#030『水鏡に映る空』
『水鏡に映る空』
1
新宿の喧騒は、深夜になっても決して死に絶えることはない。
遠くで鳴り響くサイレンの音。湿ったアスファルトを滑るタイヤの摩擦音。それらが小さな庭の木々を揺らす秋の風に混じって、築五十年の古い木造平屋に忍び込んでくる。
私は橘咲。
少しささくれた古い畳の上に直に座り込んだ私の身体は、重い泥の塊のように沈み込んでいた。
カフェでの八時間のシフトを終えた肉体は、足の裏からふくらはぎ、そして腰にかけて、鈍い疲労の澱を溜め込んでいる。外出着から着替えたスウェットの肌触りと、藺草の懐かしい匂いだけが、今の私に残されたわずかな慰めだった。
部屋の空気はひどく雑多で、生々しい匂いに満ちている。
襖一枚で仕切られただけの曖昧な空間には、私の髪から微かに漂う甘ったるいバニラのヘアオイルの匂いと、目の前のちゃぶ台に置かれた缶コーヒーの焦げたロースト香。そして、もう一人の住人が持ち帰ってくる乾いた粘土の匂い。それらが古い木造家屋特有の湿った木の匂いと混ざり合って、濃密に停滞している。
私は小さく息を吐き、冷え切った両手でスチール製の缶コーヒーを包み込んだ。
ひんやりとした金属の感触が、洗い物と段ボールの解体で微かにひび割れた私の指先に触れる。カサカサとした自分の皮膚の感覚を確かめながら、私はその縁に唇を当て、黒い液体を喉の奥へと流し込んだ。
——苦い。そして、ひどく泥臭い。
舌の根にへばりつくような、安っぽいコーヒーエキスのエグみ。本来のコーヒー豆が持つふくよかな果実味や透き通るような酸味など微塵もない。ただ目を覚まさせるためだけに作られた、暴力的なまでの苦味の塊。
カフェでハンドドリップの淹れ方を教わり、本当に美味しい琥珀色の抽出液の味を知ってしまった今の私にとって、この百三十円の缶コーヒーは、控えめに言っても不味かった。
それでも、私は隣に置いたビニール袋から、平べったいあんパンを取り出し、無造作に齧り付く。
パサパサとした生地の中から、頭が痛くなるほど甘いこしあんが顔を出す。口内の水分を根こそぎ奪っていくそのジャンクな甘さを、泥水のように苦い缶コーヒーで強引に胃へと流し込む。
「……ふぅ」
決して美味しいわけではない。だけど、強烈な砂糖の甘さと人工的な苦味が胃袋の中で混ざり合った瞬間、私の体には確かな「熱」が灯る。血が巡り、細胞が目覚める。自分が今、自らの力で生命を維持しているのだという、圧倒的なまでの生の実感が湧き上がってくるのだ。
ふと、脳裏に「完璧な黄色いオムレツ」の残像がフラッシュバックした。
実家の、チリ一つ落ちていない無菌室のようなダイニングテーブル。
有名進学校の制服を着た私の前に毎朝置かれていた、焦げ目一つない、定規で測ったように左右対称の美しいオムレツ。最高級のバターの香りが漂うそれは、母親の再婚相手である義父の、冷徹な完璧主義と、「私の定めた理想の枠から外れるな」という無言の支配の結晶だった。
あのオムレツを口に運ぶたび、私は自分の内臓が冷たいコンクリートで埋め尽くされていくような感覚に陥っていた。味を感じたことなど一度もない。あれは食事ではなく、私を縛り付けるための美しい鎖だった。
だからこそ、私はこの泥水のようなコーヒーとあんパンを食べる。
完璧なものなど何一つない、不格好で泥臭くて、底辺を這いずるようなこのジャンクな味が、私には必要なのだ。
ガラガラッ。
不意に、玄関の重い木枠の引き戸が軋みながら開く音がした。
「ただいまー」
土間で靴を脱ぐ音に続いて、少しハスキーで、少年のような無防備さを持った声が響く。ツーッ、と襖が軽い音を立てて横に滑り、彼女が姿を現した。
私の同居人であるナナ。彼女の縁故でこの新宿の古い一戸建てを借り受けている、この家の主だ。
私は口の中のあんパンを飲み込み、振り返った。
「おかえり、ナナっち」
襖の敷居の前に立つ彼女の姿は、いつ見ても脳の処理が追いつかなくなるほどの強烈な矛盾を孕んでいた。
今日の彼女は、淡いピンクベージュのシフォンブラウスに、幾重にも重なったチュールのスカートという、どこぞの令嬢かと思うような凄まじくガーリーな装いだった。
黒曜石のように澄んだ大きな瞳と透き通るような白い肌。彼女の美貌には、その甘く女の子らしい服が恐ろしいほど似合っている。街を歩けば、誰もが振り返るような完璧な「美少女」だ。
しかし——。
そのふんわりと巻かれた美しい髪には、雪のように真っ白な石膏の粉がべったりと付着し、フリルがたっぷりとあしらわれたブラウスの袖口には、乾いてひび割れた灰色の粘土が無残にこびりついていた。
チュールスカートの裾にいたっては、泥水を被ったのか、黒々とした染みがいくつも点在している。
普通なら、泣きたくなるほどお気に入りの服が台無しになった状態だし、世間の目が気になって外など歩けないはずだ。けれど彼女はそんなことなど、最初から私の部屋の壁紙ほどにも気にかけていない。
ドサリ、と重そうなキャンバス地のトートバッグを畳の上に放り投げる。バサーッと、目に見えない白い粉が薄暗い蛍光灯の光の中に舞い散った。
「あー、疲れた。今日も空間と格闘してきたよ」
ナナっちは着替えることすらせず、粉だらけの服のまま、私の向かいにペタンと座り込んだ。その無頓着な姿を見るたび、私の脳裏には、過去に一度だけ足を踏み入れたあの落合の元工場の光景がフラッシュバックする。
むせ返るような埃と接着剤の匂い。高く薄暗い天井。飛び交うグラインダーの火花と、自分の何倍もある巨大な空間や質量に対し、泥まみれになって狂気的に挑み続ける若者たちの圧倒的な熱量。
私はあの時、底知れないアートの世界の深淵と、ナナっちが生きている「次元の違い」を思い知らされた。自分には到底足を踏み入れることのできない不可侵の聖域。それ以来、私は二度とあの場所へは行っていない。
だからこそ、彼女が戦場からこの古い新宿の家に帰還し、泥だらけの鎧を纏ったまま無防備に笑うこの瞬間が、私には何よりも尊いものに思えた。
進学校の無菌室にいた頃の私なら、二十歳の、しかも息を呑むほど美しい年上の彼女を「ナナさん」あるいは「先輩」と呼び、決して踏み込んではいけない一線を引いて接していただろう。
けれど、私は彼女を「ナナっち」と呼ぶ。
それは、あの息の詰まる家を捨てた私の、小さな決意の表れだった。他人の目や上下関係、社会のルールという綺麗事のヴェールを脱ぎ捨て、同じこの底辺の家で、泥まみれになりながら生きている同志としての、私なりの親しみの証。
「ナナっち、また服が大変なことになってるよ。そのブラウス、こないだ買ったばっかりのお気に入りじゃなかった?」
「ん? ああ、これね」
彼女は自分の袖口にこびりついた粘土の塊を、無頓着に指で弾き飛ばした。ポロリと床に落ちた粘土を一瞥し、ケラケラと無邪気に笑う。
