儀式
2036年5月28日午後6時53分
「さて,準備はできたかな? 天乃慎君」
アロハシャツのような派手な薄手のシャツに短パン,サンダルという非常にラフな格好の40代くらいの中年男性が『天乃慎』と呼ばれた少年に呼びかける。
『天乃慎』と呼ばれた少年の格好は,この特区――浅木区にある国立大学法人浅木大学付属第三高等学校指定の学生服姿であった。
そして,彼の足元には10歳くらいの人形のように整った見た目の幼い少女が,少年――天乃慎の脚を背もたれにして,二人の会話には興味なさげにこの区間のフロアの床にぺたんと座っていた。
その少女は赤い着物を羽織っており,その髪型はサイドテールで,その黒髪の根元は薄い黄色のリボンで結ばれている。
「なんか,いろいろ知った後だと何とも言えない感情になるな」
天乃慎は,質問には答えずにそう返す。
「はっはは,それはお互い様さ。
でも,僕はこのスタンスで行かせてもらうよ。
さんざんいろいろあったけどね。
こればっかりは僕の落ち度だ。
予想しておくべきことだった」
中年男性はあくまでも軽薄に,飄々と,感情を隠すように言い放つ。
「まぁ,そうだな。今更って感じもするから,手っ取り早くいこう。
オレの準備なら問題ない。
むしろそっちの手抜かりがないかが気がかりだ」
「もう根回しは済んでいるさ。
後は君と彼次第だ」
「彼ねぇ。
そっちはちゃんと機能するのか?」
「言ったでしょ。
彼次第さ」
訝しげに尋ねる天乃慎に,あくまで飄々と答える中年男性。
「もう確認はよいじゃろ。
一番大変なのはわっちなんじゃ。
さっさと始めんかい」
天乃慎に寄りかかっていた黒髪の少女は,その容姿に似つかわしくない口調で二人に不満をぶつける。
もっとも,その表情は無表情からほとんど変化しておらず感情の起伏が読み取り難い。
「だいたい,わっちらは今ここまで侵入してきておるのじゃ。
いわば敵地じゃぞ。
そこで呑気に会話なんぞしおって,まったく。
その度胸はわっちも見習いものじゃな」
「はっはは,これは悪いねぇ。
ついつい愉快に話が弾んじゃってね」
「いや,そんな愉快な雰囲気ではなかったろ。
まぁ,悪かった。
無駄口を叩いたのは主にオレの方だ」
「わかったならよい。
まぁ,いくら主殿でも無駄口を叩きたくなる気持ちはわからんではないのだがな。
経験済みのわっちから言わせればあんなもんは大したもんではないぞ。
では,とっととぎしきとやらを始めてくれ」
ほぼ真顔の赤い着物姿の少女に叱られた2人は,大人しく会話しながらフロアの床に描いていた魔方陣の上に移動する。
「いやぁ,この歳になってこんな小さな娘に叱られることになるとは思わなかったよ。
はっはは」
「まぁ,普段はここまで不機嫌じゃねぇんだがな。
今回はちょっと損な役回りで気が立ってんだろ。
っつうか大したもんじゃねぇとか……改めて常識の違いを感じる」
「じぃぃぃぃぃぃぃ――」
雑談を再開した2人を再び不機嫌そうな眼(それでも表情の変化は乏しい)で見つめる少女にさすがに苦笑しながら,そのフロアにあるひときわ大きな門を背に儀式は始まる。
そう,運命を変える儀式が――
「えーっと。なんだっけ。たしか。
『我は選ばれし十三人が内の一人。
仲介を業と為す者。
今宵条件は成就する。
隠された四つ目の法則に従い,我が駒を天上へと導け
――成り上がり』
……だっけ」
「なんだその適当さ。
棒読みだし,そんなのでいいのか?
