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語らない仕事 ―人がもう一度、立つ場所を探す仕事―  作者: 比良野 瞬
第1章 つかめない手

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第1話 膝に置かれた手

 冬の午後一時を少し回ったころ、

 総合病院の外壁は淡い灰色に沈んでいた。

 正面玄関を出入りする人影はまばらだ。


 病棟では、昼食の時間が続いている。

 四人部屋の窓から、冬の光が白く差し込んでいる。

 暖房の送風音が、低く続いている。

 隣のベッドでは、誰かがテレビをつけたままにしている。


 テーブルの上に、両手が置かれている。

 肘から先だけが、そこにあるように見える。

 指は、思うように閉じない。


 黒いカフで手に固定されたスプーンが、皿に触れる。

 金属の乾いた音が鳴る。


 うまく持ち上がらない。

 力を入れているつもりなのに、指は閉じない。

 カフのスプーンですくおうとする。

 すくえない。


 皿の縁に当たる音だけが、何度も繰り返される。

 そのたびに、手首がわずかに震える。


 うまくいかないことよりも、うまくいかない時間のほうが長い。


 刻まれたおかずが、皿の縁からこぼれる。

 床ではなく、トレイの上に落ちる。

 拾えない。

 胸の奥が、わずかに熱くなる。


 隣の患者が味噌汁をすする音がする。

 誰かが笑っている。


 しばらく、そのまま皿を見る。

 手首を反らしてみると、指がわずかに曲がる。

 スプーンが、少しだけ持ち上がる。

 だが、口元まで届かない。

 腕が重く、途中で止まる。

 呼吸が浅くなる。


 口の中には、まだ何も入っていない。

 喉は渇いている。

 左手をコップに手を伸ばす。

 コップの把手に指をひっかけて持ち上げようとする。

 だが、左手は思うように閉じない。

 コップが傾き、水が少しこぼれる。

 テーブルに広がる。

 拭くことができない。

 視線を落としたまま、しばらく動けない。


 ナースコールは、ベッドの枕元にある。

 押そうと思えば、押せる。

 だが、指が届くまでの距離が遠い。

 ほんの少しの距離なのに、そこまで手を伸ばす気にならない。


 胸の奥に、何かが沈む。

 怒りではない。

 焦りでもない。

 ただ、沈む。


 テーブルの前に座っているのは、黒川正利、四十三歳。

 市役所に勤める職員だった。


 以前は、迷う前に手が動いていた。

 市役所の窓口で書類を受け取る手。

 決裁印を押す指。

 パソコンのキーボードを叩く音。

 長女を抱きかかえる手。

 長男の手を引く手。


 あの日は午後から、雨が降っていた。

 宿題の読書感想文に使う本を買う約束だった。

「今日じゃないとダメ?」

 聞いたのは黒川のほうだった。


 結局、長男の孝弘と、

 雨の中、近所の本屋へ向かっていた。

 右手で孝弘の手を引いていた。

 黄色い傘を、自分が持っていた。


「パパ、はやく」


 孝弘の声とブレーキ音が重なる。

 雨に濡れた交差点。

 手が、離れた。

 宙を舞う黄色い傘。

 何かをつかもうとした。

 何をつかもうとしたのか、分からない。

 ただ、空気だけが指の間を抜けた。

 最後に見た信号は赤だった。


 そして、視界は白く途切れた。

 そこから先は、覚えていない。

 気がついた時から、手足は自分のものではなかった。


 皿の縁に、光が揺れている。

 そこに、自分の顔がぼんやり映る。

 頬がこけている。

 髭が伸びている。

 こんな顔をしていたか。


 両手は、思う形にならない。

 空腹はあるはずなのに、続かない。


 夜も眠れていない。

 目を閉じると、交差点の光がにじむ。

 戻らなければならない場所がある。

 そう思う。

 そう思うだけで、何も動かない。

 思考だけが少し前に出て、すぐに戻る。


