第52話 うちの斗話
「一回呼んでも、返事だけです。二回呼ぶと、もう起きていると言います。でも、まだ布団の中にいます」
赤ずきんは原稿用紙を両手で持ち、淡々と読み続けた。教室の前の方から、小さな笑い声が起こる。
「うちのお父さんと同じだ」
誰かが言った。背後で咳払いが聞こえたが、振り返る余裕はなかった。僕は壁際で姿勢を正したまま、これ以上、朝の実態が明かされないことを祈っていた。
「でも、仕事がある日は、早く起きます」
少し救われた気がした。
「だから、起きられないわけではありません」
救われなかった。
先生まで口元を押さえていた。赤ずきんは不思議そうに顔を上げたものの、すぐに続きを読み始める。本人は、笑わせるつもりで書いていないらしかった。
「ご飯は、斗話のお母さんが作ります。肉じゃがと、お味噌汁が美味しいです。おかわりをすると、いっぱいよそってくれます。斗話がよそうと、何回もこれくらい、と聞くので、少し面倒です」
それは、食べきれるか気にしているからだ。
僕の言い分が届くはずもなく、赤ずきんは紙を少し持ち上げた。教室の真ん中で、男の子が頷いている。その後ろのお母さんは、こちらを見て笑っていた。
「うちには、よく、人が来ます。お菓子を持ってくる人もいます。持ってこないで、うちのお菓子を食べる人もいます」
後者には、何人か心当たりがあった。
「みんな、お仕事をしています。ご飯を作ったり、写真を撮ったり、お家を直したりします。斗話も、部屋で仕事をしています。パソコンの中に、人がいっぱいいて、同じところで何回も転びます」
昨日編集していた動画だ。確かに、転倒の場面を何度も見直していた。彼女には、僕が他人の失敗を延々と楽しんでいるように見えていたのかもしれない。
「そんなときも、わたしが呼ぶと、止めてくれます」
赤ずきんの指が、原稿用紙の端を撫でた。次の行を探すように、少しだけ目を細める。
「忙しいときは、少し待って、と言います。だから、わたしは待ちます。忘れたときは、もう一回呼びます」
僕は、小さく息を吐いた。
忘れたことが、あった。作業に戻ってしまい、廊下からもう一度呼ばれて、ようやく顔を上げたことがある。立派な保護者のつもりで後ろに立っていても、赤ずきんは、その辺りまでちゃんと見ていた。
「わたしは、前に、すごく強くなれば、怖いものがなくなると思っていました」
さっきまで笑っていた子供たちが、顔を上げた。赤ずきんは一度息を吸い、続けた。
「でも、まだ、怖いものはあります。夜、変な音がすると、起きます。斗話の部屋に行くと、まだ電気がついていることがあります」
書斎の戸が、細く開いた夜を思い出した。
喉が渇いたのかと聞くと、首を振った。宿題のことで聞きたいことがあるのかと聞いても、違うと言った。結局、隣の椅子にしばらく座り、何も言わずに戻っていった。
「斗話は、何しに来たの、と聞きます。何でもないと言うと、そうかと言って、椅子を出してくれます」
赤ずきんは、そこで紙から顔を上げた。
僕と目が合うと、すぐに視線が原稿へ戻る。紙を持つ手には少し力が入っていたが、その声は、初めの頃よりはっきりしていた。
「わたしは、まだ、静寂の森の狩人です。でも、家では、たまに休みます」
何人かの子が、感心したように頷いた。狩人にも休業日があることは、彼らにとって、十分納得できる話らしかった。
「休んでいるときは、ご飯を食べたり、テレビを見たりします。斗話のお母さんが、頭巾を洗ってくれます。乾くまでは、普通の服です」
教室に、また小さな笑い声が広がった。赤ずきんも、ほんの少し口元を緩めた。
「この家に帰るのが、好きです。これで、終わります」
紙を下ろし、頭を下げた。
先生が拍手を始め、子供たちの手が続いた。僕も手を叩いたが、赤ずきんが顔を上げたときには、何か言葉をかけたくなっていた。
もちろん、授業中だ。僕は口を閉じたまま、頷いた。
赤ずきんはそれを見て、今度は隠さず、少し笑った。
発表のあとは、質問の時間だった。
男の子が勢いよく手を挙げたので、僕は、狩人の仕事について聞かれるのだろうと思っていた。
「斗話さんは、何の魚なら釣れるんですか」
なぜ、そこが気になった。
赤ずきんは真剣に考え始めた。答えを探してくれていることはわかったが、沈黙が長引くほど、僕の立場は悪くなった。
「……まだ、わからない」
「じゃあ、釣れたら教えて」
「うん」
僕の釣果に、新たな報告先ができた。
次の子は、原稿用紙を見ながら首を傾げた。
「狩人を休んでるときに、敵が来たらどうするの?」
赤ずきんは、今度はすぐに答えなかった。指先を握ったり開いたりしたあと、後ろにいる僕をちらりと見た。
「……大人を呼ぶ」
「自分で戦わないの?」
「先に、呼ぶ」
先生が静かに頷いた。
「そうですね。危ないときは、まず近くの大人に知らせてくださいね」