っていうか不安しかねぇんだけど」
「いいはずだよ。
根回しは済んだって言ったでしょ。
陣だって反応しているし,あとは条件成就だけさ。
勝算はどうだい?」
中年男性の言う通り,白のチョークで描かれた陣はどれだけ足先で擦ろうとももはや消えることはなかった。
「勝てない戦いは,勝たない。
来い,エリザベート」
「ようやくわっちの出番か」
その東洋人のような容姿には全く似つかわしくない西洋風の名前で呼ばれた少女が魔方陣の中に入り,天乃の傍までやってくる。
そして,背伸びするようにつま先立ちになり,目をつむる。
天乃はそのまま少女の顔に手を近づけると,そのまま少女の髪を結わえていたリボンをほどく。
少女はそのリボンを天乃から受け取り,袖の中に仕舞い込む。
すると,少女の黒髪が根元から金色に変化していき,顔だちも西洋風という形容がふさわしいものに変化していく。
瞬きをするほどの時間のうちに,少女の容姿は,服装こそ和服であったが,エリザベートという名がむしろしっくりくるものと変貌する。
見開かれた眼の色は金色であり,発光しているようにもみえる。
「あぁぁ,この感覚も久々じゃぁ。
では,ぎしきの締めと往こうかのぅ」
無表情だった人形のような容姿のときでは考えられないほど残忍な笑みを浮かべた少女は,瞬く間にトンという擬音が似合うような軽い手つきで左右の手を二人の男の左胸付近に突き入れる。
「――っがは。
な,に,してやがる,エリ,ザ,ベート……。
こ,こで,死,ぬのは,オレだけ,の,はずだ,ろ?」
天乃の表情が苦痛とともに驚愕に彩られる。
その疑問の答えは,同じく胸元を拳で突き破られている中年男性から返される。
「はっは,は。
僕が頼んでおいたのさ。
知らなかったかな?
『坐』の交代は旧神の,死によって生じる事象なのだよ」
中年男性の方は多少苦しそうに呼吸しているものの,飄々とした態度は崩れない。
「らしいぞ。
この男が最期まで黙ってろというのでな。
興が乗った故,黙っておった」
エリザベートは興が乗ったという割には不服そうに天乃に告げる。
「そ,かい。お優しい,ことで。
なぁ,割と,痛,いんで,早めに,頼むわ。
あと,カササギ,お前には,絶対,仕返し,してやる」
「はっはは。期待しているよ。
天乃く――」
そう中年男性――カササギが言い終らぬうちに,エリザベートは両手でそれぞれの心臓を勢いよく掴みだす。
周囲に血の雨が降り,むせかえるような鉄臭い香りが周囲に漂う。
エリザベートの全身も血の色に染まるが,床に落ちた血は白のチョークで描かれた魔方陣を赤黒く染めるように規則的に移動するだけで周囲に広がったりはしない。
エリザベートが血の匂いに恍惚とした表情を浮かべ,手や口の周りについた血を舌で舐め取っているうちに,二人分の死体は魔方陣が食べ終わっていた。
「さて,と。
どうやってここから脱出したものか」
全身の皮膚から体と服に付着した血を吸い取りながら,エリザベートは独り言ちる。
もはやここには隠せないほどの血の臭いと血の色をした魔方陣以外に,2人の男がいたという痕跡はなくなってしまっていた。
「うむ,やはり,事前の打ち合わせ通り,強行突破しかないかの。
上質な魔力をちょうど喰ったばかりじゃしのぉ」
上機嫌に大きな笑みを浮かべた少女は,そのまま来た道をまっすぐに突破することにする。
ちらりと魔方陣を振り返ると,そこにはもう血の色をした魔方陣は失くなっていた。
「これは上手くいったのかのぅ?
わざわざ,異界に最も近い場所を選んだ甲斐はあったかの。
とはいえ,死ぬときは案外あっけないもんじゃし,死んどるかもな。
――いや,ないな。
パスが切れておらん。
ということは,奴隷生活続行ということか。
やれやれ,世話のかかる主人じゃな」
活動報告にも書きましたが,作中の疑問,質問について募集しています。
これから読んでいくなかででこの部分がわからない,などありましたら,今後の展開に関わらない限り,答えていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。