「今日、作業用のジャージ忘れちゃったの。最初は汚れないように気をつけてたんだけどね。作り始めるとさ、そういうの全部どうでもよくなっちゃうんだよね。可愛い服も好きだけど、それより、目の前の空間に自分の手で形を引っ張り出すほうが、ずっと大事だからさ。ま、洗えば落ちるっしょ」
その突き抜けた純粋さに、私は思わずため息をつきながらも、微かに口元を綻ばせた。
彼女は、すべてを壊してでも「生きた形」を創り出そうとする狂気の人だ。社会的な羞恥心も、少女としての体裁も、泥や石膏をこねるその瞬間には完全に消滅する。その圧倒的な野生の美しさが、私にはひどく眩しかった。
ふと、ナナっちの黒い瞳が、私の手元に向けられた。
ちゃぶ台の上の缶コーヒーと食べかけのあんパン。
「……咲、またそれ食べてるの?」
彼女は少し呆れたような声で言った。けれど、それは決して私を見下すわけでも哀れむわけでもない。
「カフェで働いてるんだから、もっと美味しい賄いとか、綺麗なもの食べればいいのに。相変わらず変なところで頑固だねぇ」
私は残っていた缶コーヒーをぐいと飲み干し、缶をコトンとテーブルに置いた。
「美味しいものを食べるために、これを選んでるわけじゃないから」
「じゃあ、なんで?」
窓の外で、遠くの踏切が微かに鳴り始めた。
カン、カン、カン、という規則的な音が、夜の静寂に溶けていく。
私は少しだけ伏し目がちになる。自分の膝の上で、荒れた両手をぎゅっと握りしめた。
「……これが、私の原点なんだよね」
静かな私の声が、部屋の空気に吸い込まれる。
ナナっちはそれ以上何も聞かず、ただ真っ直ぐに私を見つめていた。その瞳は、泥だらけの人間が抱える体温を、ありのままに受け止める優しさに満ちていた。
彼女のその沈黙が引き金となった。
私の意識は、目の前の現実から急速に乖離し、あの冷たい記憶の底へと引きずり込まれていく。
——二月。骨の髄まで凍りつくような、冷たい北風が吹き荒れる夜だった。
私はコートも羽織らず、薄いニット一枚の姿で、狂ったようにアスファルトを走っていた。 背中から、母親のヒステリックな叫び声が聞こえた気がしたが、振り返ることはなかった。
ただ、肺が千切れるほどに冷たい空気を吸い込み、吐き出しながら、自分の足で前へ前へと進むことだけを考えていた。
逃げなければ。
あのまま、あのテーブルに座って、あの「完璧な黄色いオムレツ」を胃に流し込み続けていたら、私は確実に狂っていた。
愛情という名の暴力。私の意志など存在しない、ただ「理想の娘」という形に押し込められるだけの毎日。ダイニングテーブルの上の、冷え切った沈黙。
すべてが嫌だった。すべてを壊したかった。
どれくらい走っただろうか。 喉から血の味がし始め、足がもつれて転びそうになった時、私は煌々と青白い光を放つ自動販売機の前で立ち止まった。
深夜の住宅街。人気は全くない。
北風が容赦なく体温を奪い、私の身体はガタガタと制御不能なほどに震えていた。
握りしめていた手を見る。家を出る瞬間、部屋の棚から無意識に掴み取ってきたポーチがあった。
中には、くしゃくしゃになった千円札が数枚と、小銭が少し。そして、底の方には、土木作業の現場監督をしていた父から貰った軍手が入っていた。
私は震える手で小銭を取り出し、自動販売機に投入した。
ガコンッ。
鈍い音を立てて落ちてきたのは、一番安くて、一番パッケージがダサい、見知らぬメーカーの缶コーヒーだった。
父が、現場の帰りにいつも飲んでいたのと同じもの。母親が「そんな体に悪い泥水みたいなもの、家の中で飲まないでちょうだい」と眉をひそめていた、あのコーヒー。
私はそれを取り出し、凍りついた両手で握りしめた。
熱い。
缶の表面から伝わる嘘みたいな熱さが、氷のようになっていた私の手のひらを、無理やり現実に引き戻した。
近くの二十四時間営業の小さなスーパーの明かりが見えた。
私はふらつく足で店内に入り、握りしめていた百円玉で、一番安いあんパンを一つだけ買った。
店員の怪訝な視線が突き刺さったが、どうでもよかった。
スーパーの裏手にある、暗い公園のベンチに座る。
寒さで指がうまく動かない。それでも、私はプルトップに爪を引っ掛け、力任せに開けた。 プシュッ、という音と共に、焦げた匂いが鼻をつく。
一口、飲む。
「……うっ」
あまりの不味さと苦さに、顔が歪んだ。
舌が痺れるような人工的な味。それは間違いなく、母が言う通りの「泥水」だった。
けれど、その熱い泥水が食道を通って胃に落ちた瞬間。ドクンと私の心臓が、これまでで一番大きな音を立てて脈打ったのだ。
震える手であんパンの袋を破り、齧りつく。冷たくてパサパサのパン。甘すぎる餡。
それを、苦いコーヒーで流し込む。美味しいとか、不味いとか、そんな次元の話ではなかった。
『私は今、自分の力で、自分の腹を満たしている』
ただその圧倒的な事実だけが、北風の吹き荒れる暗い公園で、私の全身の細胞を歓喜で打ち震わせていた。
誰かの期待に応えるためでも、誰かの理想の形になるためでもない。
ただ自分が「生き延びるため」だけに、この泥水を飲み、この不格好なパンを食らっている。
涙が溢れた。
寒さからでも、恐怖からでもない。
自分という輪郭を、初めて自分の手で掴み取ったような、痛切なまでの生の実感。
暗闇の中、一人ぼっちで泣きながら咀嚼したあのジャンクな味こそが、私の人生が初めて「私のもの」になった瞬間の味だった。
「……咲?」
ハスキーな声に呼ばれ、私はゆっくりと瞬きをした。深く沈み込んでいた意識が、静かに水面へと浮上してくる。視界のピントが合うと、天井からぶら下がる、傘のひび割れた蛍光灯の少し頼りない光が網膜に差し込んできた。
「あ……ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「大丈夫? 顔色、あんまり良くないよ。やっぱり立ち仕事は疲れるでしょ」
いつの間にか風呂から上がっていたナナっちが、大きめのグレーのスウェット姿で私の顔を覗き込んでいた。濡れた髪を無造作にタオルで拭きながら、少し心配そうに小首を傾げる。その拍子に、艶やかな黒髪からポタッと水滴が畳に落ちた。先ほどまでの石膏の匂いはすっかり消え去り、代わりに安っぽいフローラル系のシャンプーの香りが、襖を抜けて冷たい空気にふわりと混ざり込む。
「ううん、大丈夫」
私は微かに笑い、自分の両手を胸の前で眺めた。
あの二月の夜、寒さで真っ青になっていた手。今ではカフェでの水仕事や、重いコーヒー豆の入った段ボールを運ぶ作業のせいで、あちこちの皮が剥け、指先はカサカサに乾燥している。進学校の同級生たちが塗っているような、綺麗なネイルなど到底似合わない、無骨で荒れた手だ。
