ある病院の朝
失われた機能を嘆くのではなく、残されたものを数える。
動かない手の中に、まだ「役割」が残っていないかを探る。
治るかどうかの話は、いつも少し外側に置いた。
それが、彼の仕事だった。
地方都市の朝は、都心より少し遅い。
駅前の通りが動き出す前に、山の稜線だけが先に明るくなる。
総合病院の白い外壁が、朝の光を淡く返していた。
正面玄関のガラスに、薄い空の色が映る。
人影はまだ少ない。
救急車の音も、今は聞こえない。
擦れた白衣を着た男が、職員用の出入口へ向かって歩いていた。
無精ひげが残り、髪も整えられていない。
歩幅は一定で、急ぐ様子はない。
誰かと目が合っても、会釈以上のことはしなかった。
その男は、院内へ入る。
朝の廊下はまだ静かだった。
ワックスの匂い。
夜勤明けの看護師の小さな声。
遠くで台車の車輪が鳴る。
男はそのままリハビリテーション室へ向かいかけて、足を止めた。
廊下脇のデイルームに、車いすの高齢男性患者がいた。
朝食のトレイが前にある。
トレイの奥にある食器にスプーンを伸ばしている。
おかずをすくおうとして、食器の縁に当たる。
もう一度。
また金属の乾いた音が鳴る。
患者は何も言わずにスプーンを下した。
ただ、少しだけ肩に力が入っていた。
男は近づく。
「……少し、失礼します」
返事を待たず、車いすを数センチ引いた。
トレイの位置をずらす。
皿の向きを変える。
それから、畳んだタオルを患者の右肘の下へ差し込んだ。
患者が男を見る。
「肘、少し前で」
声は低く、短かった。
患者は言われた通りに腕を動かす。
さっきより、肩の位置が安定する。
男は食器の縁を指で示した。
「そこから」
患者がスプーンを入れる。
さっきより浅く、すくう。
少しだけ持ち上がる。
腕が途中で止まりかける。
だが、今度は落ちない。
一口分だけ、口元まで届く。
患者はしばらく噛まずにいた。
驚いたように、口の中のものを確かめている。
男はそれを見ていたが、褒めなかった。
「……そうです」
それだけ言う。
患者は小さくうなずいた。
肩の力が、ほんの少し抜ける。
男はもう一度、皿と腕の位置を見た。
それ以上は触らず、歩き出す。
励ましの言葉はない。
頑張りましょう、とも言わない。
できないことは、確実に増えていく。
生活の時間は崩れ、もとのやり方は使えなくなる。
多くの患者が、自分の居場所はもうないと思ってやってくる。
それでも、終わりにしてしまうには早いものがある。
男はただ、そこに立つ。
手順を変える。
視線を変える。
方法を変える。
そうして、もう一度、その人の「場所」を作り出していく。
廊下の突き当たりで、男は進路を変えた。
リハビリテーション室のドアを開ける。
中にはまだ誰もいない。
並べられたマット。
壁際の平行棒。
静かに置かれた道具たち。
このあと、誰かが来る。
できなくなったと思っている生活を抱えて。
終わったと思っている人生を抱えて。
まだ、どう支えられるかも分からないまま、男はいつもの場所に立つ。
そのとき、遠く、救急搬入口のほうで、タイヤの短い擦過音がした。
男の手が、白いドアの縁で一瞬だけ止まる。
ほんの一拍。
だが次の瞬間には、何もなかったように室内へ入っていた。
朝の光が、誰もいない平行棒に細く落ちている。
男は黙ったまま、その光の中に立っていた。




