マイナスを内包する一であっても
2036年5月28日午後7時12分
「……これは。死んだか――鵲」
枯れ果てた、ガラガラな声が響く。
これが本当に自分の声かと、男は自嘲気味に思う。
男は仰臥していたベッドから起き上がろうとして、失敗した。
それほどまでに筋力が衰えており、起き上がるという行動はおろか、寝返りを打つことすらままならなかった。
目線を自分の腕に移すと、ほとんど骨と皮だけになった細い腕に点滴の管が刺さっている。
「これが、今の俺か」
「そう、君は私に生かされている状態だ」
その声は、頭の上の方から聞こえてきた。
「誰だ」
「医者だよ」
「そうか。なぜここにいる」
「君が目覚めると思ってね」
「ここはどこだ」
「浅木大学付属病院」
「何年眠っていた」
「私の知る限り、約三年」
「なるほど、あれから、三年か……」
そこで男は言葉を切ると、静かに呼吸を整え始める。
「驚いた。もうそれだけの魔力を精製できるのかい」
男の上体は、いつの間にか起き上がっていた。
寝返りもうてなかったはずの身体を魔力で補強し、強引に身体を起こしたのだ。水無月たちが行っていた魔力操作――競技でいうところの『装甲』と『遠投』の要領である。
「飯だ。食料を持ってこい」
「胃が受け付けるとは思わないけどね」
男は、自らの腕に刺さっていた管を無造作に引き抜いた。
「他人の定規で俺を測るな」
「生憎、ここはレストランじゃなくてね」
「なんでもいい。それこそ、貴様の肉でも構わんのだぞ?」
「……冗談じゃないみたいだね」
壮年の医師は肩を竦め、ナースコールのスイッチを押した。
「何か、食べ物を持ってきてくれ。私が食われないように、食いでのあるやつを頼むよ」
医師はスピーカー越しに看護師に声をかける。
「俺が目覚め、貴様がそれを知っていたということは、鵲は自ら死を選んだのか?」
「あぁ、まぁ、そうだね」
「馬鹿なことを」
男は忌々しげに吐き捨てる。
「そして、貴様もいいのか? この俺を生かすなど。俺が誰か、知らんはずはあるまい」
「なに、目の前で死にかけている人がいて、それを私が救えるのならば、それほど医者冥利に尽きることはないとは思わんかね?」
「貴様が救った者が、何人殺そうとも、か?」
「生憎だが、解剖は請け負ってなくてね。死人は管轄じゃないんだ。生きた状態で連れてきてくれよ」
「……」
「足し算と引き算じゃあないんだ。差し引き何人救えたかに興味はないよ。
例えばの話だが、さっき君が言ったように私が命を救った者が二人の人間を殺めたとする。私が一人を救わなければ二人は死ななかっただろう。
だけど考えてみたまえよ。その二人が実は放っておけば将来二人ずつ殺した可能性があったとする。そうなれば、私は一人を救って二人を殺したが、四人を救ったから差し引きではプラスだとなるのかね?
馬鹿馬鹿しい。さらに救った見知らぬ四人が何人救い、何人殺すかもわからないのに? 直接殺さずとも、人と人は関係しあっているんだ。何が救いになり、何が止めになるかなんてわかるわけがない。そうであれば、最終的にそれがプラスとなるかマイナスとなるかなんて誰にも分からないだろう?