義父が支配するあの無菌室には絶対にふさわしくない、泥臭い労働の痕跡。
でも、私はこの手が好きだった。
泥水のようなコーヒーを飲み、この手で働き、自分の力で食い扶持を稼いでいる。脈打つ血管の奥には、確かな熱が通っている。
あれから数ヶ月。私は間違いなく、自分の足で立ち、生き延びてきたのだ。
「ねぇ咲、コーヒー飲みたい」
タオルを首にかけたまま、ナナっちが甘えたような声を出す。
「こんな時間に?」
「うん。だめ?」
何とも言えない可愛らしい上目遣いをして、ナナっちが私を見た。濡れた睫毛の奥にある大きな黒い瞳に射抜かれると、同性であってもドキリとしてしまう。一体これまで、何人の男をこの無自覚な魔性で虜にしてきたんだろう。
しかし、私は少しだけ口角を上げ、にべもなく断った。
「ダメ。こんな時間にカフェイン摂ったら眠れなくなるよ。明日はアトリエ、朝から行くんでしょ?」
「えー、大丈夫だよ〜」
「ダメだってば」
私はゆっくりと立ち上がり、小さな台所のシンクへと向かった。古いアルミの薬缶に水を張り、カチリとガスコンロのつまみを回す。青い炎がボッと音を立てて点火するのを確かめながら、私は振り返らずに言った。
「代わりにルイボスティー、淹れてあげる。身体、温まるから」
「やった。さすが咲だね。愛してる」
「はいはい。そういうのは、素敵な男性に言われたいな」
私のそっけない返しに、ナナっちはちゃぶ台に突っ伏しながらケラケラと笑い声を上げた。つられて、私も声を出して笑う。
薬缶の中で、少しずつお湯が沸き始める微かな音が響き始めた。外を走る車の音も、遠くのサイレンも、もうこの古い昭和の家を脅かすことはない。
こうして、今夜も私たちの泥臭くて温かい夜がはじまるのだった。
2
数日後。季節は確実に秋の深まりを見せ、冷たい長雨が新宿の街を灰色のグラデーションに染め上げていた。
私が働くカフェは大通りから一本路地に入った場所にある。
大きなガラス窓を雨粒が幾筋も滑り落ちていくのを、私はカウンターの内側から静かに見つめていた。厚いガラスに隔てられた外の世界は、行き交う人々の傘がせわしなく揺れ、タイヤが水を跳ね上げる音がくぐもって聞こえる。まるでそこだけが冷たい水底のようだった。
しかし、ドアを一枚隔てたこの店内は全く違う時間が流れている。
控えめな音量で流れるチェロとピアノのジャズ。オレンジ色がかったダウンライトの温かな光。そして何より、空間の隅々にまで満ちている、上質なコーヒーのロースト香。
エスプレッソマシンのボイラーが低い稼働音を立て、スチームワンドがミルクを温めるチチチという微かな音が、雨音と心地よく重なり合っていた。
「……はい、抽出完了っと」
私は手元のデジタルスケールから視線を上げ、ふぅ、と小さく息を吐いた。
ビーカーの中には、先ほどハンドドリップで淹れ終えたばかりの、透き通るような琥珀色の液体が揺れている。
今日のおすすめである、エチオピア産の浅煎り豆。
お湯を落とした瞬間に花開いた、ジャスミンのような華やかな香りと、柑橘系の爽やかな果実味が、湯気と共にふわりと私の鼻腔をくすぐった。
私はそれを温めておいた陶器のカップに静かに注いで、トレイに乗せた。
カウンターの照明に照らされたその一杯は、大げさではなく、液体の宝石のように美しかった。雑味がなく、温度管理から抽出時間、お湯の一滴の落とし方に至るまで、すべてが計算し尽くされた一杯。
私は自分の手元に視線を落とす。
スワンネックの細いケトルを握っていた私の手は、水仕事と段ボールの摩擦でカサつき、指の関節には小さな絆創膏が貼ってある。無骨でお世辞にも綺麗とは言えない手。
この荒れた手で、こんなにも美しくて繊細で澄み切った液体を創り出しているという事実が、時々ひどく不思議に思えた。
あの二月の夜。寒空の下、震える手で自動販売機から買った百三十円の缶コーヒー。あの焦げ臭くてエグみのある泥水。ただ生命をつなぐためだけに胃に流し込んだ、泥水のような液体。
今、私の目の前にあるこの琥珀色は、あれとは対極にあるものだ。
暴力的なまでの「生存」の味ではなく、心を豊かにするための「嗜好」の味。
ナナっちが、あの埃っぽい落合のシェアアトリエで、泥まみれになりながら美しい空間を創り出しているように。私もまた、この荒れた手で、この美しい一杯を創り出している。その事実が、私の胸の奥に小さな、けれど確かな誇りを灯していた。
カラン、コロン。
不意に、真鍮製のドアベルが澄んだ音を立てた。
「いらっしゃいませ」
私が顔を上げると、冷たい雨の匂いと共に一人の初老の男性が入ってきた。グレーのスーツの両肩は雨のせいであちこちが黒く染まり、手にしたビニール傘からはポタポタと水滴が落ちている。少し背中の丸まったその姿勢からは、隠しきれない疲労の澱のようなものが滲み出ていた。
「……ブレンド。ホットで」
「かしこまりました。お好きなお席へどうぞ。すぐにお持ちいたします」
男性は小さく頷くと、窓際の一番隅の席に力なく腰を下ろした。ふうっと深い、本当に深い、ため息を吐く。まるで、肺の中にある重たい鉛をすべて吐き出そうとするかのように。
私がブレンドの豆をグラインダーにかけようとした、その時だった。
カラン、コロン。
再びドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ……」
声をかけた私の言葉が、微かに止まる。
ドアの前に立っていたのは、雨合羽を脱ぎ、少し色褪せたネイビーの作業着姿の男性だった。年齢は五十代半ばくらいだろうか。日焼けした顔には深い皺が刻まれ、その手には、すっかり雨に濡れた軍手が握りしめられている。
そして彼の足元は、つま先の部分が泥で汚れた安全靴だった。
男性は店内の小綺麗な内装と、先客のスーツ姿の男性を交互に見比べ、ハッとしたように自分の足元へ視線を落とした。
「あ……いや。ごめん、ちょっと泥、ついてるから……やめとくわ」
彼は気まずそうに目を伏せ、引き戸の取っ手に手をかけようとした。
無意識に、私の身体は動いていた。
「お待ちください」
カウンターから身を乗り出すようにして、私は声を張った。自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
男性が、驚いたように私を見る。
「外、すごく冷えますよね。どうぞ、中へ入ってください。足元なんて、後で私がいくらでも掃除しますから」
「……でも、ここ、綺麗な店だし。俺みたいなのが入ったら、迷惑じゃ……」
「とんでもございません。温かいコーヒー、淹れさせてください」
私はできるだけ柔らかく、けれど絶対に帰さないという強い意志を込めて微笑んだ。
