記憶喪失
2036年5月29日午前3時11分
その少年が目を覚ましたのは夜中であった。
胸に疼痛を覚えたが,もちろんそこに穴が開いているということはない。
心臓も無事に動いている。
なぜそんなことを考えたのか不思議に思ったのだが,そんなことよりも1つ重大な問題があった。
いや,本質的には1つなのだが,細かく見れば問題は1つではなかった。
まず1つ目,なぜかこの部屋の窓が大きく割れていた。
破片が内側に入ってきていることから外から内側に衝撃が加わって割れたものと思われる。
次に2つ目,窓が割れたときの音で目を覚まさなかったのかという大きな疑問。
それとも窓が割れていることを承知で眠っていたのか。
そして3つ目,このベッドの足元で眠る赤い和服の10歳くらいの金髪少女は何者かということ。
最後に根本的な問題として,ここはどこで自分はいったい誰なのかということ。
しかし,しばらくの混乱の後,ここはどこか,という疑問はおよその見当がついた。
自分の格好が病衣であること,部屋には生活臭がするものが存在しないことなどから,ここは病院の個室ではないかという結論に至った。
ただ,そのほかの疑問には答えが出ない。そもそも,仮に病院だとしたら窓が割れるような音がしたのなら誰かが様子を見に来るのではないかとも思ったが,そのようなこともない。
少年がこのままもう一度眠ってしまうかという緊張感に欠けた誘惑に取りつかれそうになったとき,足元の少女の赤色の目が開き,こちらを観察していることに気が付いた。
「お,はよう?」
少年はとりあえず通じるかわからないが日本語で挨拶することにした。
そして,自分の声がひどく枯れていることに気付いた。
まるでしばらく会話をしていなかったかのようである。
「おはよう?
おはよう,のう。
そなた,今がそのような挨拶をする時間に見えるのか?」
予想に反し,見た目とはずいぶんギャップがある話し方だった(しかも流暢だった)が,少年はとりあえず言葉が通じることに安堵した。
「えっと,なんか寝てたみたいだから」
「そうか。
今日は散々だったからのぅ。何度死んだかわからん。
何が,『こういうものは侵入の方が難しくて脱出はゆるいものだよ』,じゃ。
脱出も難しかったではないか」
少女は恨みがましい目をこちらに向けてくるが当然心当たりなどない。
(何度も死んだ?
ゲームとかの話か?
いや,まずは状況の把握からだろう。)
「その……実は記憶が全くなくって。
困ってたんだけど,何かわかることがあったら教えてくれないかな?」
「記憶がない,か。
想定されていたことではあるが,面倒じゃな。
その辺はわっちの管轄外じゃて。
医者の世話にでもなるがよいわ。
とにかく,わっちはわっちの用事を済ませる」
少女はそういうとベッドに上がり蠱惑的な表情で足元から少年ににじり寄っていく。
「えっと,何かな?
嫌な予感しかしないけど」
「まずは失った魔力を補充する必要がある。
眠っておるうちに済ませてもよかったのじゃが。
それでは途中に起きたときに説明が面倒じゃと思ってな。
起きるのを待っておったのじゃよ。
――率直に言うとな,わっちは,空腹なのじゃよ」
にじり寄る少女の歯が少年の首筋に突き立てられる。
少女の歯はあっさりと少年の首筋に穴を穿つ。
少年は大した抵抗もできないうちに血液と共に大量の『何か』を失っていく。
少年を猛烈な虚脱感が襲う。
「――――――――――」
何かを叫んだ気がしたがその音は喉を通り過ぎると消えていく。
(そうか,窓が割れた音がしなかった理由は,きっとこれだ。)
少年の冷静な部分が状況を俯瞰し,思考している。
少年は純粋にそのことが気持ち悪いと感じた。
だが,思考は止まらない。
(だが,音が消える仕組みは?
この振動か?)