だから私は目の前の一を摂ることにしているんだよ、どんな状況でもね。そうすれば、確実に一は助けられるわけだからね」
「……どれだけのマイナスの可能性を内包していても一は一か。参考になった」
男は目の前の医師を一瞥し、そして起こした上体を倒して再びベッドに横になった。
「よかろう。もうしばらく、ここで世話になってやる。どうやら貴様には、結果を受け入れる覚悟があるようだ」
「それはよかった。実のところ、今、君に出て行かれると困るところだったんだ。まだ準備が整っていなくてね」
「準備だと?」
「主に政治的な問題だ。ここに君がいることは、ほとんどの理事は知らないんだ」
「構わん。面倒ごとは任せる。俺もまずは外の情報が欲しいと思っていたところだ。この三年で何が変わったかは確認しておいても損はあるまい」
「そうだな。私から言えることがあるとすれば、君は公式には行方不明となっている。誰も君の足取りは追えていないはずだ」
「鵲の仕業か」
「そうだとも」
「手際のいい男だ。つくづく惜しい」
そのとき、病室の扉が開く。看護師が食事を運んできた。
「まぁ、しっかりと食べてくれ。胃が受け付けるのならね」
「言っただろう。問題ない」
男はそのままパンと肉を口に運び、咀嚼し、胃に流し込んでいく。
二口目の前に一瞬、手が止まったものの、その後は徐々に食べ進める速度が上がり、すぐに用意された食事を完食した。
「次だ。あぁ、まったく足りんぞ。まずはこの痩せ細った体を元に戻さねば」
「あのー、先生」
「患者の要望だ。聞き入れてあげなさい。本来、医者なら止めるべきなんだが、彼は常人ではないらしいからね」
「はぁ……」
指示を受けた看護師は生返事をしながら部屋を出ていく。
「そうだ、君がまともに私と会話できるうちに訊いておきたいことがあったんだ」
「許す。どのみち、魔力が回復すれば俺はすぐに正気を失う」
「君の望みは、なんだい?」
「なに……?」
そこで男は初めて、意外そうな表情を浮かべた。壮年の医師の問いは、それほどまでに突飛なものだったのだ。
だが、医師は柔和な笑みを浮かべ、再度同じ質問を重ねる。
「君自身の望みさ。そう、君の願いだ。私はそれを聞いておきたい」
「……くくく、はははは。なるほど、面白い。貴様、俺の望みだと? 俺を哀れにでも思ったか。貴様に救いを求めるとでも思ったのか。だが、残念ながら違う。俺の望みは、俺が俺であることではなく、俺が俺でなくなることだ。可能ならば、二度と正気には戻りたくない。
――それが、俺の望みだ。俺に目的などない。目の前をただ従え、君臨するだけだ」
「そうかい。では、もう一つ。――赤石はどこだい?」
医師の問いかけに、男は一瞬考える素振りを見せ、言葉を吐き出した。
「貴様、あんなものに興味があるのか?」
「私は魔術師じゃないから、あの石を使うことはできない。だが、気にはなるさ。不可逆を可逆にする力――といわれてしまえばね」
「ふん。一度きりの奇跡の願望機。そんなものが実在すると? 本気でそう思うのか?」
「赤石は実在する。それは万能の願望機でこそないが、奇跡を起こす存在ではある。私は、むしろ、その中途半端な奇跡こそが鍵だと思うのだよ」
医師の言葉を吟味するように熟考した男は、やがて口を開いた。
「――――鵲だ。俺の知る限り、最後にあれを手にしたのは奴だ」
「そうか、やはりか」
「当然だろう。あの男が敗北する姿など、見たことがない」
「それは買いかぶりだ。彼とて無敗ではいられないさ。現に、彼は死んでしまった」
「ふん、貴様こそわかっていないな。奴にとって命を落とすことなど、単なる目指すべき勝利への軌跡にすぎない。自ら選んだということなら、尚更だ。奴は最高の結果以外を認めない。必要があるから死んだのだ。それは、敗北とは程遠い」
「そうかね。私は死を忌避する。それが自分であれ、他人であれ。言っただろう? 足し算や引き算じゃあないんだ」
「ふん、そういう貴様自身が、最も数字に拘っているように見えるがな」
「痛いところを突く。否定はできない」
そう言って医師は苦笑した。
「それでは、私はそろそろお暇しようか。これでも忙しい身でね。今日はもう一人、賓客が『運ばれて』来る予定なのさ」
「そうか。ところで、気になっていることがある。一つ問いに答えろ」
「何だい?」
「ここには監視カメラがついているか?」
「ついているね」
「常時監視している者は?」
「いないよ、そんな暇人」
「ならば、数が合わんな」
「数?」
「視線の数だ。この俺を見る不躾な視線がある。いや、この目は俯瞰している。俺を直接視ているわけではない。だが、見えている」
「……君が言うなら事実なんだろう。だが、この病院の全体を俯瞰するとなると――」
「違うぞ。この視線が見ているのは、もっと広い範囲だ。浅木――あるいは、日本全土を見ている?」
「そんな大規模な術式は聞いたことがないがね」
「なんにせよ、気になる。三年前にはこんな視線はなかった」
「もしかして、それは君の気分を害するものかい?」
「あぁ、俺が順調に回復し、正気を失ったとき、この視線に気付けば我慢はしないだろう」
「八つ当たりは勘弁してもらいたいんだけどね」
「ならば、原因を探ることだ。時間はないぞ」
扉が開き、次の食事が運ばれてくる。
「そっちは私も探ってみるとしよう。君は存分に食事を続けたまえ」
医師はそう言って、静かに部屋を立ち去った。
「そういえば、鵲が死んだ今、奴は何をしている? 探ってみるか。――天乃、慎」