男性は少しだけ戸惑った後、「……わりぃな」と小さく呟き、入り口のマットで念入りに安全靴の裏を拭いてから、カウンターの端の席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。温かいおしぼりです、どうぞ」
私は分厚いタオル地のおしぼりを渡し、注文を聞いた。
「……じゃあ、一番濃いやつ。熱めで頼む」
「深煎りのフレンチローストですね。かしこまりました」
私は二人のお客さまのために、静かに準備を始める。
ドリッパーにペーパーフィルターをセットして、挽きたての粉を入れる。細口のケトルでお湯を注ぐと、粉がふわりとドーム状に膨らみ、濃厚な香りが立ち昇る。
シューッ、というお湯がコーヒーの粉の間に染み込んでいく微かな音。
雨の音。
ジャズの調べ。
私は息を詰め、意識のすべてをこの細いお湯の線に集中させる。
——この人たちは、戦っているんだ。
お湯を落としながら、私はふとそんなことを思った。
スーツの男性は、きっと理不尽な上司や容赦のない取引先、あるいは数字という見えない重圧と。作業着の男性は、この冷たい雨や、重い資材、危険と隣り合わせの現場と。
彼らは今、この雨の降る冷たい外の世界で、泥にまみれ、理不尽に耐え、自分の心と体をすり減らしながら戦っている。
それは、ナナっちがアトリエで空間と格闘しているのと同じ。私が深夜のスーパーで、震えながら缶コーヒーを握りしめたのと同じ。
生きるということは、どうしようもなく泥臭い戦いの連続なのだ。
私が育った、あの母親の支配する「無菌室」には、そんな戦いの痕跡は一切持ち込みを許されなかった。義父は何も言わなかったが、それは母に同意していたのと同じことだ。
靴の揃え方、箸の持ち方、テストの点数。少しでも泥がついていれば、少しでも形が歪んでいれば、冷たい目で否定され、排除された。あの完璧な黄色いオムレツが並ぶ食卓には、傷ついた戦士が羽を休める場所など、どこにもなかったのだ。
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです」
私はまず、窓際のスーツの男性にカップを運んだ。
「……ああ、どうも」
男性はカップを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと目を閉じて、その縁に口をつける。 コクン、と喉が鳴る。
その瞬間だった。
男性の強張っていた肩の力が、目に見えてフッと抜け落ちたのだ。彼を覆っていた目に見えない重い鎧が、温かいコーヒーの熱と香りに溶かされていくように。
彼は深く息を吐き、窓の外の雨を、今度は少しだけ穏やかな目で眺め始めた。
私はカウンターに戻り、作業着の男性の前にフレンチローストのカップを置いた。
「熱いので、お気をつけください」
「おお、すまんな」
男性は、ひび割れた太い指でカップの取っ手をつまみ、フーフーと息を吹きかけてから、一口飲んだ。
「……あぁ、あったけぇ。生き返るわ」
ポツリと漏らしたその言葉に、私は雷に打たれたように立ち尽くした。
——生き返る。
その言葉の響きが、あの二月の夜、冷たい公園のベンチで缶コーヒーを飲んだ時の自分の感覚と、完全に重なり合った。
私は、男性の分厚い背中を見つめる。
色褪せた作業着。泥のついた安全靴。そして、テーブルの上に置かれた、濡れた軍手。
視界が、ふいに滲んだ。その背中に、幼い頃に別れた実の父親の姿が重なった。
土木作業の現場監督をしていた父。家に帰ってくると、いつも土と汗と、少し焦げたような缶コーヒーの匂いがした。
母はいつも「汚い」「泥を持ち込まないで」と父を責め立てていた。けれど、父は嫌な顔一つせず、「悪かったな」と笑いながら、私を抱き上げてくれた。その大きな腕は、いつも信じられないほど温かかった。
ある日、私が「お父さん、いつも泥だらけだね」と言った時、父は大きな手で私の頭を撫でて、こう言ったのだ。
『咲、よく覚えとけ。泥がついてるのはな、一生懸命戦ってる証拠だ。腹が減ってちゃ、戦えない。だから休んで、腹に温かいもんを入れるんだ』
——ああ、そうか。
私は、胸の奥で何かが静かに、だが決定的に音を立てて砕けた。そして新しい形に組み上がっていくのを感じた。
お父さんは私に教えてくれていたのだ。人が生きていくためには、戦わなければならない。そして戦うためには、その泥だらけの鎧を脱ぎ捨て、心と体を温め直すための「休息の場所」が絶対に必要だということを。
母と義父が作った無菌室は、決して休息の場所ではなかった。あそこは私の心を殺すための、美しい牢獄だった。
私が家を飛び出し、自分の足で立ち、そして新宿のあの古い一戸建てを「ベースキャンプ」にしたのは、必然だったのだ。
襖越しに聞こえるナナっちの水音。石膏とバニラと古い木の匂い。泥だらけの服を着て帰ってきても、誰にも咎められない空間。あそこには、いびつでも、泥臭くても、確実に私たちが生き直すための「呼吸」が存在している。
私はもう一度、店内の二人の客を見渡した。
スーツの男性も、作業着の男性も、ただ静かに、自分の手の中のカップを見つめ、少しずつ減っていく琥珀色の液体を味わっている。
言葉は交わさない。音楽と雨の音だけが、彼らの間に等しく降り注いでいる。
この数十分の間だけ、彼らは社会の肩書きや、理不尽な重圧から解放されている。ただの一人の人間として、傷ついた自分自身を慰め、また冷たい雨の中へと戦いに出るための準備をしているのだ。
私は、バックヤードのロッカーの底に入っている、自分のリュックサックを思った。
あの中には、家出の夜からずっと、お守りのように眠っている父の軍手がある。
これまで私は、このカフェでのアルバイトを、ただ「自分が生き延びるため」の手段だと思っていた。食い扶持を稼ぎ、自分の足で立つための、労働。
けれど、違ったのだ。
私がここでコーヒーを淹れる行為は、あの凍えるような冬の夜、自動販売機が私に与えてくれた「熱」を、目の前の誰かに手渡す行為だった。
彼らの泥まみれの戦いを肯定し、「ここでだけは、一息ついていいよ」と、見えない毛布を掛けてあげること。
私は、カウンターの下で、自分の荒れた手をぎゅっと握りしめた。
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。それはもう、ただ生き延びようとする生存本能の熱ではなかった。もっと強くて、もっと前を向いた、確かな希望の熱。
私も……私もいつか、自分の空間を作りたい。
ナナっちが薄暗い落合の工場で、自分だけの狂気的で美しい世界を創り出しているように。私も、戦う人たちが泥だらけのまま足を踏み入れ、鎧を下ろして、深く息を吐ける場所を作りたい。