赤ずきんは、自分の答えを確かめるように小さく頷いた。僕は、あのウリ坊の一件のあと、リビングで交わした約束を思い出していた。
最後に、一人の女の子が手を挙げた。
「おうちに遊びに行ってもいいですか」
「……斗話に聞く」
急に教室じゅうの目が、こちらへ向いた。
僕は少し慌てたが、赤ずきんが代わりに答えず待っているので、顔を上げた。
「いいよ。おうちの人と相談して、来る日を決めようか」
「僕も!」
「私も行きたい!」
「はいはい。今は赤ずきんさんへの質問ですよ」
先生が笑いながら場を収めた。僕の隣の保護者も笑っていて、気づけば僕自身も、さっきほど肩に力が入っていなかった。
赤ずきんは席へ戻り、原稿用紙を机の中にしまった。そのあとも、僕は教室の後ろで、ほかの子供たちの作文を最後まで聞いた。
帰りの支度が終わるまで、僕は玄関の外で待った。
赤ずきんは友達と一緒に出てきて、「またね」と手を振ってから、僕の隣に並んだ。校門を出るまでは、何も話さなかった。僕も、何から伝えればいいのか、少し迷っていた。
「……怒った?」
先に口を開いたのは、赤ずきんだった。
「何を?」
「朝のこと」
「ああ。あれは、明日から少し頑張る」
「……少し」
「急には変われないから」
赤ずきんは呆れたように僕を見たが、それで安心したのか、ランドセルの肩紐を握り直した。
「ちゃんと聞こえてた?」
「後ろまで聞こえたよ。最後まで、ちゃんと」
「うん」
その返事のあと、僕は少し間を置いた。
「書いてくれて、ありがとな」
「……宿題だから」
「それでも」
赤ずきんは道路の端の小石を、靴先で軽く動かした。顔を見ようとすると、ちょうどその分だけ、向こうを向く。
学校で読んだ言葉を、もう一度言わせたいわけではなかった。僕は、並んで歩く距離をそのままにした。
「待っててくれたこと、忘れた日は、ごめん」
赤ずきんが顔を上げた。
「また忘れたら、呼んで。今度はちゃんと、何分くらいかも言うから」
「……二回まで」
「三回目は?」
「自分で来て」
「わかった」
その条件なら、こちらが覚えておくしかない。赤ずきんはようやく納得した様子で、また前を向いた。
橋の手前で、冷たい風が吹いた。頭巾の端を押さえた赤ずきんの指が赤くなっていたので、僕は自分の手袋を片方外した。
「手、冷たくない?」
「……平気」
「そっか」
外した手袋を戻そうとしたところで、小さな手が、僕の指を掴んだ。
僕は何も言わず、手袋をポケットへ入れた。川沿いの道を、二人で歩いた。
「たいせい」の前を通りかかると、店の窓から亀が手を振っていた。夕食にはまだ早い時間で、うらちゃんがテーブルを拭いている。
「どうやった、参観日!」
戸を開けた亀が、待ちきれない様子で声をかけてきた。赤ずきんは繋いでいた手を放し、僕より先に答えた。
「……終わった」
「そら、見たらわかる。作文は、どうやったんや」
「読んだ」
「なかなか中身が出てこおへんな」
うらちゃんも雑巾を置き、控えめに近づいてきた。
「あの、僕のことは、出てきました?」
「ご飯を作る人は、出てきた」
「そ、そうですか」
うらちゃんの顔が明るくなった。亀がすぐに身を乗り出す。
「家を直す人は?」
「出てきた」
「そうかそうか。それならええねん」
ずいぶん満足そうだった。赤ずきんが詳しく教えるつもりはなさそうなので、僕も原稿の中身までは話さなかった。
「斗話さんは、何て紹介されたんですか?」
うらちゃんに聞かれ、僕は赤ずきんを見た。彼女は、僕の返事を待っていた。
「朝、起きない人」
亀が声を上げて笑った。うらちゃんは笑いをこらえきれず、「すみません」と口元を押さえた。
「……仕事の日は、起きる」
赤ずきんが、少しだけ強い声で付け足した。
家へ帰ると、母が台所から顔を出した。
「おかえり。どうだった?」
「ちゃんと読めたよ。母さんの肉じゃが、美味しいって」
「あら、嬉しい。じゃあ、今夜も肉じゃがにしようかしら」
「……うん」
赤ずきんは頷き、ランドセルを下ろした。母に作文を見せる約束をすると、手を洗うために洗面所へ向かう。
僕も鞄を置き、袖をまくった。台所の籠には、まだ皮のついたじゃがいもが並んでいる。
「手伝うよ」
「じゃあ、それお願い。今日、感化されて帰ってきたのね」
「一言多いな」
母は笑って、皮むき器を渡してきた。僕が二つ目のじゃがいもを手に取った頃、赤ずきんが洗面所から戻ってきた。
「斗話」
「ん?」
「今日、来てくれて、ありがとう」
こちらを見たのは、ほんの一瞬だった。赤ずきんはすぐにランドセルから筆箱を取り出し、いつもの食卓へ向かった。
僕は持っていたじゃがいもを籠に戻し、その背中へ答えた。
「うん。また、呼んで」
赤ずきんが、椅子を引きながら頷いた。台所では母が、三人分の鍋を火にかけていた。