(いや,今はいい。
問題はこのまま少女に殺されるのか否かだ。)
(見た目より腕力がある。
虚脱感も相俟って既に力づくでどかすという選択肢はない。)
(少女は起きるのを待っていたと言った。)
(ならば,食事の他にも用事があるのだ。)
(食事だけが目的ならばそれこそ眠っている間に食せばよい。)
(起きて誤解されると困るから起きるのを待っていたとも言った。)
(本当に?
だとすれば説明不足ではないか?)
(いや,ここは楽観的に空腹だったという言葉を信じよう。)
(こちらの事情を斟酌できないほどに彼女は空腹だったのだ。)
(彼女に他の目的があるとすればそれは何だ。)
(想定不能。状況が特殊すぎる。)
(そもそも彼女は何をしている。)
(吸血鬼――思い浮かぶのはこれしかない。)
(実在するのか。そのようなものが。)
(実在すると仮定しよう。伝承はどの程度当てはまる?)
(太陽に弱いのか。聖水を,十字架を恐れるのか。)
(吸血鬼は招かれない家には入れないのではなかったか?)
(そもそも,吸血鬼に音を消すという伝承はあったか?)
(わからない。そこまで詳しいわけではないが,記憶にはない。)
(いや,そもそも記憶がない。どうなっている。)
(思考がまとまらない。血を失いすぎたか。)
少年が意識を失いかけたころ,少女はようやく吸血行為をやめる。
少年の首筋に残った歯型はまるで映像を逆再生するかのように塞がって消えていく。
「おっと,忘れんうちにこっちもな」
少女が割れた窓に指を向けると床に散らばった破片が宙に浮かび,こちらも映像を逆再生するように窓を塞いでいく。
「いや,すまん。
興が乗ってつい喰いすぎたようじゃ。
まだ意識はあるかの?」
少女が気づかわしげに指でツンツンと少年の頬をつつく。
「か,かろうじて」
思考の海から解放された少年は何とか意識を現実に切り替える。
「そうか,それは重畳。
まだ,そなたにはやってもらうことがあるのじゃ」
そういって少女は和服の袖よりリボンを取り出す。
「これでわっちの髪を結うのじゃ。
どんな形でも構わん」
少年にリボンを渡し,少女は心なしか上機嫌に少年に背を向けて少年の太股付近の上に座り直す。
少年はリボンを手に倦怠感と共に途方に暮れていたが,いざ手を動かしてみると初めからそうすることが決まっていたかのように手が動く。
そして,少女の髪は元通りに結い直される。
すると,毛先から根元にかけて金色の光が失われていき,漆黒の闇のような黒髪が現れる。
振り返った少女の顔は典型的な東洋人風の顔となっていた。
その人工的に整えられたかのような見た目は,和装も相俟って,表現するのであれば,まるで人形のようなという形容がつくであろうか。
少年はもはや驚愕することに疲れたのか,失血の虚脱感から思考することを放棄したのか,彼女はそういうモノだということで無理やり納得することにした。
「ほう,上書きは無事済んだようじゃの。
さて,わっちの用件は終わりじゃ。
いや,厳密にはもう一つあるのじゃが,それは後日としよう。
質問があるなら答えるが,そなたがもう持つまい。
ちと,もらいすぎたからの」
ほとんど無表情だが雰囲気だけは楽しそうにそういう少女に向かって,少年はこう尋ねるのが精一杯だった。
「誰……なんだ?」
「この姿のときには,英莉と名乗っておる。
名字は状況に応じて天乃だったり,夜歩だったり,百目鬼を名乗ったこともある。
まぁ,さまざまじゃな。決まったものはない。
それとも,誰,とはそなたのことか?
そうであれば,そなたは天乃慎に相違あるまい」
「天乃,慎」
それだけ聞いた少年――天乃慎は,糸が切れた人形のように崩れ落ち,眠りに落ちた。
「そうじゃとも,そなたが天乃慎に相違ない。
これで世は全て事もなし,何一つ欠けてない盤面の出来上がりじゃとも」
表情の変わらない人形のような少女はそう呟くと,
「さて,どうやってこの病院を脱出したものか?」
病院からの脱出方法に頭を悩ませるのだった。