ただの綺麗なカフェじゃない。泥水のような現実を生きる人たちが、自分を取り戻すための、温かくて、少しだけ不格好な、私だけのベースキャンプを。
「……お姉さん、お代わりいいかな」
ふいに、作業着の男性が少し照れくさそうに空のカップを差し出した。
「あ、あのね。ここ、すごく落ち着くわ。コーヒーも、今まで飲んだ中で一番うまい」
皺くちゃの顔で笑うその笑顔に、私は弾かれたように顔を上げた。
「……はいっ!」
視界がぼやけないように、私は大きく目を見開いた。
窓の外の雨は、まだ降り続いている。けれど、私の心の中にあった冷たい北風は、いつの間にか完全に止んでいた。
私は新しいペーパーフィルターをセットし、再び細口のケトルを握る。
お湯を注ぐ。コーヒーが膨らみ、極上の香りが立ち昇る。
私の人生には、ちゃんと味がする。
私は、とびきりの誇りを持って、その琥珀色の液体を抽出した。
3
ホールの温かなダウンライトと柔らかなジャズの調べから一枚の扉で切り離されたバックヤード。そこはむき出しの蛍光灯が白く無機質な光を落としていた。
微かに聞こえてくるのは、大型の業務用冷蔵庫が発する低いモーター音と、換気扇のダクト越しに伝わる雨の音だけだ。
「お疲れ様でした」
交代のスタッフに短い挨拶を残し、私は狭い更衣室のパイプ椅子に腰を下ろした。
深く息を吐き出す。
ピンと張っていた背筋を緩め、エプロンの紐を解く。ふわりと、自分の髪や制服の繊維の奥から、深く甘いロースト香が立ち昇るのを感じた。先ほどまで自分が抽出し、働く人たちに手渡してきたあの琥珀色の余韻が、私という輪郭を優しく縁取っている。
細長いスチール製のロッカーを開け、私服の入ったリュックサックを引き寄せた。
そのまま荷物を取り出す前に、私は少しだけ躊躇い、そして、リュックの奥底へとゆっくり右手を差し入れた。
ひんやりとしたナイロン生地の底で、指先が探り当てたもの。無意識に、指の腹でその布地を静かになぞる。
水仕事と段ボールの摩擦でカサカサに荒れた私の指先が、古くなった分厚い綿の繊維に、チリチリと引っかかる。
ザラザラとした、決して心地よいとは言えないその感触。
二月のあの凍える夜から、ずっとお守りのように隠し持っていた、父の軍手だ。
かつての私にとって、この軍手は怯える子どもが包まるための毛布だった。
「無菌室」から逃げ出し、冷たい北風の吹く世界にたった一人で放り出された夜。誰かに見つかる恐怖と、明日を生き延びられるかという不安で凍えそうだった私を繋ぎ止める、たった一つの縁。
しかし今、私の指先に触れるこの粗い感触は、とても愛おしくて、そして、頼もしく感じられた。
少しだけ厚く、硬くなった私の手のひら。それは、泥水のような現実を自分の足で歩き、生き抜いてきた証だ。幼い頃に私を抱き上げてくれた父の、あの泥だらけで大きく温かい手に、今の私は少しだけ近づけているだろうか。
これはもう、恐怖から身を隠すための毛布ではない。
自らの手で熱を生み出し、誰かのために戦うための「誇り高き労働の証」なのだ。
私は軍手からそっと指を離し、代わりにリュックのポケットからスマートフォンを取り出した。
蛍光灯の薄暗い室内に、青白い画面がぽっかりと浮かび上がる。
パスコードを打ち込み、ネットバンキングのアプリを開く。短いロード画面のあと、中央に表示されたのは、七桁に満たない無機質な数字の羅列。
これまでの私にとって、この数字は命の残量であり、恐怖そのものだった。家賃、光熱費、食費。生き延びるためだけに削り取られていく命綱。少しでも数字が減るたびに、心臓が冷たい手で鷲掴みにされるような焦燥感に駆られていた。だからこそ、自分の身をすり減らすように深夜のスーパーで働き、シフトを詰め込んでいた。
けれど——不思議なほど、今は何の恐怖も感じない。
パイプ椅子の上で、私はその冷たい数字を静かに見つめ返した。見つめているうちに、その数字たちが、まったく別の輝きを帯びて見え始めた。
これは、ただ生き延びるための防空壕を作る資金じゃない。もっと美味しいコーヒーの淹れ方を学ぶための。豆の仕入れや経営のノウハウを知るための。そしていつか、雨に濡れた作業着の男性や、傷ついた戦士たちが鎧を下ろして深く息を吐ける「ベースキャンプ」を、この手で築き上げるための。
私だけの、未来への切符だ。
画面の明かりが設定時間によってふっと消え、暗転した黒いガラス面に、私の顔がうっすらと映り込んだ。
そこにはもう、何かに怯え、ただ息を潜めているだけの少女はいなかった。
まっすぐに前を見据える、確かな輪郭を持った一人の人間の目が、私を見つめ返していた。
「……よし」
私は小さく、けれど芯のある声で呟き、立ち上がった。
スチール扉を閉める硬質な音が、心地よい句読点のようにバックヤードに響き渡る。 帰ろう。私の、私たちのベースキャンプへ。
ガラガラッ。
新宿の夜の喧騒を背に、古い木枠の引き戸を軋ませて家に入った。
玄関の土間で靴を脱ぎ、襖に手をかける。店での静かな決意を胸に、私たちの「ベースキャンプ」へと足を踏み入れた。
ツーッと襖を横に滑らせ、居間を見渡した瞬間、私は言葉を失った。
そこには、痛々しい敗残の跡があった。
六畳の畳の上には、彼女が持ち帰ってきたであろうキャンバス地の大きなトートバッグが倒れ、中から丸められたデッサン用紙がいくつも転がり出ている。そしてその傍らには、石膏の粉や乾いた赤茶色の粘土で無残に汚れきった、ガーリーなフリルの服が、抜け殻のように脱ぎ捨てられていた。
部屋の空気には、彼女が落合のアトリエから引きずってきた、乾いた土と埃、そして焦燥感のような匂いが濃密に淀んでいる。
そして、その痛々しい抜け殻のすぐ横で、ナナっちが下着姿のまま大の字になって転がっていた。
仰向けに倒れた彼女の、陶器のように白い肌には、所々に石膏の白い粉や灰色の粘土が、戦いの痕跡のようにこびりついている。黒曜石のような大きな瞳は焦点を失い、天井の蛍光灯をぼんやりと見つめたまま、微動だにしない。まるで、巨大な何かに押し潰され、全ての生命力を吸い取られたかのような、圧倒的な無防備さと敗北感。
「……ナナっち……何してんの」
私はリュックサックをちゃぶ台の脇に静かに置き、声をかけた。自分の声が、驚くほど落ち着いていることに気づく。
「もうダメ〜……生きていられない」
天井を見つめたまま、ナナっちがハスキーな声で搾り出すように呟いた。
どういうこと? 生きていられないって……。この部屋で何があったの? まさか……。
「大丈夫なの? 無事?」
私は慌ててナナっちに駆け寄った。白い下着以外は何も身に着けていない無防備さ。いつも見慣れている姿だとしても、これは異常だった。
「無事じゃないよー。……失敗した〜」
え? 失敗?
