第一話 インクの指
ルミシャ
インクと古い紙の匂い。 それから、どこかで誰かが煮ているらしい、甘い湯気の匂いが窓の隙間から細く流れ込んでいた。
羽根ペンが紙を引っ掻く音。 湯の沸く音。 部屋の奥で、封印の陣が低く唸っている音。
午後の光が机の埃を金色に灼いていた。 その光の中に、ネルフィがいた。
書きものに沈んで、こちらには気づいていない。 インクで汚れた指先。 ほどけかけた髪が頬に一筋かかっている。 淡い金茶に、桃がさしたような色。 片方が琥珀、片方が深い緑の瞳。 呼ばれても、たぶんすぐには気づかない。
「ネルフィ」
返事はない。
「ネルフィ」
「……ん」 ペンは止まらない。
あたしは彼女の手元を横から覗き込んだ。 見たこともない紋様が、几帳面とは言えない字で紙を埋めていた。
封印の術式だった。 部屋の奥で唸っている陣と同じ紋様。 ネルフィが何ヶ月もかかりきりになっている研究だった。
「また食べてないでしょ」 「……あとで食べる」 「朝もそれ」
ネルフィがようやく顔を上げた。 ぼんやりとあたしを映す。 それから、ふにゃ、と笑った。
「ルミシャ」 「なに?」 「髪、また跳ねてる」
伸びてきた指が、あたしの前髪をひとふさ耳にかけた。 インクの匂いがすぐ近くで揺れた。
「水色って、いいよね」 「……急になに?」 「光に透けると、水みたい」
ネルフィの指が、止まった。 そのまま、あたしの目を、覗き込んでくる。
「目も、おなじ色だ」 「あなたって、ぜんぶ、水でできてるみたいだね」
「あんたの髪のほうが、よっぽど直すとこあるでしょ」 「あはは」
ネルフィは笑って、また紙に戻った。 ペンの音がしばらく続いた。
あたしは隣の椅子を引いて、座った。
奥の陣がときどき低く震えた。 封印はまだ機嫌が悪い。
「ねえ、ルミシャ」 「うん」 「これが終わったら」
ペンの先が紙の上で、ひとつ止まった。
「街の南に、新しい甘味処ができたんだって」 「……それで?」 「一緒に行こう」
窓の外で鳥が鳴いた。
「果物も食べたいなあ」 ネルフィは頬杖をついた。 「枯れない樹の実があるって、本で読んだの」 「本で読んだだけでしょ」 「うん」 「あんたはいつもそう」 「行けば、本当かどうか、わかるよ」
「……研究は」 「研究も、やるよ。ぜんぶやる」
ネルフィは指を折りはじめた。
「甘味処でしょ、枯れない樹でしょ、海の見える丘でしょ」 「多いって」 「ぜんぶ、一緒に行こうね」
「海って、見たことある?」 不意に訊かれて、あたしは首を横に振った。この塔で育って、街の外も知らない。海なんて、本で見ただけだ。 ネルフィは、それが嬉しいみたいに笑った。 「じゃあ、いちばん最初は海にしよう。丘の上から見るの。すごく広いんだって」 指を一本立てて、世界でいちばん大事な約束みたいに。 「わたしが、連れていってあげる」
ばかみたい、と思った。 まだ何ひとつ終わっていないのに。
それでも、あたしは頷いた。 椅子が小さく鳴った。
ネルフィは満足そうに紙の隅へ何か書き足した。 横から見ると、行きたい場所の名前が小さく並んでいた。 いちばん上に、あたしの名前があった。
日が傾いていく。 湯はとうに冷めて、二人ともそれに気づかないふりをしていた。
「ルミシャ」 「まだあるの?」 「あのね、わたし」
ネルフィは少し、口ごもった。
「あなたがいないと、たぶん、ここまで来てない」 「……なにそれ?」 「ライバルのくせに、って思ってる?」 「思ってる」 「ふふ」
――陣の唸りが、ふいに半音ずれた。
あたしは顔を上げた。
ネルフィはまだ笑っていた。 何かがおかしいと、まだ気づいていない。
部屋の奥。 封印の光が脈打つように、明滅していた。 低かった音が、だんだん高くなっていく。
机の上の、ネルフィの術式がひとりでに光りはじめた。 奥の陣が――ネルフィの封印が、暴れていた。
「ネルフィ」 自分でもわかるくらい、声が固くなった。
「……え?」
光が、膨らんだ。
その中心に、ネルフィがいた。 彼女のほうへ、空気が吸い込まれていく。
あたしは椅子を蹴った。 考えるより先に、体が動いていた。
ネルフィの腕をつかんで、力いっぱい後ろへ突き飛ばす。
入れ替わるように、あたしの足元で光が口を開けた。
最後に見えたのは、尻もちをついたネルフィの顔だった。 何が起きたのか、まだわかっていない顔。
「――ルミシャ?」
その声が、遠くなっていく。