 市役所の机は、まだ自分のものだ。

 途中で止まっている業務がある。

 まだ幼い子どもたちがいる。


 そこで、思考が止まる。

 考えきれない。


 そのとき、カーテンがわずかに揺れた。


「黒川さん」


 病室の入口に、看護師が立っている。

 三十代半ばほど。

 髪を後ろでひとつに束ね、白衣の袖をまくっている。

 名札には〈相馬〉。

 目の下に薄い影があるが、声は落ち着いている。


 相馬はトレイを見下ろす。

「今日は、あまり進んでいませんね」

 黒川は小さく首を振る。


 相馬は少し待つ。

「ゼリーなら、もう少し食べられますか?」

 首を横に振る。

「わかりました。では下げますね」

 相馬はトレイを見て、摂取量の記録に目を落とす。

 半分にも届いていない。

「あとで栄養士さんとも相談しますね」

 そう言って、相馬は静かに下膳する。

 トレイや自助具が片付けられる。

 テーブルの上に、両手だけが残る。

 軽くなったはずなのに、何も軽くならない。


「三時からカンファレンスです。迎えに来ますね」

 相馬が退室するときに今日の予定を告げた。

 黒川は、小さくうなずく。


 自分のことを話す時間らしい。

 そう言われた気がする。


 午後三時までは、まだ少し時間があった。

 廊下を行き交う足音が、途切れ途切れに聞こえる。

 病室のドアが控えめに開いた。

「……ごめんね、遅くなって」

 妻の由美だった。


 肩までの髪を後ろで束ねているが、結び目が少し崩れている。

 厚手のコートの袖口から、子どもの小さな手袋がのぞいていた。

「今日、孝弘は来られないけど、綾音はあとで連れてくるね」


 言い方が、少しだけ速い。

 黒川はうなずく。

 孝弘が来られないことに、何も尋ねなかった。


 由美はベッド横の椅子を引き寄せる。

「さっき高瀬先生と話したよ。状態は安定してるって」

 状態が安定。

 何を基準に。

 黒川は考えようとするが、途中で止まる。


「市役所の休職の手続き終わったって連絡あったよ。ちゃんと戻れるように、今できることをやろうね」

 戻れる、という言葉が先にある。

 黒川は、うなずく。

 家のことを聞こうとする。

 綾音は元気に幼稚園に行っているのか。

 孝弘は学校で何をしているのか。

 由美はちゃんと食べているのか。


 だが、言葉が出ない。

 由美はバッグから紙を取り出す。

「これ、高瀬先生から貰ったカンファレンスの資料だよ」

 紙には、びっしりと文字が並んでいる。

 黒川はそれを見つめる。

 自分のことなのに、自分の知らないことが書かれている。

「ちゃんとやれば、きっと元に戻れるよね?」

 問いかけというより、確認だった。


 黒川は、わずかにうなずいた。

 その動きは、気づけないくらい小さかった。


 ノックの音がする。

「黒川さん、そろそろよろしいですか」

 相馬が何かのファイルを持って立っている。

「車いす、こちらで押しますね」

 由美が一瞬、手を止める。

「はい、お願いします」

 相馬が車いすのブレーキを外す。

 ロホクッションがわずかに沈む。


 病棟の廊下へ出る。

 蛍光灯の光が、均一に続いている。

 床に映る車いすの影が、揺れる。


 ナースステーションの前を通る。

 誰かの笑い声が、一瞬だけ聞こえる。

 黒川は、自分の手を見る。

 膝の上に置かれた両手は、静かだ。


 車いすは、病棟の奥にある会議室の前で止まる。

 中から、低い声が漏れている。

 自分のことを話す声だと、頭では分かる。

 だが、まだ遠い。

 相馬がドアをノックする。

「失礼します。黒川さんをお連れしました」

 会議室のドアが開く。


 黒川は、膝の上の手を見る。

 指は、思う形にならない。

 逃げたい、という言葉が浮かぶ。

 すぐに消える。


 まだ、何もつかめていない。


 ——第1話 終


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