その声はいつもカフェで見かける、理不尽に耐え、心と体をすり減らしたサラリーマンや作業着の男性たちの、深い、重いため息と全く同じ響きを持っていた。
「目の前の空間を形にするって……言ってたのにさ……。全然、引っ張り出せなかった。形にならない。ただの、泥の塊にしかならなかったんだよ……」
彼女は片腕を顔に乗せ、視界を塞いだ。その、粘土で汚れた指先が、微かに震えている。
そういうことか。私はある意味ではほっとした。それと同時に、パイプ椅子に腰をかけたバックヤードでの記憶を呼び起こした。
そうだ。彼女もまた、戦っているのだ。
落合のあの薄暗い工場で。埃と接着剤の匂い、グラインダーの火花。自分の何倍もある巨大な空間や質量に対し、泥まみれになって狂気的に挑み、そして傷ついている。
彼女が、このカオスの中で下着姿で大の字になっているのは、天衣無縫さの表れではない。 戦いに疲れ果て、泥だらけの鎧を脱ぎ捨て、心も体もリセットしなければ生きられない、傷ついた戦士の極限の無防備さなのだ。
「……ちょっと待ってて」
私は彼女を見て、包み込むような静かな声で言った。
自分の内に、あの自動販売機の缶コーヒーから受け取った「熱」が、今こそ、目の前の誰かに手渡すべき時が来たのだと、確かな脈動を感じていた。
「いま、美味しいコーヒー、淹れてあげるから」
ナナっちは、腕の下から片目を少しだけ開けて、私を見た。その瞳は、まだ深く沈んだままだった。
私は静かに立ち上がり、小さな台所へと向かった。古い昭和の家屋特有の、湿った木の匂い。カチリ、とガスコンロのつまみを回し、薬缶を火にかける。青い炎が、ボッと音を立てて点火する。その間に、私は手動のコーヒーミルを取り出し、職場から買ってきたフレンチローストの豆を入れた。
ゴリゴリ、ゴリゴリ……。
ミルを回す。規則的で小気味よい音が、古い襖を抜けて居間に響き渡る。
それは、カフェでいつも聞いているエスプレッソマシンの音や、外を走る車の音とは違う、もっと泥臭くて、温かい、生活の音。
ナナっちは、その音を聞きながら、腕を顔から下ろした。彼女のハスキーな呼吸が、ミルの音に合わせて、少しずつ落ち着いていくのがわかった。
準備が整った頃、薬缶がシューシューと湯気を上げ始めた。
私はお湯をドリップケトルに移し、ドリッパーにセットしたペーパーフィルターに、挽きたての粉を入れた。
細いケトルの口から、お湯を落とす。
シューッ……。
お湯がコーヒーの粉の間に染み込み、粉がふわりとドーム状に膨らむ。
その瞬間だった。古い木の襖や畳の部屋に、一気に上質な、深く甘いロースト香が広がる。
焦げ臭くて泥水のような缶コーヒーとは全く違う、心を豊かにするための、琥珀色の香り。
それは、このカオスの中で淀んでいた、乾いた粘土や石膏の粉っぽさを、優しく、しかし確実に押し流していった。
「……ん、なんか、いい匂いしてきた」
居間から、ナナっちがポツリとこぼした。
彼女は転がるのをやめ、少しだけ上半身を起こして、台所にある私の後ろ姿を、ぼんやりと見つめ始めた。
私は息を詰め、意識のすべてをこのお湯の線に集中させる。
カフェで教わった通りに。
雑味がなく、温度管理から抽出時間、お湯の一滴の落とし方に至るまで、すべてが計算し尽くされた一杯。
荒れた私の指先がケトルの重さを支えている。
私は今、自らの手で熱を生み出し、誰かのために「休息の場所」を、この一杯に創り出しているのだ。
部屋を満たす温かい香りと、私の規則的で落ち着いた動作。それらに包まれるうちに、ナナっちの焦りや泥臭い自己嫌悪が、少しずつ、溶かされていく。
「……なんか、心が凪いできたかも」
ナナっちが、深く吸い込んだ空気と共に呟いた。その声には、もう、さっきの敗北感や重いため息はなかった。
私は、「でしょ?」と少し誇らしげに微笑みながら、抽出が完了した琥珀色の液体を、温めておいた陶器のカップに注いだ。
トクトク……。
カップを満たすその音すらも、心地よい句読点のように響く。
私は二つのカップを手に、居間へと戻った。
少し生気を取り戻して起き上がったナナっちの前に、カップを置く。
「はい、咲特製のフレンチロースト。温かいうちにどうぞ」
ナナっちはひび割れた太い指でカップを包み込むように持ち、ゆっくりと目を閉じて、その縁に口をつけた。
コクン、と喉が鳴る。
「……ああ、あったかい。生き返る……」
ポツリと漏らしたその言葉に、私はあのカフェで作業着の男性が見せた笑顔と、同じ温かい光を見た。
私は自分のカップを手に、ナナっちの向かいに座った。
襖一枚隔てたこの家の中に、彼女が落とした石膏の粉の匂いと、私のバニラの香り、そして上質なコーヒーの匂いが静かに混ざり合い続けている。
外では、小さな庭の虫の音を掻き消すように、また新しいサイレンの音が新宿の街を切り裂いていく。
けれど、もうこの古い昭和の家を脅かすことはない。
ここは、戦う人たちが泥だらけのまま足を踏み入れ、鎧を下ろして、深く息を吐ける、私たちのベースキャンプなのだから。
私は、自分の城の、確かな「味」を噛み締めながら、琥珀色の液体を飲み込んだ。
琥珀色の液体が喉の奥を通り抜け、じんわりと胃の腑に落ちていく。その確かな熱に背中を押されるように、私は静かに口を開いた。
「ナナっち」
私の声は、夜の静寂にしっとりと吸い込まれていった。
ナナっちは両手でカップを包み込んだまま、ん? というように視線だけをこちらに向けた。粘土と石膏で汚れた彼女の頬が、コーヒーの湯気越しに少しだけ赤みを帯びて見える。
私は自分のカップを、傷だらけのちゃぶ台にそっと置いた。コトという陶器と木がぶつかる鈍い音が、二人の間に小さな波紋を広げる。
深く、息を吸い込んだ。胸の奥でずっと燻っていた熱い塊を、言葉という形にして外へ押し出すために。
「私ね……いつか、自分のお店を持ちたい」
声に出した瞬間、それはもう「私の中だけの密やかな夢」ではなくなった。
