して状況を俯瞰することにある。
三俣が天乃に対してした《俯瞰地図》の説明には一切の嘘が含まれていなかったが、この本来の用途だけは敢えて話していない。
(これは、禁じ手もいいところだなんだよねぇ)
三俣が見ている光景を端的に換言すると、“嵐”であった。
たった一つの“暴威”に群がる“獣”の群れが、次の瞬間には錐揉み回転しながら宙を舞う。
幸い、その“獣”は血と臓物を内蔵する生物ではなく、機能を維持するのが困難となるだけのダメージを受けると霞のように消え去る生物型の魔力の塊であるため、そこまで陰惨な光景とはなっていない。しかし、校舎の至る所に穿ったかのような凹みが刻まれており、無事な窓ガラスは周囲に一枚もない。
三俣が見ている間にも、“獣”の群れは絶え間なく“嵐”の中心に爪牙を突き立てんと躍り掛かってはいるものの、何らの成果を上げることもなく、その数を見る見るうちに減らしている。
(戦術がない。連携もない。非効率極まりない。
もってあと数十秒かな、これは)
当時の《無貌》の男の状況からして、これはそもそも一時の足止め以上の意味合いはなかったのだろうが、戦況はあまりにも一方的である。
(いや、数分は持つかもしれない)
そして、先程から“災害現場”を目視できる位置で待機していた一つの影が、“獣”の数が減り、射線が確保されたこのタイミングで動き出す。
(だから、そこにもう数分追加してあげようか)
三俣は、校舎の見取り図を取り出すと、しばらく“嵐”をその場に留めるべく、静かに複数の線を引き始めた。




