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幕間・月の光、蒼く照らして


 遅まきながら指をつき、拝礼をする。

見ていらっしゃるのかもしれないこの本殿の神さまに。


「わたしの大切なお嫁さんですので神罰を下さりますなら、どうか、わたしに全てお与え頂きますよう」

 

 そうして、申し訳ないと思いつつも、本殿の中に足を踏み入れる。


「お風邪を召されてしまっても知りませんからね」

 初夏と云えども、湖に近いこの地の夜はまだ肌寒いです。


 月の細く蒼い光で編み込まれたようなそのお姿。入ったものの、一歩を踏み出すことにためらいを覚え立ち尽くしてしまいます。

 改めて、こういうお姿を何んともなしに見ていますと。良からぬ考えが思い浮かびます。


 ああ、寝ていらしても、お胸の形は崩れないのですね、と。


 嬉しくもあり、悲しいです、だってわたしが同じように寝そべりますと……なくなるのです。わずかにあるはずのものがなくなってしまうのです。

 そこまでで、わたしはかんがえるのをやめ、しょうきにもどりました。

 いえいえ、正気に戻りました。もう、神聖なお社でわたしは何を考えているのでしょうか、と思い直し。嘉様のお傍まで参ります。


 どこかの神さまが戯れに御造りになったような美しいかんばせを見ていますと、心がおぼつかなくなることがあります。毎朝、毎夜、時には息も感じられるような距離で見慣れているはずなのに。この人の美しい人は本当にここに存在するのかと不安になってしまう時が。

 特に、お眠りになるときには体温が下がって、まるで命のい人形のような――――

 自分の考えになのに、心の臓がひどくかき乱された。


 昼間の戦の怒号と土ぼこり。色を失った誰かの面影―――とと様は最後までご立派でした。血の付いた、わたしがしつらえた羽織と、銀の御髪―――

 

「そんな、わたし…」


 こんなの知らない。知るはずの無い。それでも、強烈な残像。目の奥に火箸を差し込まれたようにチカチカと。いやだ、思い出してはいけない。これは違う。もう違うのだ。忘れてもいいことです。だから。


「…はぁ、はぁ、はぁ」


 獣のような息使いが自分の喉から聞こえる。


 こわい。こわい。

 死の足音。

 絡みつく油のような悪寒が指先から這い上がって。空が逆さまに落ちてくるような絶望。

 その残滓がこの頭の隅に残っているのです。

 

 膝から崩れ落ちる。静かなお堂の中に驚くほど大きな音がしました。それもいまのわたしには他人事のように遠く。

 目を塞いで眠りたい。縋りたい。満たされたい。いつものように。隣で。

 でも、いまはそれもこわくて。


 やっとのことで右手の中指の腹で黒絹のような前髪に触れた。

 頬に手を添える。

 ひんやりと冷たい。それでもわずかな温かみが、じわりと指先に灯る。生を感じるには十分でした。

微かに上下する豊かな胸と、あるかないかの呼吸が生の証としてそこに確かにあったのです。


 安心からか、それまでの不安からか。

 ぶるっと目じりが震え、景色がにじんでしまう。


「…えぅっ」


 いけない。

 泣きませんと約束したのに。

 手のひらで強く、閉じた瞼の上から瞳を押さえつける。一粒たりとも零れないように。壊れないように。


「ダメだよ、蓬」


 そうして、優しいお声で、わたしは包まれた。指の上に指が重ねられ、一本一本ゆっくり優しく解かれてれていく。やがて、床板に横になったまま、苦笑する顔が見えました。先ほどの神聖さはなく、いたずらを見つかった子猫のようなばつの悪そうな笑い。


「だって、ヨシさまが何処にもいなくなって」


 しまう気がした、と続ける前に。


「ああ、姿を隠した全面的に俺が悪い」


 わずかな誤解があったが、それはどうでもよかったのです。

 わたしは知っています。わたしがすることならこの方は理不尽な責めもわがままも全て優しく受け入れてくれる。

 だから、賢しらなわたしはそれを利用してしまう。


 ゆっくり、柔らかな胸元に頭を抱え込まれます。

 ほら、こうして大切にしてくれるのです。ああ、本当に、わたしは嫌な子なのです。

 普段は、やさしさに溺れてしまわぬよう。線を引いて戒めているつもりですのに、少しでも崩れそうになったら、こうしてしまう。


「ごめんなさい」


 少しの時間が過ぎ、そう私は切り出した。

 愛おしい人の体温で、先ほどまでの恐慌が嘘のように消えたわたしに残ったのは大きな安心と、小さな罪悪感。


「えーと…謝るのは俺だろう」

 

 ですので、心に去来した今の気持ちを詳らかにお話しました。するとどうでしょう、笑い声を上げられて、そして、私の頭にこつんと軽い衝撃がありました。

 驚いて顔を上げると、すぐ近くに、整った鼻梁と濡れた唇がありました。

 少し我に還った和紙の体温が上がる音がします。でも、そのあとのお言葉を聞いた後に比べますと大した上がり方ではなかったです。

 

「ちょっと、お酒の匂いがするな」


 やだ、またくんくんされてます。


「やめて下さい、やめて下さい」


「でも、いつものいい匂い。いいじゃないか、俺にもこうしてメリットしかないんだから」


「…めりっと?」


 嘉様のお使いになる言葉はいつも難しいです。


「嬉しい事しかないってことだよ」


「やっ、くんくんやめて下さい」


 諏訪の神さま、先ほどのお願い訂正します。

 嫌がっているのをご覧になられるとより嬉しそうに襟口にじゃれ付くこの人には、天罰は必要です。ほんの少しならいいはずです。きっと。

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