ナナっちはピタリと動きを止め、まじまじと私を見つめた。私は誤魔化すことなく、まっすぐに彼女の黒曜石のような瞳を見返した。
「泥だらけの靴のまま足を踏み入れて、重い鎧を下ろせるような……戦う人たちが、深く息を吐ける場所。そういう『ベースキャンプ』を、いつか自分で作りたいの」
言い終えると、部屋には水底のような重く濃密な沈黙が訪れた。
遠くで、新宿の街を走るトラックの低い走行音が響く。壁にかかった古い掛け時計の、カチ、カチ、という秒針の音が、やけに耳についた。
私はちゃぶ台の下で自分の膝を強く握りしめ、彼女の言葉を待った。
言ってしまった。もう、後戻りはできない。
今の時給で何年かかると思っているのかと、笑われるだろうか。
ひりつくような数秒間が、永遠のように感じられた。
ナナっちは、じっと私の顔を見つめた後——カップから片手を離し、自らの指先を見下ろした。爪の間にまで入り込んだ、赤茶色の粘土。今日、彼女がどうしても形を引きずり出せず、打ちのめされた敗北の泥。
その汚れを見つめながら、彼女はふっと、自嘲と優しさが入り混じったような、静かな微笑みを浮かべた。
「……いいじゃん」
掠れた、低い声だった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、再び私を見た。その瞬間、深く沈んでいた黒曜石の瞳の奥に、チリッと小さな火花が爆ぜるのを見た気がした。
傷ついた戦士の顔から、泥と向き合うクリエイターの顔へ。確かな光が、彼女の目に宿っていく。
「今日はさ、ただの泥の塊しか作れなくて、マジで凹んでたんだけど……」
ナナっちは、汚れた指先でちゃぶ台をトンと叩いた。
「咲が淹れるこのコーヒーの熱なら、どんな泥でも、最高の器に焼き上げられる気がする」
ドクンと私の胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。
「そのお店で出すコーヒーカップ……私が、土から引っ張り出してあげる」
「……ナナっちが?」
「そう。既製品なんかじゃない。戦ってきた人たちの冷えた手を芯から温められるような、分厚くて、泥臭い器。咲の城に一番似合うカップは、私が焼く」
それはただの慰めでも、無責任な応援でもなかった。
敗北の底にいる造形作家が、自らの誇りをかけて口にした、重くて熱い誓いだった。
あぁ、そうか。
私は、ちゃぶ台の縁にかかけた自分の指先が、微かに震えているのを感じた。視界の輪郭が、じわりと熱く滲む。
彼女にとっての最大の肯定は、言葉で褒め称えることではなく、「自分の生み出した形を、そこに置く」と約束してくれることなのだ。
「……うん。絶対、お願いする。一番最初の発注は、ナナっちにする」
自分の声が震えているのがわかった。
「約束ね」
ナナっちがそう言って、乾いた粘土と石膏の粉が白くこびりついたその手で、私のカサカサに荒れた右手を、ぎゅっと力任せに握りしめた。
手のひらの間で、乾いた土の微細な砂粒同士が、ジャリッ、ガリッと不快な音を立てて潰れる。皮膚をやすりで擦られるような、鋭く、生々しい痛みが走った。
決して、お行儀の良い綺麗な握手ではない。けれど、そのひりつくような痛みの奥から、冷え切っていたナナっちの確かな体温と、表現者としての狂おしいほどの熱が、私の皮膚を突き破って直接流れ込んできた。
痛い。だけど、ひどく熱い。
この痛みこそが、私たちが綺麗な嘘の世界を捨て、泥臭い現実を共有した、対等な表現者としての「共犯の印」だった。
自分の口で他者に伝えたこと。そして、それを「器を焼く」という具体的な物理の約束で、この上なく力強く肯定されたこと。その事実が、胸の内にあったぼんやりとした熱を、確固たる「現実の目標」へと鮮やかに書き換えていく。
脳裏に更衣室のロッカーで見つめた、スマートフォンの画面が浮かび上がった。
あそこに並んでいた無機質な数字たちは、もう、明日を生き延びるためのただの生存資金ではない。ナナっちの焼いたカップに、私の淹れたコーヒーを注ぐ。その、自分だけの城を築き上げるための「未来への投資」なのだ。
古い昭和の家の、六畳一間の居間。
襖の向こうから漂う敗北の土の匂いと、目の前にある琥珀色の香り。
空間と格闘する同志として、私たちは初めて、本当の意味で対等になれた。
ここで交わした泥臭く温かい約束は、どんな契約書よりも確かに、私の未来を照らす道標になったのだ。
その道標が示す先は、決して綺麗に舗装された安全な道ではないだろう。きっとこれからも泥に塗れ、何度も転び、そのたびに痛みを味わうはずだ。それでも、迷った時にはこの琥珀色の香りと土の匂いを思い出せばいい。隣には、同じように泥だらけになって笑い飛ばしてくれる同志がいるのだから。
私はゆっくりと息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。
すると、ふと、先ほどまでの感動の余韻に少しだけ水を差すような、素朴な疑問が頭をよぎった。
「……でもさ、ナナっちの専門って『建築学科』じゃなかったっけ? 陶芸もするの?」
私はカップを両手で包み込みながら、小首を傾げて尋ねた。建物の設計図面を引いている姿は想像できるが、ろくろを回している姿はどうにも結びつかなかったのだ。
「うーん、まあ私の場合は『空間を形にする』って意味じゃ何でもありなのよ。土でも木でも、コンクリでも、使えるものは全部使うの。だから器の一個や二個、全然問題ないって。この南菜那さんに任せておきなさい」
ふふんと得意げに胸を張って豪語した、直後だった。
「……へぶっ!」
ナナっちは、およそガーリーな普段の装いとは程遠い、ひどく間の抜けた大きなくしゃみをした。
カタカタと、古い窓ガラスが風で微かに揺れる音がする。そりゃあそうだ。秋の気配が深まり、夜風がひんやりと冷たさを増してきたこの季節に、いくら部屋の中とはいえ、下着姿のままで畳に転がっていれば体も冷えるに決まっている。戦士の休息とはいえ、あまりにも無防備すぎた。
「あー、寒っ。やば、一気に冷えてきたかも。ちょっと着替えてくる!」
鼻をすすりながら、ナナっちは慌てて立ち上がり、スウェットを取りに隣の部屋へとドタバタ駆け込んでいった。
残された居間に、彼女の騒がしい足音と、開けっ放しの襖から冷たい空気が流れ込んでくる。
私は苦笑しながら、手の中のカップを見つめた。
ほんの数分前まで重く淀んでいた敗北の空気は、もうすっかり霧散していた。代わりにあるのは、どうしようもなく等身大で、少しだけ不格好な私たちの日常だ。
少しだけ温度が下がり、ほんのりと酸味の増した最後のひとくちを飲み干すと、それは今までで一番、温かくて優しい味がした。
4
銀色のフォークが、かすかに硬い音を立ててタルト生地を割った。途端に、焦がしバターとアーモンドの甘い香りが、雨上がりの湿った空気にふわりと溶け出していく。
「ん〜っ! これ、最高」
新宿の大通りに面したオープンカフェ。テラス席に座るナナっちは、こぼれ落ちそうなフルーツを頬張り、ふにゃりと目を細めた。
今日彼女が身に纏っているのは、マスタードイエローとブラウンの秋らしいチェック柄のセットアップだ。フリルがあしらわれた大きな襟のブラウスが華奢な肩を包み、ハーフアップの髪をまとめるテラコッタ色のベロアリボンが、通りを抜ける風に柔らかく揺れている。
休日の午後。雨上がりの街を行き交う人々が、足早に通り過ぎながらもチラチラと彼女へ視線を送っていく。男性はみんな、彼女の姿に目を見開く。同年代の女性たちの、「あの子の服、可愛い」「どこのブランドだろう」というひそひそ声が風に乗って聞こえてきた。
私は自分のカップの縁に口をつけ、深煎りコーヒーの苦味と一緒に、小さく息を吐き出した。
なんだか、たまらなく痛快で、誇らしかった。
すれ違う彼らは、誰も知らないのだ。
このフランス人形のように愛らしくて隙のない女の子が、本当は自分の何倍もある巨大な空間と質量を相手に、狂気的なまでに泥まみれになって戦う造形作家だということを。
そして——いつか私が築き上げる城に、誰よりも不格好で熱い、最高の器を焼いてくれる同志だということを。
「咲? どうかした?」
コロンとした真っ白な磁器のティーカップを持ち上げながら、ナナっちが小首を傾げる。
この仕草がとてつもなく可愛い。
「ううん。このコーヒーも、美味しいなって」
「でしょ。ここのお店、大正解」
無邪気に笑う彼女の指先と、その洗練された既製品のカップを見つめていると、ごく自然に、まだ見ぬ自分の店の光景が脳裏に立ち上がってきた。
静かなジャズが流れる店内。使い込まれた無垢材のカウンター。
そこに並ぶのは、こんなふうに綺麗で均質なカップなんかじゃない。ナナっちが泥の底から引っぱり出してくれた、分厚くて、無骨だけど、何よりも温かい器だ。
そこに、私が抽出した琥珀色の液体を注ぐ。
最初の一杯を誰に淹れるかは、もう決めている。
まだ表の看板に明かりを灯す前。静寂に包まれた店内で、その一杯を、あの分厚い軍手で守られていたお父さんの手に包んでもらうのだ。それはもう、怯える私を匿ってくれる逃避の毛布ではない。誇り高き労働の証としての手へ贈る、同じく自らの足で立ち、熱を生み出す労働者からの、最大のリスペクトとしてのコーヒー。
カチャリとソーサーにカップが置かれる音がして、ふっと現実のノイズが鼓膜に戻ってきた。ナナっちが最後の一口を名残惜しそうに飲み込んでいる。大通りの車の音。誰かの笑い声。
私はゆっくりと息を吸い込み、カップの温もりを掌で感じながら、次の情景を思い描いた。
いよいよ看板に明かりを灯し、お店をオープンさせる時。カラン、とドアベルを鳴らして入ってくる「記念すべき第一号のお客さん」は、お母さんだ。
過保護な無菌室から逃げ出し、泥水をすすってでも自分の足で歩くことを選んだ私を、お母さんはきっと今でも心配しているだろう。だからこそ、カウンター越しにまっすぐに向き合い、最高の笑顔で迎え入れるのだ。
『いらっしゃいませ。——私、ちゃんと自分の足で立ってるよ』
その言葉を堂々と手渡す日を想像する。いつも胸の奥にへばりついていた、ひりつくような自立への焦燥感が、ふっと輪郭を失っていく。代わりに込み上げてきたのは、静かで、とても温かい熱だった。
「ごちそうさま。よし、行こっか!」
空になったプレートを前に、ナナっちが勢いよく立ち上がった。
私も、少し冷めたコーヒーを飲み干して席を立つ。
テラス席から大通りへと歩み出る。午前中まで街を濡らしていた雨のせいか、アスファルトからは微かに湿った土埃の匂いがした。街路樹の葉を揺らして吹き抜ける風が、熱を持った頬を冷たく撫でていく。
あの二月の夜、私を震えさせた命を削り取るような北風とは違う。輪郭がくっきりとした、どこまでも心地よい秋の風だった。
「あっ、咲、水たまり!」
前を歩いていたナナっちが、ふいに立ち止まった。
窪んだアスファルトに、雨上がりの大きな水たまりが残っている。彼女は「えいっ」と楽しげな声を上げ、キャメル色のロングブーツで軽やかにそれを飛び越えた。
私もそれに続こうとして、ふと、足元の水たまりに視線を落とし——息を呑んだ。
波一つない静かな水面が完璧な「水鏡」になっていた。
新宿の喧騒も、無機質なビルの影も、泥だらけのアスファルトの質感も、そこにはない。 ただそこには、どこまでも高く、果てしなく澄み渡る秋の青空だけが、鮮やかに切り取られていた。
私は立ち止まり、ゆっくりと顔を上げた。
水鏡に映っていたのと同じ本物の青空が、視界いっぱいに広がっている。
冷たく暗い夜の底で、ただ震えながら息を潜めていた時間は、もう終わったのだ。
目を閉じる。
雨上がりの匂いを含んだ秋の空気を、胸のいちばん深いところまで、ゆっくりと吸い込んだ。
——私の人生は、ちゃんと味がする。
そっと目を開ける。
前を歩く同志の背中を追って、私は水鏡の向こう側へと、確かな足取りで踏み出した。
着地した時の水音は爽やかに響いた。




